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四章

17

 ラキシエルとセインが出会ったのは、奇跡に近い偶然だった。
 だからラキシエルは、もう一度セインに会える日が来るわけがないと思っている。再び奇跡が起こる事などあるはずがないと――これが永遠の別れだと、覚悟していた。
 セインも同じだったのだろうか。名残惜しんだが最後、未練に引き止められると思ったのか、旅立つと決めてからははやかった。その日のうちに荷物をまとめ、翌朝旅立つと言い残し、最後の夜を過ごしたのだ。
 次の日の朝目覚め、食堂に足を運んだラキシエルは、無表情で朝食を口に運ぶセインを見た時、あまりにいつもどおりすぎて、すべてが夢なのではないかと一瞬だけ錯覚した。けれど彼は愛用の皮鎧を身につけていたし、席の後ろには旅の荷物と武器がまとめられていて、やはり別れの時はもうすぐなのだと、ラキシエルは思い知った。
 食事の間、ふたりはひと言も言葉を交わさなかった。無視をしているわけではなく、互いを認識していながら、あえて声を出さなかったのだ。出せなかったのかもしれない。自分の事ながらラキシエルは、その違いを見つけられなかった。
「毎日見てたから、あんまり気付かなかったけど、こうしてみると、やっぱり成長したよね。かろうじてあった可愛げがなくなって、もう立派な青年だ」
 ようやく声をかけたのは、旅立つセインを見送るために、ふたり並んで町の入り口に立った時だ。
「それは、いい成長なのか」
「もちろんだよ」
 鎧を身につけ武器を手にするセインの姿は、いっぱしの戦士の風格がある。共に旅する日々の中、戦士としての訓練を絶やす様子はなかったし、もはやゴブリン程度の魔物に負ける事はないだろうとラキシエルは思った――が、それは口にしなかった。思い出したくない事を思い出し、セインが傷付くだろう事が判りきっていたからだ。
 ラキシエルはセインに隠れるように苦笑し、表情を整えてから、セインの正面に立った。真っ直ぐにセインを見上げると、セインも真っ直ぐな視線を返してくれた。
「最後に言いたい事があるんだ」
 セインは少しだけ間を空けてから頷いた。
「昨日僕は、君が死を望むような瞳をしていたと、言っただろう? 実は、君と出会って、君の悲しい瞳を見た時から、僕はずっと考えていたんだ。生きるために人は生まれたはずなのに、どうして死を望む人が居るんだろうって。僕もフィアナを失った時に、いっそ死んでしまいたいと思ったからさ、答えのひとつは、案外簡単に判ったんだ。自分自身が嫌いだから、自分なんて消えてなくなってしまえばいいって思うんだ。僕はそうだった。君も、そうなのかな?」
 セインは先ほどよりも長い時間、無表情のまま微動だにせず己の中で逡巡していたが、やがてはっきりと頷いた。
「そっか。それじゃ訊くけど、君は今も、自分の事が嫌いなのかな?」
 今度は迷いを少しだけ表情に映したセインは、更に長い時間をかけて頷いた。
 セインを追いつめるものは過去の過ちか、それとも過去に彼に影響を与えた者たちの記憶なのか――どちらにせよ、セインが頷くのは予想通りで、だからラキシエルは、大切な言葉を伝える決意を固めた。
「セイン。これから僕が言う事を、けして忘れないで」
 ラキシエルは精一杯の微笑みを浮かべながら言った。
「君がどんなに君自身を嫌っていても、僕は君が好きだからね。フィアナだって、君の大切な人たちだって、そう思っているに決まってるから」
 氷色の瞳がゆっくりと見開かれ、ラキシエルを凝視する。ラキシエルは優しく微笑みながら、セインの眼差しを受け止めた。
「生きる事が辛いなら、生きる事が辛いと感じたら、僕のために、フィアナのために――君の大切な人のために、生きてほしい」
 ラキシエルは怯えていた。伝えたい想いが、この言葉で本当にセインに伝わるのだろうかと。
 伝わってほしかった。今まで発してきたどの言葉よりも、大切な言葉なのだから。
「君は、僕やフィアナの事が好きかな?」
 セインは難しい顔をしたが、今度はさほど時間を消費せずに頷いた。
「僕はさ、わがままかもしれないけど、好きな人には、僕が好きなものを好きになってほしいんだよね。だから、僕が好きなものを、君が嫌ったり、卑下したりするのは、嫌なんだよ」
「なっ……」
「お願いだ。君も、好きになって。僕や、フィアナや――君の大切な人が、愛したものを」
 すべてを語り終える前に、ラキシエルは知った。ラキシエルの想いが、セインに伝わった事を。氷色の瞳から零れ落ちる、透明な雫によって。
 目の前で涙を流す事をためらわないほどの信頼が、自分とセインの間に生まれていたのだと気付くと、ラキシエルは歓喜した。泣きだしたいほど嬉しかった。けれど義眼からは涙が出ず、顔をくしゃくしゃにして笑う事がラキシエルにできる全てだった。
「ラキシエル」
 頬を伝うものに気付いたセインは、照れくさそうにそれを拭い、ラキシエルの名を呼んだ。
「なんだい?」
「俺は、この先誰かに、一番大切な人は誰だと問われても、お前の名を出す事をしないだろう」
 別れ際にかけられる言葉としては白状と言ってもいいくらいだが、ラキシエルは微笑んで受け入れた。それがセインの幸せのためだと思ったし、自分もきっと同じだろうと思ったからだった。
「だが、一番大切な言葉は何かと問われれば、今お前がくれた言葉を思い出すだろう。お前の言葉は、これまでの、これからの、俺を救ってくれたから――きっと、ずっと、忘れない」
「ありがとう」
「今だから言うが、これでも俺は、お前を尊敬していたんだ。お前を目標に、生きていく事にする」
 僕なんかを目標にしてはいけないよ。
 そう返そうとして、けれど喉に言葉がつかえて、音にならなかった。自身の情けなさや頼りなさ、弱さを、嫌と言うほど理解しているはずなのに、それでもセインの言葉が嬉しいと思ってしまったのだ。
「ありがとう」
 気丈であろうとしたラキシエルは、喜びや悲しみをひた隠しにし、なんとかそのひと言をひねり出す。辛かったが、そうしなければならなかった。自分がセインが目標とする人間であるならば、セインより立派でなければならないのだから。
「それは俺の台詞だ」
 ふたりはそれを最後に黙り込み、一瞬だけ微笑みあった。
 そうしてセインは背を向けて、町を出ていく。別れの言葉は必要なかった。それはすでに、昨日終わらせていたからだ。


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