四章
15
ライネの処置をすませた後、ラキシエルが真っ先に望んだのは、体を洗う事だった。首から下のほとんどがライネの血にまみれていたからだ。絡みつく感覚や匂いには慣れていたが、気分のいいものではない。
嬉しい事に、治療後すぐに風呂に入れるよう、神殿の者たちが準備を整えてくれていた。ライネを救った恩返しなのか、単純に血まみれのラキシエルに徘徊される事が迷惑だったのか、相手の意図は判らないが、とりあえずありがたかったので、ラキシエルは遠慮なく湯を使い、血を洗い流した。
風呂を出ると、血まみれの服がなくなり、代わりの服が用意されていた。ありがたい事だと、ラキシエルはさっそく清潔な服に袖を通す。あまり柔らかい布地ではなかったが、意外に肌触りがよく、ラキシエルはいい気分になった。
濡れた髪を拭きながら、ラキシエルは考える。時間はもう真夜中なので、おとなしく部屋に戻って寝るか、ずうずうしく食べ物を求めてみるか。結局夕食を食べそこねたので、とにかく腹が減っているのだが、かなり疲れている今ならば、空腹をごまかして眠ってしまえる気がした。
「先生!」
通路に出て、すぐに声をかけられた。神官たちが、ラキシエルを待っていたようだ。はじめて見る白髪の男性と、最初に案内してくれた中年の女性のふたり。ジェシカと呼ばれていた比較的若い女性は居なかった。ライネのそばについているのだろうか?
「先生って、やめてください。こそばゆいです」
「ですが……」
「あ、そうか。僕が名乗っていないのが悪いんですね。ラキシエルです」
「ラキシエル先生、ですか」
どうやら「先生」と呼ぶのをやめる気はないらしい。ラキシエルは一気に面倒くさくなったので、好きに呼ばせるようにした。
「いったいどうしたんですか? こんなところで待ち伏せして」
「もちろん、お礼を言うためにです。ライネを助けてくださって、ありがとうございました」
「気にしないでください。それが僕の使命ですから――ああ、でも、その気持ちに甘えて、少しわがまま言っていいですか?」
「何でしょう」
ラキシエルは照れ隠しに笑った。
「夕食を摂りそこねてしまって。何か余りものとかありましたら、食べさせていただけるとありがたいです」
「それでしたら、どうぞ食堂へ。助手の方もご案内して、今用意しておりますから」
「助手?」
「違うのですか? 淡い銀色の髪の、背の高い……」
「ああ。ええ、違うんですよ。彼は友人です。手伝ってくれるだけで」
友人と言うのも少し違う気がしたが、他にどう説明していいのか判らず、ラキシエルは半ば笑ってごまかしながら、足を食堂に向けた。
食堂には、神官たちや子供たち全員が揃って食事をするためだろう、中心に大きな卓があった。そこに着いているのは、今はひとりだ。セインは一番はじの席に座り、湯気が立つスープを口に運んでいた。
ラキシエルがセインの正面に座ると、すぐにラキシエルのためのスープが出てきた。そんなに裕福な暮らしをしているわけではないのだろう、具の少ないスープだったが、温かく、味もなかなかで、ラキシエルは充分満足した。
「私たちだけでは戸惑うばかりで、ライネの命を救えなかったかもしれません。先生が今日この町に来てくださって、本当によかった。これこそが、神の思し召しなのでしょう」
「大げさですよ。今日までこの町や近くの村の人たちを守ってきたのは貴方たちなんですから、僕が居なくても、ライネちゃんの命は救えたでしょう」
「命は救えたとしても……」
神官たちは全てを語らなかった。だがラキシエルは、彼らが言わんとする事を察し、皿と口の間を素早く往復していた匙を置き、眉間に皺を寄せた。
「そうですね。正直に言って、彼女の足はいい状態ではないです。放っておいたら、歩く事もできなくなったでしょうし、これからだって、きちんと骨が繋がったか見極めて、それから歩く訓練を再開しないと、どうなるか」
「やはり、そうですか……」
ラキシエルは精一杯の笑みを作って神官たちに笑いかけた。
「悲観的にならないでください。誰かがちゃんとライネちゃんの面倒を見れば、問題ないんですから」
笑顔でそう言ったラキシエルは、笑顔を保てないほど気まずくなり、覗くようにセインを見た。
セインは聞いていなかったのか、それとも聞いていなかったふりをしているのか、何事もなさそうに食事を続けている。ラキシエルの視線に気付いた様子もない。
彼は判っているのだろうか。ちゃんと面倒を見られる人を、医者の居ないこの町に求めることなどできはしないと。ライネを本気で救おうと思うならば、ラキシエルがこの町に滞在し続けるしかないのだ。
今まではひとつの町に長くても五日程度しか居なかったが、ライネの完治を待つならば、そうはいかない。ラキシエルはそれでもいいかもしれないが、セインは駄目だろう。人を探している彼が、ろくに旅人が来ない町に長期滞在するなど、ありえない。
だからと言ってラキシエルは、自分だけがこの町に残り、セインひとりを送り出せばいいとは、考えられなかった。
怖いのだ。セインをひとりにする事が。
四年の月日をかけても、セインは探し人を見つけられなかった。時おり見かけたとの情報を手に入れる事はあったが、その情報の真偽は判らない。そんな日々をひとりで過ごすうちに、セインが希望を失ってしまったら――もう探し人たちは生きていないのだと諦めてしまったら、セインは再び強い闇に飲み込まれてしまうのではと思うのだ。その闇に生気を食い尽くされたら、人知れぬ場所で果ててしまうかもしれない。
それは、許せなかった。ラキシエルにとって、何より許せない事だった。
ライネは翌日の昼過ぎに目を覚ました。
成人を目前にした年頃だと言うのに、少年のように髪を短く切り、率先して木に登ってみせるほど活発な少女は、しかし目覚めてからもおとなしく、寝台に横になっていた。動くと苦痛にうめく事が判っているからだろうか? そうだとすれば、ラキシエルと出会ったばかりの頃のセインより年下のはずの彼女は、あの頃のセインよりよほど賢明だとラキシエルは思った。
だが、利発そうな輝きを秘めた橙色の瞳が暗く翳り、眩しそうに窓の外を眺める様は、弱った体を引きずりながら前に進んでいかつてのセインの姿より、よほど痛々しい。
目を反らすようにラキシエルは、がっちりと固定されたライネの足だけを見下ろした。
「ねえ、先生」
ライネの呟きは、直視できない自身の弱さを責めているように、ラキシエルは感じた。
「なんだい?」
「外に行っちゃだめ?」
「だめだねぇ」
ラキシエルは大げさに肩を竦めた。
「だいたい、この足でどうやって行くつもりだい?」
あて木やら、何重にも巻いた包帯やらで、本来の二倍以上の太さになっている足をラキシエルが指差すと、ライネは大きなため息を吐く。わざと、ラキシエルに聞かせるように。
「自分で歩いて行く気はないよ。誰かに連れてってもらう。どうせこれからは、そうなんだろ?」
「悲観的な事を言うなぁ。どうしてそう思うのさ。誰かにそう言われた?」
ライネは何も言わなかったし、頷きも、首を振る事もしなかった。
ライネが言おうとしないなら、これ以上責め立てるべきではないと思いつつも、ラキシエルは激しく立腹していた。もし誰かが真実をライネに伝えたのだとしたら、その人物を探し出して殴りつけてやりたいくらいに。患者をいたずらに不安がらせるのは、ラキシエルのやり方とは相反するし、暗い未来が待っているかもしれない少女を、よりどんぞこに突き落とすのは、鬼畜の所業だと思うのだ。
「かつてはロマール一の名医と言われた僕に対して、最大級の侮辱だな、それは」
からかうような表情を浮かべ、ため息を吐いてからそう言うと、ライネは顔をあげてラキシエルを見つめた。
真っ直ぐに見つめ返したラキシエルは、両手で、小さなライネの手を包み込む。
「大丈夫、安心して」
ラキシエルは優しく微笑みかけた。
「僕が君を治してあげる。この、ロマール一の天才医師、ラキシエル・アイオンがね」
手に力を込めて熱を伝えると、不安げにかげったライネの表情が、少しずつ明るくなっていく。うるんだ瞳には光が宿り、不安に震える唇には笑みが浮かんだ。
「先生みたいに頼りない人が一番になれるなんて、ロマールはどこの田舎なのかな」
ライネの口調は本気ではなかった。ロマールが大都市である事を知っていながら口にした、ラキシエルをからかうための嫌味なのだと、表情を見れば判る。
だからラキシエルは何も言わず、ライネを軽く小突き、笑顔で応えた。
Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.