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四章

13

 長い旅をした。
 けれど時間はあっと言う間に過ぎていったので、あまり長い旅をしているつもりはなかった。ある日ふと思いつき、ふたりで旅をはじめてからの年月を数えた時、もう四年近く過ぎていると気付いて驚いたほどだ。
 時間はセインに優しく作用したのだろう。少しずつだが、セインは変わってきていると、ラキシエルは感じていた。ラキシエルのそばで医療活動に従事――セインは医学書に目を通す事はあっても、本格的に医学を学ぶ気がないらしく、簡単な治療の手伝いや力が必要な仕事、雑用に協力してもらっただけだが――し、多くの命が救われる様を見て、命の大切さを理解したのかもしれない。時に失われる命を目にし、尊さを知ったのかもしれない。何にせよ、表情や目の輝きが、はじめて出会った頃と比べて確実に明るくなっていて、それがラキシエルは嬉しくて仕方なかった。
 出会った頃のセインの目は、どこか冷たく、生気が感じられなかった。それはよく知らない人物への警戒とは別に、何かしらの闇を抱えているせいだろうと、ラキシエルは感じていた。
 セインはこれまで自身の過去を詳しく語ろうとしなかったので、ラキシエルに彼の闇の正体を知るすべはない。けれど、ときおり彼の話に登場するアーシェリナの、違和感を覚えるほどの眩さが、闇の正体に関わっているのではないかとラキシエルは思っていた。光が明るければ明るいほど影が濃くなるように、アーシェリナが美しすぎるあまりに自分を卑下しているのではないかと――そう言えば出会ってすぐの頃、彼は言っていたか。「俺なんかを夫などと言ったら、アーシェリナ様に失礼だろう」と。
 セインがそこまで自身とアーシェリナの間に差を感じているのだとすれば、共に逃げた事や、関係を持った事すら忌まわしく思っている可能性もある。ならば、人が最も命の輝きを知るだろう、血の繋がった子の誕生と言う奇跡のような幸福は、彼を救うどころかより深い闇に叩き落としたのではなかろうか――それが、ラキシエルにとって一番しっくりくる予想だった。
 理由はともかく、セインの中にある闇が、彼の生気を食い散らかしている事は疑いなかった。ラキシエルはときおり、セインが消えてしまうのではないかと怯えた。彼が死を望んでいるようにも見えたのだ。ひとりで放り出してしまえば、すぐに果ててしまうのではないかと、不安になるほどに。アーシェリナや血を分けた娘の存在がなければ、彼はラキシエルと出会う前にとっくに死んでいたのではないだろうか――けれどラキシエルの予想では、セインを追いつめるものもまたアーシェリナや娘の存在であり、セインを支えるものの危うさに、頭を抱える日々が続いていた。
 だから今、ラキシエルの心は、それなりに満たされていた。闇はまだセインの中でくすぶっているかもしれないが、死への願望にも似た儚さは完全に失われているように見えたから。どこかにあるだろう希望を信じて生きられるまでに、セインは変わっている。そう思えるからだった。
 フィアナの代わりに、兄のように、セインを見守っていこう。彼が本当の安らぎを得るその日まで。
 それはラキシエルの中に新たに生まれた、願望だった。

 ラキシエルたちは共に旅する中で、主に大陸西部にある街や村を渡り歩いた。いくつの町を越えたのか、ラキシエルは覚えていない。きっとセインも数えていないだろう。
 ある日もラキシエルたちは、土をならしただけの道を延々と進んでいた。太陽が西に傾いて、赤く色付きはじめた頃、道が開け、小さな町にたどりつく。
「すみません。宿屋はどちらにあるでしょう」
 二晩野宿が続いていてすっかり疲れていたラキシエルは、最初に出会った町民に、まずそれを訊ねた。
「旅の人? 悪いけど、この町に宿屋はないよ」
「えっ」
「こんな小さな町だし、街道からもかなり外れてるだろ。近隣の村から来るやつらは結構いるけど、やつらは泊まりがけでは来ないし、あんたたちみたいな旅人が来る事なんて滅多にないからなあ」
 落胆をできるかぎり隠して、「そうですか……」とラキシエルは返した。
 旅を続けているのだし、昨日一昨日もそうしたので、野宿は慣れている。だが、村や町にたどりついたなら、ゆっくり休める宿に泊まりたいと言うのが本音で、ささやかな希望を裏切られた事に、ラキシエルは切なさすら感じていた。
「泊まるところが必要なら、マーファ神殿に行くといいよ」
 ラキシエルは無意識に地面を見下ろしていたが、村人の言葉に反応して顔を上げた。
「そこなら泊めていただけるんでしょうか」
「ああ。たまーに来る旅人は、みんなそこで世話になってるみたいだよ。この道、道なりにまっすぐ行けば、そのうち見える。町のはじっこだし、この町で一番大きい建物だから、判りやすいと思うよ」
 男性が指差す方向を目で追ってから、ラキシエルは御者台に座ったままのセインに振り返る。理解したとばかりにセインが軽く頷いたので、ラキシエルは男性に向き直り、深々と頭を下げた。
「ご親切にありがとうございます」
 男性が手を降りながら立ち去って行くのを確かめてから、ラキシエルは馬車に戻った。
 ラキシエルが馬車に戻ると、セインは即座に馬車を走らせる。男性が示した通りの道を進むと、この町の者にとっての旅人の珍しさを証明するように、通りすがる者たちの眼差しが次々と向けられた。
 無愛想なセインに代わってラキシエルが軽く挨拶をしたり、子供たちに手を振っているうちに、マーファ神殿に到着する。町民自ら小さい町と言い切るだけあって、町外れにあると言う神殿に辿り着く前に、ほとんど時間はかからなかった。
 馬車を降り、まじまじと神殿を見上げる。古い建物のようだが、丁寧に手入れされているのか、小奇麗だった。小さな町にあるにしては割と大きく、人の出入りも多そうだ。
 なぜか花でなく数々の薬草が生えた広い花壇の脇を通り抜け、ラキシエルたちが人を探すと、大地母神の聖印を首から下げた女性が、ふたりを迎えてくれた。中年の女性で、いかにもマーファの使徒と言った、優しい母の雰囲気を持つ人だった。
「突然申し訳ありません。旅の者なのですが、宿を貸してはいただけませんでしょうか」
 マーファの神官は優しく微笑み頷いた。
「騒がしいところですが、それでもよろしければ、どうぞお入りください」 
 神殿と騒がしいところの印象が一致しなかったラキシエルは、疑問を抱きながらも、神官に案内されるがままに足を踏み入れた。
 入れば、疑問はすぐに解消した。あちこちから駆け回る足音や子供の声が聞こえたかと思うと、曲がり角の向こうから飛び出してきた子供に激突されたのだ。
「ところかわまず走り回ってはいけませんよ!」と、神官は優しい声を張り上げて子供を注意した。それからラキシエルに振り返り、深々と頭を下げた。派手によろめいたものの、後ろに居たセインに支えてもらって転ばずにすんだラキシエルは、少し申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい。ここは、町や近隣の村々の、さまざまな役割を担っているのです。旅人のための宿であり、病院であり、孤児院でもあります。ですから、何人かの子供たちはここで暮らしているのです」
「色々大変なのですね」
「田舎の小さな町には、ひとつひとつ施設をつくる余裕がありませんので……お恥ずかしいかぎりです」
「そうですか? いいところじゃないですか」
 褒め言葉は慰めなどではなく、ラキシエルの中から生まれた素直なものだった。
 この神殿が孤児院であると言うのなら、今ラキシエルにぶつかってきた子供は、孤児なのだろう。だが、とても明るい表情で、元気よく四肢を伸ばし走っていた。不遇な運命の元に生まれてきたなどと、言われなければわからないほどに。
 それはとても素晴らしい事だと、ラキシエルは思うのだ。
「そう言っていただけると救われます。せめて、ここで暮らす子供たちや旅の方にとってよい場所であれればと思いながら、日々をすごしておりますから――神の奇跡を起こせる者はなく、医学の心得がある者もいない、そんな場所を任されたものとして」
 ラキシエルは少しばかり気まずくなり、口を噤んだ。
 長い旅の中で、医者のない町や村が想像していた以上に多い事を、ラキシエルは知った。「ずっと残って欲しい」と引き止められた事は、数え切れないほどある。
 そんな日々の中でラキシエルは、財力にものを言わせて神官や医者の力を自由に使える者たちへ、怒りを覚えた事もある。だがすぐに思い直した。結局のところ一番悪いのは、財力に踊らされる神の使徒や医者の方なのだろう。かつてのラキシエル自身のように。
「医者はいなくても、どなかた薬草に詳しい方がいるようですね」
 嫌な気分をごまかすようにラキシエルが話を振ると、神官は不思議そうな顔でラキシエルを見上げた。
「どうしてお判りに?」
「花壇に薬草ばっかり生えていたので。見栄えがいいものでもないのに何だろうと思っていたんですよ。ここが病院代わりだと聞いて納得しました」
「なるほど、そうですか」
 神官の女性は小さく頷いた。
「あんなに沢山の種類を育てるのは、大変でしょう」
「もちろん、それなりに手間はかかりますが、この辺りの気候で育ちやすい薬草は多いようで、その点では恵まれているようです。近くの森に育つ草や木の実の中にも、薬になるものがありますし。ですから、病気や簡単な怪我にはある程度対応できるのです――と、暗い話になってしまいましたね」
「いいえ、そんな」
「こちらが、お部屋になります」
 話を切り上げると同時に、神官は足を止める。目の前にある扉を開くと、部屋の中をラキシエルたちに見せるように、体をずらした。
 寝台がふたつと荷物をしまうための棚があるだけの質素な部屋だが、やはり掃除や手入れが丁寧に行き届いている。心地よさそうな空間で、ラキシエルはひと目で気に入った。
「狭い部屋で申し訳ありませんが、どうぞご自由にお使いください。後ほど食事の準備が整いましたらお呼びします」
「ありがとうございます。色々、お世話になります」
 神官は一礼すると、部屋の扉を閉めて立ち去る。
 ラキシエルは、放り投げるように荷物を手放して上着を脱ぐと、寝台に腰かけた。すると、馬車の荷台とは違う柔らかな感触が心地よさのせいか、野宿続きの旅の疲れのせいか、すぐに睡魔が襲ってきた。


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