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四章

12

 腹を割って話をしたからだろうか。セインはおとなしくラキシエルの言う事を聞くようになり、ラキシエルの目を盗んで部屋を出ようとしなくなった。
 おかげでラキシエルもゆっくり休めるようになった。これまではセインが無茶をしないよう、常に目を光らせておかねばならず、ろくに睡眠をとれなかったのだ。昨晩から今朝にかけて、ひさびさにゆっくり眠ったラキシエルは、軽い足取りでセインの部屋へ向かう。
「おはよう、セイン」
 部屋に入ると、セインは寝台の中で、上体だけおこして本を読んでいた。
 そろそろ軽く歩き回るくらいなら許可をしてもよい状態なのだが、彼にそう告げるとどこまでも歩いて行ってしまいそうなのが不安で、まだ何も言っていない。黙っている罪悪感をごまかすために、数日前、暇つぶしのための本を数冊置いていったのだが――彼はそのほとんどをすでに読んでしまったようだった。
「おもしろいかい?」
 馬車の旅とは言え、余計なものを持ち歩く余裕はない。ラキシエルが持っている本と言えば医学書か、旅の雑学や魔物の生態を記した書くらいしかない。後者の本ならともかく、医学書にまで目を通すほど、彼は今の状況に退屈しているようだった。
「寝ているよりはな」
 相変わらずの冷たい口ぶりでそう言ったセインは、本を閉じ、寝台横の棚の上に置いた。
 何度か繰り返すことで、そろそろ包帯を変える頃だと覚えてくれたのだろう。ラキシエルは寝台脇の椅子に座り、まるセインの腕に巻いた包帯をはずした。小さな傷はすでに消えはじめているが、大きな傷は白い肌の上にどうどうと居座っており、塞がってはいるものの、何か衝撃を与えればすぐに裂けて血が流れ出しそうに見えた。
「ねえ、セイン」
 セインは新たに巻きつけられる白い包帯に落としていた視線を僅かに上げる。
「幸せだったと、君は言ったね」
 セインが無言で頷く様子を見たラキシエルは、彼が放った言葉は嘘偽りではないのだと確信した。
 幸せだった。セインのその言葉は間違いなく、ラキシエルを救ってくれた。けれどはっきりと過去形で断言されており、それにラキシエルはひっかかっていた。
「今は幸せではないのかい?」と問うのは簡単だったが、ラキシエルがそれをしなかったのは、答えが判りきっていたからだった。
 セインには、雪山で倒れるまで共にあった、本来ならば今も彼のそばに居るべき、大事な人がいる。自分の身や命を顧みず、捜し求めるほどに。それほどの人を見失えば、不幸に決まっている。フィアナを失ったラキシエルもそうであるように。
「君は幸せにならなければいけないよ」
 腕の包帯を巻き終えたラキシエルは腰を上げ、座ったままでは手が届かない、額に巻いた包帯に手を伸ばした。
「フィアナは言っていたんだ。生きなければいけないって。別れ際、死ぬ間際のお母さんが、何があっても強く生きろって言ったからって。だから、君は幸せにならないといけないんだ。フィアナは命尽きるその時まで、君の幸せを願い続けていたんだから」
「そんなものは」
「勝手にフィアナが願っていただけだって? まあ、それはもっともだ」
 頭の包帯を巻き終えると、ラキシエルは椅子に座りなおし、ひと息つく。そして小さく微笑むと、氷色の瞳は少しの動揺を浮かべた。
「フィアナの遺言って言うのが気に入らないなら、命の恩人である僕の命令って事にしよう」
「結局強制か」
「いいじゃないか、別に。君に不利益を押し付けるわけじゃないんだから」
 セインは気に入らない様子でラキシエルを睨んでくるが、ラキシエルは作りなれた笑顔でかわす。どんな迫力であろうと、押し切られてやる気は毛頭なかった。
「そのためのひとつの手段と言うか、提案なんだけど――あ、そうそう。その前にひとつ聞いておくど、君、無一文だよね?」
 再び動揺したセインの眼差しは、怖いどころかかわいらしいくらいだった。
 セインは慌てて部屋の隅にまとめて置いてある荷物に目をやるが、探すまでもなく、その中に財布のたぐいは入っていなかった。一緒に行動していた少女が持っていたのか、雪の中に落としたのだろう。
「だからね、君がよければなんだけど、しばらく一緒に行動しないかい? お互い旅をする目的があっても、目的地は決まっていないから、相手の行き先を制限する事にはならないし、損はないと思うんだ。僕は金銭的に余裕があるし、君は力とか体力とかありそうだから、お互いに足りないところを補えそうだしね」
「お前に金銭的な余裕があるようには見えないが」
「言うね。まあ確かに、僕は大金を持ってはいないんだけど。でもね、僕は医者で、真面目に働く医者は、それなりに人望ってものがあるんだよ。君を拾ったあの雪山を越えようとするまで、僕はこの町に滞在して、この町に住む人たちを、たくさんたくさん診たんだ。君を診ていない時は、今もね。だから僕はこの町の人たちのご好意で、食事も宿も無料にしてもらえているんだよ。ちなみに君もね。今のところ、僕のつれって事になっているから」
 ラキシエルを見下ろすセインの目が、胡散臭いものを見るかのように細まった。
 その視線を受けて、ラキシエルは反省する。結局自分は、見返りのためだけに動いていた頃と、あまり変わっていないのかもしれないと。
 笑ってごまかしながら、ラキシエルは再び包帯を手に取った。黙々と作業を続けながら、セインの返事を待つ。
 だが、一番手がかかる胸回りの包帯が変え終わるまで待っても、セインからの返事はなかった。
「そうか、ごめん」
 汚れた包帯を手に、ラキシエルはひとりごとのように呟く。
「君に恨まれて当然の僕からする提案じゃなかったね」
 セインに残された唯一の肉親を見殺しにしたのは自分だと、忘れるわけもなかったが、提案の前に思考から排除していたのは事実で、自身の愚かさに恥じ入りながら、ラキシエルは諦めまじりのため息を吐いた。
 セインの手の中に幸せが戻るその日まで、共に生き、見守り、支えたいと思った。そうして、フィアナの遺志を継ぎたいと――けれどその願いは、セインの意志を無視した、ひとりよがりなものだ。
「恨んではいない。感謝しているかもしれない」
「僕が命の恩人だから?」
 セインは首を振ってから続けた。
「助けてくれた事にも感謝しているが、それ以上に、お前を見ていると、自分に気付ける」
「? どういう意味だろう?」
「俺もお前も、大切な人を守れなかった。お前を見ていると、自分が今、情けない生き物なのだと、思い知れる。それが、ありがたい」
 感謝の言葉は誉め言葉でもなんでもなく、むしろ貶す意味を持つ言葉だと、判らないラキシエルではなかった。
 だが不思議と、怒る気にはなれなかった。セインが語る自身の情けなさを自覚した上で、自分自身に呆れているからだろうか。
「そうだね。僕たちは似たもの同士だ。じゃあ僕は、君の先輩だね」
 セインの前で落ち込みたくなく、自分自身を鼓舞するため、ラキシエルはおどけて言う。
 するとセインの表情は、目を覚ました日以降はじめて、わずかにほころんだ。

 セインの傷が日常生活に支障がなくなるまでの間、ラキシエルは二ヶ月間で治療した人々の人脈を頼って町中を探してもらったが、セインが探す少女と子供の情報は、ひとつも手に入らなかった。
 だからふたりは、町を出た。とりあえずは、近隣の町や村を回り、目撃者がいないか探すつもりだ。
「ところでさ、今まで聞き忘れてたけど……」
「なんだ」
「その少女と子供って、君にとってどんな関係の人?」
 御者台にセインを座らせ、自分は幌つきの荷台に乗っていたラキシエルは、ふと思いつき質問した。
 荷台からは、セインの背中しか見えない。だが表情を見ずとも、空気感から、気まずさがにじみ出ていた。
「姉と別れた時、俺はとある貴族に買われた。アーシェリナ様は、その家の令嬢で、ソフィアは……アーシェリナ様の、娘だ」
「旦那さんはどうしたの?」
 ラキシエルは間髪入れずに問いかけた事を、数瞬後に後悔した。はじめから言い辛そうにしていたセインが、とうとう口ごもってしまったのだ。
 セインの態度を見れば、聞かずとも答えは明らかだった。しかしあまりにもはっきり訊いてしまったため、話をごまかす事はできそうにない。
「君、か」
 ごまかせないならば、適当に濁すよりは率直に言ってしまったほうがまだ気楽だ。そう判断したラキシエルが言うと、セインは噛みつくような勢いで反論してきた。
「違う。俺なんかを夫などと言ったら、アーシェリナ様に失礼だろう」
「じゃあ言いかたを変えるよ。ソフィアちゃんの父親は、君なんだね?」
 セインは再び黙り込んだ。それは肯定の意味を持っているとラキシエルは受け止めた。
 夫である事と子供の父親である事に何の違いがあるのかラキシエルには判らなかったが、セインの中ではどうやら、そのふたつの間に踏み越えてはいけない線があるようだった。
 道ならぬ恋をした令嬢と奴隷が、ふたりで幸せになるために手を取り合って逃げ出した――と言う状況が、ラキシエルには一番想像しやすかったが、恥じ入るようなセインの態度を見る限り、そんな単純なものではなさそうだった。しかしラキシエルはそれ以上訊かなかった。
「なおさら早く見つけないといけないね」
 ラキシエルが語りかけると、馬車の進む速度が、少しだけ速くなる。
 話をごまかそうとしたのか、気が逸っただけなのかも、ラキシエルは訊かない事にした。


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