四章
11
長い話をしたと思う。細かいところをはぶいたとは言え、フィアナとの出会いから死別までの数ヶ月間を語ったのだから。
だがセインは、ラキシエルが語る間、ただの一度も口を挟む事なく、飽きる様子もなく、黙って話に耳を傾けてくれた。それが、人生最大の悲しみを思い出して血を流すラキシエルの心を、いくらか救ってくれた。安らぎや落ち着きに似たものを与えてくれたのだ。
「僕はフィアナを見殺しにしたんだ」
ぽつりと、ラキシエルは呟きを落とす。
「本気で自分がロマール一の名医だと思っていた頃もあったんだけどね。一番大切な人の不調に気付けない名医なんて、笑い話にもならないよ」
「フィアナランツァが諦めたのなら、それはどんな名医でも手の施しようがない状態だったんだろう。それに姉は、昔から肺が弱かった。お前が気にする事じゃない」
驚く事に、セインの口から飛び出してきたものは、ラキシエルをかばう言葉だった。
「気にするよ。だって僕は、フィアナを救う手段を持っていたんだ。あとほんの一日でも早くフィアナの容体に気付いて、彼女を救おうとしていれば、彼女は助かって、今も生きていただろう」
ラキシエルはセインを見つめた。
ラキシエルの眼差しを受け止めるセインの瞳は、生前のフィアナのように柔らかい。ラキシエルを許しているかどうかは判らないが、少なくとも責める気はないのだと、ひと目で判るものだった。
セインはラキシエルに同情しているのかもしれない。無力ゆえに大切な人を救えなかった同志だと思っているのかもしれない。だからこそ、かつては自分の身を犠牲にしてまで守った大切な姉を見殺しにした男に、優しくできるのだろう。
だがラキシエルは、自身とセインが大きく違う事を知っていた。
結果は同じなのかもしれないが、過程が違うのだ。セインは、大切な人を守るために、身にいくつもの傷を刻みながら、精一杯戦ったのだろう。だがラキシエルは違う。戦おうともしなかった。相手は恐ろしい魔物などではなく、弱いひとりの人間での心でしかなかったのに。
「僕の両目の色が違う事には、気付いているだろう?」
セインは無言で頷いた。
左は穏やかな緑。右は深い紫。それが、ラキシエルの目が持つ色。ラキシエルの外見を説明しようとする誰もが、この目について語るほどに、目立つ特徴だ。
「僕が生まれ持った瞳の色は、緑なんだ。紫の方がにせもの。義眼だよ。僕は生まれた時、すでに右目がなくてね。そんな僕を不憫に思ったのか、父は僕の右目にこれを埋め込んだ。何代か前のアイオン家の当主が当時の国王に褒美としていただいた品で、古代王国の遺物である魔法の品物だ」
「スリープアイ……」
セインがぼそりと呟き、ラキシエルはそれに耳を止めた。
「そうか。君はそれを知っているんだね。でもこの右目は類似品だ。『スリープ』なんて物騒な魔法ではなくて、知らない言語で書かれた文字を読む事ができる、『トランスレイト』の魔法がこもってる。そこそこ便利なんだけど、眼球をくりぬいて代わりにはめこむと言う使用方法のせいか、魔法の品の割には安い品物でね。安いと言っても、売れば数万ガメルにはなる品物だけど」
ラキシエルはそっと右目を閉じ、瞼の上に手を置いた。平時ならば普通の目として役立つそれが、急に痛み出したような気がしたのだ。
「僕がもう少し早くフィアナの不調に気付いて、この目をくりぬいて売り飛ばせば、神殿で病を癒す奇跡を起こしてもらえるだけの金が手に入っただろう。いや、たとえ彼女が病気だと知らなくても、僕はそうするべきだった。金が早くたまれば、それだけ早く、彼女を迎えに行けたんだから。僕はフィアナを守りたいと思っていて、幸せにしてやりたいとも思っていて――けれど僕は、彼女に何もしてあげなかった!」
片目をくりぬく苦痛に耐える事が、片目を永遠に失って生きる事が、本能的に恐ろしかった。だから金になる右目の存在を、手遅れになるまで思い出せなかったのだろう。
そう考えるたびに、ラキシエルは自身を責めた。結局自分は、フィアナの自由や幸運より、自分自身の自由や幸福を望んだのだとしか思えなくて。こうしてのうのうと、五体満足で立っている事が、恥ずかしくてたまらないのだ。
「フィアナを失ってから何日か過ぎて、なんとかものが考えられるくらいに落ち着いた頃、僕は決めたんだ。生前のフィアナに何もしてやれなかった分、これからは、彼女のために何かしようって。多分彼女は最後の瞬間、『立派な医者になって欲しい』と言い残そうとしたんだと思うから……僕は、旅に出た。世界中をめぐって、ひとりでも多くの人に出会って、フィアナを救えなかった分、苦しむ誰かを救い続けようと。フィアナが僕を許してくれるまで――」
ラキシエルは大きく深呼吸を挟んでから続けた。
「それが僕の贖罪。僕の、生涯の使命だ」
精一杯虚勢を張り、穏やかな表情を浮かべたラキシエルは、セインに歩み寄った。
まだ幼さを残す少年の頭を撫でる。細く柔らかな感触が手に触れた。フィアナと同じ、冷たい色の髪が。
「フィアナはきっと、自分自身よりも、君を一番救いたかったんだと思う。だから、こうして君に会えた事が、僕はすごく嬉しい。これが、僕に与えられた幸運だろうか」
幸運の神チャ・ザの導きを、はじめて信じたのは、フィアナに出会った日の事だった。
そして二度目は、雪の中にセインを見つけた時。
「俺は、もう十年近く、姉の事を思い出していなかったのに」
セインはラキシエルの視線から逃れるように目を反らし、懺悔のように呟く。
ラキシエルはセインを責めようとは思わなかった。むしろ、納得していた。彼はフィアナを守るために自ら奴隷となる事を選んだのだ。きっとフィアナ以上に過酷な環境で、今日まで生き抜いてきたのだろう。再会の約束のない相手の事を思い出す余裕がないのは、当然だ。
「いいんだよ。フィアナもきっと判ってる。判った上で、祈っていたんだ。君が幸せであるように、と」
フィアナは弟のために、ただ純粋に祈り続けていた。その祈りに、願いに、見返りを求める心は、少しも見つからなかった。
「幸せだった」
だからセインが、苦しそうに、気まずそうに、そう口にした時、ラキシエルは泣いた。セインから隠れるように、顔を覆い、嗚咽を飲み込みながら、涙をこぼした。
「俺は、幸せだったよ」
――聞いているかい、フィアナ。
彼の言葉の表面だけを拾っていいわけではないだろうけれど、それでも僕はこの言葉に、とても救われた気がするんだ。
君も、そうだろう?
Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.