四章
10
フィアナに会いたいと思った。
けれどラキシエルは、フィアナの家を訪ねる事はできなかった。彼女の元を訪ねれば、その道すがらおのずと、怒鳴りつけた者たちに会わなければならなくなる。運良く彼ら本人と会わなくてすんでも、噂が周囲に広がっているのは確実だろうと思ったので、フィアナ以外の誰にも会いたくないと言うのが本心だった。
怒りをぶつけて本性をさらした事は、あまり気にしていない。けれど、もう少し配慮ある言葉を選ぶべきだったとは、思うのだ。
一度だけ、フィアナの方から会いに来てくれた。よほど疲れた顔をしていたのか、彼女はラキシエルを見るなり蒼白な顔で、ラキシエルの身を心配してくれた。
だから、「会いにこなくてもいいよ」と彼女に言った。「準備が整ったら迎えに行くから」と。すると彼女は困った顔をして、けれど頷いてくれた。
会えない代わりに手紙を書いた。いつもいつも、しつこいくらいに、「迎えに行くから待っていて」と書いた気がする。
フィアナがこまめに返事をくれるのが嬉しかった。いつも必ず最後に書き加えられている、「無理をしないでくださいね」と言う一文に、疲れた心が癒され、救われる気がしていた。
救われていたのは、自分だけだったのかもしれない。そう、ラキシエルは思う。
彼女はきっと、無理をしていたのだ。心も、体も。ラキシエルなどとは、比べものにならないほどに。
帰宅時間は日に日に遅くなっていく。
まともな家は寝静まっていて、酒場や怪しげな店だけが明るい光を漏らす中、ラキシエルは半ば朦朧とした意識で、ただ帰巣本能に従い、家路についていた。
ラキシエルの家があるのは住宅街で、当然、静けさに包まれている。その中で、かすかに騒がしい音がして、ラキシエルは俯きがちになっていた顔を上げた。
音をたどって視線を送ると、目に入るのは住みなれた我が家だった。激しく扉を叩く音がする。こんな時間に迷惑な事だ。もしかしたら下町の者たちが、他に頼れるあてもなく、ラキシエルのところに来たのかもしれない。
見つかっては面倒だから裏手に回ろうかと考えはじめたラキシエルの視界の端に、玄関扉を叩く、初老の男性の姿がちらりと映った。その男性が、無視できない相手だと気付いたラキシエルは、小走りで表の入り口に駆け寄った。
「ラーケンさん?」
呼ぶと、初老の男はすぐに振り返った。やはり思ったとおり、フィアナの義父だ。
彼がこんな時分に訪ねてきた事に一抹の不安を覚えたラキシエルは、ごくりと喉を鳴らす。
「ああ、先生はまだ帰ってきてないって、本当の事だったんですね。てっきり適当にあしらわれたのかと、しつこく食い下がってしまいました」
「それはともかく、どうしたんです、こんな夜中に」
「それは――」
ラーケンは一度深呼吸を挟んでから続けた。
「フィアナは最初、先生に教えるつもりだったって言ってました。そうして諦めてもらおうって。けど、先生は何を知ってもフィアナを受け入れて、フィアナを救うために無理してしまうだろうからって……秘密にする事に決めたんです」
「何を、です」
「先生の事情を少しは聞いています。お疲れなのも。苦痛かもしれませんが、けれど今日だけは我慢して、フィアナに会いに来てやってくれませんか」
「フィアナに何かあったんですか……!?」
ラキシエルは荷物を投げ捨てる事であけた手でラーケンの肩を掴み、強く揺すった。けれど彼は、戸惑うばかりで何も説明しようとしない。
聞き出す時間ももどかしく、ラキシエルはラーケンを置き去りに、一目散に走り出す。数ヶ月前まで歩きなれていた道のりは、ひどく遠く感じたが、気がはやるせいか、不思議と疲れを感じなかった。
やがて視界に飛び込んできた、フィアナたちが住む家は、真夜中だと言うのにぼんやりと明かりが点いていて、ラキシエルの中にある嫌な予感を増幅させた。
ラキシエルは乱雑に扉を開き、家の中に飛び込む。
フィアナの寝台の傍らに腰かけるエトナが振り返る。少し遅れて、寝台に横たわるフィアナが目を開けた。瞼がそうとう重く感じるのか、目を開くだけでひと苦労と言った様子だった。
異常はそこだけではない。フィアナは以前から細身だったと言うのに、更に痩せ細っている。もともと白かった肌は青白く、まるで病人のようだった。
いや。まるで、ではないのだろう。
フィアナが眠る寝台の一部は血に染まっていた。その血が寝台の主の口から吐き出されたものである事は、一目瞭然だった。フィアナの乾いた唇に、ふきとりきれなかった血が、こびりついていたからだ。
「フィアナ!」
ラキシエルが慌てて駆け寄ると、フィアナは小さく微笑んだ。ラキシエルを安心させようとしているのかもしれないが、ぐったりと横たわる彼女がそうして笑っても、安心などできるはずもなかった。
起き上がろうとして崩れ落ちるフィアナの背中に手を回す。苦しそうに咳き込むので、背中をさすってやった。少し表情を和らげたフィアナは、甘えるようにラキシエルの腕にもたれかかった。
「どうしたんだ、急に、こんな――」
ラキシエルが最初に考えたのは、ラキシエルがむげに扱ってきた民たちが、逆恨みをしてフィアナに毒でも盛ったのではないか、と言う事だった。だがさすがの彼らもここまでしないだろうと瞬時に思いなおすと、すぐに別の可能性に思いあたった。
急に、ではないのかもしれない。
これこそが、フィアナが秘密にしようとした事なのかもしれない。
「教えないでって……言ったのに」
フィアナは静かに目を閉じた。すると、また少しだけ楽そうになった。
「何をっ……こんな重要な事、どうして僕に黙ってたんだ! 僕は、医者だぞ!」
「もう、間に、あわな」
「素人判断で勝手に決めるな。大体……」
今からでは手遅れでも、もっと早く判っていれば、どうにかできたかもしれないではないか。
そう言おうとしたラキシエルは、息と共に言葉を飲み込んだ。
彼女が咳こんでいるのを何度か見た事がある。けれど彼女が「昔からそうなのだ」と言ったのを、ラキシエルは素直に信じてしまった。他にも思い返せば、顔色が悪かった事や、異様なほど細い体に、不調の兆候があった。
言われずとも、気付くべきだった――たとえ数ヶ月前に無理だったとしても、もう少し早く。気まずさから逃げずに、もっとこまめにフィアナに会いに来て、顔を見ていれば、きっと気付けたはずだ。
「フィアナ」
ラキシエルはたまらずフィアナを呼び、抱きしめた。弱りきった、抗う力さえない体を。
フィアナは弱々しい笑みを浮かべたまま、ラキシエルの胸にもたれかかった。
もう間に合わないとフィアナは言った。それは間違いなく真実だ。彼女の命のともしびは消えかけている。医者とは言えただの人間であるラキシエルには、もう手に負えない状態だろう。
けれど。
「そうだ。そうだよ、フィアナ」
ラキシエルはすがるものを見つけ、口元に小さく笑みを浮かべた。
「奇跡を起こしてもらえばいい。人にとっては手遅れでも、神の力なら――」
声がかすれ、語尾が消えていく。
神は無償で人を救うかもしれないが、人はけして無償では人を救わない。神の奇跡を起こす者は人でしかなく、ゆえに人が奇跡にすがるには、多額の寄付金が必要だった。
そんな金がどこにあると言うのか。
あったらフィアナとて、もっと早くから、ラキシエルに甘えてくれたかもしれない。
「だから君は、そんなにも、安らかな顔をしているのかい?」
もう、諦めているから。
親の遺言に従って生きぬく事に執着し、多くを諦めてきたフィアナが、生きる事すら諦めた。それは、どんなに悲しい事だろう。
ラキシエルの目に涙がにじんだ。
「――ああ」
ある。金なら、作れる。フィアナの病を治す奇跡を起こしてもらうくらいならば、なんとかなるだけの金が。
けれど、それは――
ラキシエルは自身の体が震えだすのを感じていた。
そんなラキシエルを安心させようとしたのか、フィアナの手がゆっくりと動き、ラキシエルの腕に触れた。慰めるように優しく撫でる手は、おどろくほど冷たかった。
「私の本当の名は、フィアナランツァ」
「綺麗な、名前だね」
「でしょう? その名と、この指輪を守り通した事が、私の、フィアナランツァ・ローゼンタールの、誇り」
フィアナはラキシエルの目の前に手をかざした。中指には古く質素な指輪がはまっていたが、指が細すぎるせいか、今にも抜けてしまいそうだ。
フィアナは指輪がはまった手を、ラキシエルの手に置く。ラキシエルのてのひらに指輪を落とすと、微笑んだ。その笑みは弱々しかったが、とても幸せそうに見えた。
「とれもずるくて、残酷だって判ってます。だけど、言わせてください。恨んでもかまいませんから」
氷色の瞳から、涙がこぼれた。
僕はいつも、フィアナを泣かせてばかりだ。悔やみはじめたラキシエルの頬にも、同様に涙が伝う。
ラキシエルの涙を拭うように、フィアナの手がラキシエルの頬を撫でた。
「貴方を、愛しています」
精一杯呼吸を整え、乱さないよう、フィアナは言葉を紡ぐ。
「フィアナ」
「貴方に出会えて、幸せでした。貴方は、私に、幸運を与えてくれました」
「違う、フィアナ、違うよ」
「ありがとう、ございます。どうか、立派、な――」
徐々に小さくなっていくフィアナの声が、完全に途切れる。
折れそうに細いフィアナの体から、力が抜けた。瞳は永久に閉じられた。美しい容姿に、永遠の微笑みをはりつけた。
「フィアナ」
ラキシエルはフィアナの名を呼んだ。何度も、何度も。
けれど答えはなかった。隙間から入りこむ風に揺れる白銀を除けば、フィアナは二度と動かないのだから。
「フィアナ……!」
フィアナの体にすがりつき、溢れる涙をそのままに、ラキシエルは泣いた。声が枯れるまで――枯れてからも、泣き疲れて倒れるまで、泣き続けた。
どこから後悔すべきなのだろう。時が過ぎてから、ラキシエルは何度も考える。
答えは、今も判っていない。
Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.