四章
9
「最近下町の方に行かないのはね、患者を変えたからなんだよ」
ようやく泣きやんだフィアナを家に送るため、夜道を並んで歩きながら、ラキシエルは少しずつ、自分の環境や考えを語りはじめた。
「金持ちとか、お貴族様とか……今までないがしろにしていた人たちだから、ほとんどつてはないと言うか、嫌われてたと言っていいくらいだったんだけどね。まあ向こうも、日常の健康管理を任せる相手なら、慣れ親しんで人格的に信頼できる相手の方がいいけれど、いざ病気や怪我をした時は、腕のいい医者の方がいいと思うみたいで、仕事はけっこう来るよ。毎日走り回ってる」
「どうして、ですか」
ついさっきまで子供のように泣きわめいた事が恥ずかしいのか、フィアナはずっと俯いたまま、ラキシエルを見ようとはしない。それでもラキシエルの声に耳を傾けてくれているようで、すぐに反応が来た。
フィアナが口にしたのは疑問だったが、ラキシエルにしてみれば、フィアナがどうしてそんな疑問を口にするかの方が、よほど疑問だった。フィアナは判っているはずだ。判っているからこそ、彼女は自分からラキシエルのところに来たはずだ。
「急に今までと違うやり方をする必要なんて」
「あるよ。僕は真面目に金を稼ぎたくなったんだ」
ラキシエルがここまで言ってしまえば、さすがのフィアナも、「どうして」との言葉を口にできないようだった。
「君ができるだけはやく、意に沿わない婚約を解消できるようにね」
フィアナの両手が、彼女自身の耳にかるく覆いかぶさった。耳を塞ごうとしているのだろうか? その程度で全ての音を遮断できるはずもないのに。
「意に沿わない、なんて……」
「君の今のご両親だって気付いてるよ。君が無理している事くらい。大丈夫。この十日間で、僕が本気で稼ごうとすれば、君や君の今のご両親を養うくらい簡単にできるって判ったから。問題は、すでに相手に使わせてしまった分だ。僕が見た金貨袋だけでけっこうなもんだ。その上借金を立て替えてもらったんだっけ? 少なくともそれを返してからじゃないと、断れな」
「やめてください、先生。駄目です」
フィアナは耳を押さえたまま、強く横に首を振った。
「君の誇りを傷付ける事になる?」
「いいえ。けれど、本当に、やめてください。私なんかのために、そんな事……」
「君のためでなければ、こんな事はしないよ」
フィアナは一瞬動きを止めたが、再び首を横に振った。
白い肌が赤く染まっていた。また泣きそうになっているのだろうか。それとも、ラキシエルが言葉に乗せた率直な好意に照れているのだろうか。どちらにせよ、フィアナが困惑している事だけは間違いなく、ラキシエルは一度フィアナから顔を背けてから、小さくため息を吐いた。
「ごめん。君を困らせている事は自覚しているんだ。けれどこれは、僕自身のためでもあるから。できる事があるのに、何もしないまま、君が奪われていくのを見ているのは嫌なんだ」
それきりフィアナは何も言わなかった。ラキシエルも、何も言わなかった。
フィアナの家までまだ道半ばで、無言で歩く暗く狭い通りは、冷たいくらいに静かだ。けれどフィアナが隣に居るからだろうか、ラキシエルはちっとも苦痛に感じなかった。そして、フィアナも同じであればいいと願った。
「送ってくださって、ありがとうございます」
次にフィアナの声を聞いたのは、フィアナの家に到着した時で、彼女は深く頭を下げてからそう言った。ラキシエルを見上げる、月明かりに照らされたフィアナは、薄くだが優しく微笑んでいて、自分がやろうとしている事がそれほどひとりよがりではないのだと、認めてもらった気がして嬉しかった。
「じゃあ、また」
軽く手を振ってから、ラキシエルはフィアナに背を向けた。数歩進むたびに振り返ってみると、フィアナは家に入るそぶりも見せずにラキシエルを見送っていて、それが声が届かなくなるほどの距離を開いても変わらなかったので、ラキシエルは身振り手振りで、早く家の中に入るよう指示した。
最後にもう一度礼をしたフィアナは、ようやく家の中に入った。扉が閉まるのを確かめると、ラキシエルは再び歩きはじめた。夜風の温度は、先ほどまでとそう変わらないはずだが、ひどく冷たく感じた。
「ラキシエル先生!」
声をかけられたのは、細い路地の終わりに近付いた頃だ。
浮かれていたのか、人の気配に気付いていなかったラキシエルは、呼び止められて心臓が飛び出るほど驚いた。はやる鼓動に押されるまま振り返ると、どこか見覚えのある、貧しい身なりの女性が立っていて、ラキシエルは緩みがちの表情を引き締めた。
ここら一帯の者たちに姿を見られると面倒な事になるのではないかと思っていたのだが、夜にフィアナひとりで歩かせるわけにもいかないし、真夜中だからまともな者は家を出ないだろうと、完全に油断していた。このまま、家族の誰かの具合が悪いなどと縋られては、都合が悪い。
「よかった、先生がつかまって。先生、うちの息子が三日前から高熱を出して、ずっと下がらないんです」
やっぱりだ。ラキシエルは落胆に肩を落としつつ、眉間に皺を寄せた。
「そうですか。それは、大変ですね」
切羽詰った様子の女性に返す言葉としては適切ではないだろうが、まともに相手をするのも億劫で、ラキシエルは軽い言葉で返す。
「どうしたらよいでしょう」
「ええと……」
ラキシエルは片手で頭を抱えた。
「風邪でしたら、冷たい水などで頭を冷やして、毛布など集めて体は温めて、何日かすれば直りますよ。熱さましの薬草ていどなら、どこの雑貨屋でも売っているでしょうし、煎じ方も、近所の人に聞けば誰か知ってるでしょう」
「先生!」
「すみませんが、急いでいますので、ここで勘弁してください」
ついさっきまで働きづめで疲れていて、明日も早朝から仕事が詰まっているのだ。フィアナだから話を聞き、フィアナだから家まで送ったが、他の人間のために時間を費やすつもりは毛頭なかった。
ラキシエルは簡潔な説明と挨拶だけを口にして、女性の横を通り過ぎようとした。
だが女性は諦める様子もなく、ラキシエルの腕に縋りついた。女性の細腕でもいざと言う時にはものすごい力を発揮するようで、振り払おうとしても簡単にはいかなかった。
「ちょっと、放してください」
「お願いです先生。少しでもいいんで、診てやってください。ただの風邪じゃないかもしれないんです!」
「そんな事言われましても……」
ラキシエルは極力声を抑えていたが、女性はラキシエルに訴えかけるため、大きな声を出していた。そのせいだろうか、すぐ近くの家の窓が開いた。顔を覗かせた、ちびた蝋燭を灯りにした男は、ラキシエルにすぐに気付いたようだった。
今のところ顔を見せたのは彼だけだが、別の家からもちらほらと、明かりがついたり、人が起きだした気配がする。
これ以上騒ぎが大きくなれば、またややこしくなるかもしれない。ラキシエルの胸に、少しずつ焦りが積もった。
「僕には他にも沢山患者が居るんです。他の医者に頼んでください。それと、もう少し静かに。近所迷惑で」
「どうしてしまったんですか、ラキシエル先生!」
女性はラキシエルの声を聞いていないのか、耳に痛い金切り声でラキシエルを呼んだ。
「先生は、あんなに優しかったじゃないですか。私達が困った時、いつも助けてくれたじゃないですか。お願いします、先生。診てやってください!」
ラキシエルは苛立ちをため息に託して吐き出した。
「いつもいつも僕に頼ろうとせず、たまには自分で何とかしてみようと言う気概はないんですか?」
「先生……!」
女性はとうとう泣き出した。だがそれでもラキシエルを放そうとしなかった。ラキシエルは一度鞄を地面に置くと、力ずくで女性を引き剥がしにかかったが、しがみつく力はいっそう増していて、手間がかかりそうだった。
「ラキシエル先生、ちょっとでもいいから、診てやってくれませんか。そこんちのぼうず、本当に苦しそうなんですよ」
三軒向こうの家の扉が開き、姿を現した老人が、女性の味方をする発言をした。
「そ、そうですよ。本当に、ただの風邪じゃなさそうでしたよ」
窓からこちらを覗いている男が、老人の言葉を後押しする。
他にも、いくつかの視線を感じた。騒ぎで起きだした者たちは、遠くから近くから、ラキシエルを見ていた。
仮に女性を何とか振り払っても、他の者たちが立ちはだかり、ラキシエルを引き止めかねない雰囲気だ。訴えの強さゆえに少々ほだされてきたラキシエルは、ここから逃げ出す面倒くささも合わさって、一度くらい諦めて診てやろうかと思いはじめた。
「さっき、見ましたよ。フィアナと一緒にいたでしょう。フィアナに会う時間があるなら、いいじゃないですか」
そのひと言さえ、なければ。
「先生はどうして急に変わってしまったんですか。フィアナのせいですか」
次のひと言によって、ラキシエルは頭に血が上っていくのを感じた。
「金持ちの婚約者が居るってのに、先生までたぶらかすなんて。きっと先生を騙して、働かせて、先生から金巻き上げようとしてるんですよ」
「清純そうな顔してるけど、元々は、体を売って生活していた女だしなぁ」
「え、そうなのか?」
「ああ。本人は隠してるつもりみたいだけど、俺の知りあいに、小娘の頃のあの女を買ったってやつが居て……」
「ほら、先生、フィアナはそう言う女なんです。さっさと縁を切ったほうが、先生のためですよ! 先生に売女なんて、ふさわしくない!」
ラキシエルの周りに、人が集まりはじめていた。彼らは一様にフィアナを責め、変わってしまったラキシエルを責めた。
それが彼らなりにラキシエルを想っての言動だとは少しも思えず、ラキシエルは拳をふるわせながら怒鳴る。
「ふざけるな!」
僅かに生まれつつあった同情心は、怒りを前にしてどこかへと消えていった。
何が判ると言うのだ。名声欲を満たすためだけに動いていたラキシエルに都合よく利用されていた事にも気付かず、ラキシエルを神のように崇めていた者たちに、どうしてラキシエルやフィアナの事が判るのか――彼らにそんな知能があるとは、ラキシエルにはどうしても思えなかった。
だいたい、フィアナが真夜中にラキシエルに会いに来たのは、貧民街の仲間たちの事を想ってではないか。ラキシエルの事だけならばともかく、そんなフィアナの事を責めるなどと、信じがたく許せない事だった。
「フィアナが僕にふさわしくない? 笑わせるな! じゃあお前たちは、ロマール一の名医である僕の腕にふさわしい治療費が払えるのか? できないくせに、偉そうに言うな! お前たちは僕にふさわしい患者ではないんだから!」
あたりが静まり返る。ラキシエルの耳に届くものが、自分自身の呼吸の音だけになった。
彼らが驚き、傷付き、自身の醜い発言に対して自省をはじめているのは感じ取れた。それでもラキシエルの気持ちはおさまらず、なおも怒りを吐き続けた。
「悪いのは僕か? フィアナか? お前たちはそうやって、自分以外の誰かを悪者にするけれど、本当の悪は僕たちではないだろう。僕に相応の報酬も払えず、ただ甘えるだけの、お前ら愚民共だ!」
ラキシエルは乱暴な手つきで鞄を拾い上げ、進むべき方向を睨みつけた。
「邪魔だ、どいてくれ。僕は僕にふさわしい患者のためだけに働くと決めたんだ。僕にふさわしくなったらまた来い。その時に会ってやる」
すると、ラキシエルに睨まれた、立ち塞がっていた者たちが分かれ、道ができていく。
色々な感情が胸の中で渦巻いて、どうしてかラキシエルは、泣きわめきたい気分になった。だが、そんなみっともない姿を彼らに見せる気にはなれず、ただ無言でその場を立ち去った。
Copyright(C) 2010 Nao Katsuragi.