四章
8
金が欲しい。
充分裕福と言える家庭に生まれ、けれどさほど物欲を持たずに育ったラキシエルがそんな願望を抱いたのは、生まれてはじめての事だった。
もちろん、ラキシエルが本当に欲したものは、金ではない。欲したのは、フィアナだけだ。けれど彼女を手に入れるには多くのしがらみがあり、一番の障害と言えるものを掃うために必要なものは金だと、ラキシエルは考えていた。
だからラキシエルは、働き方を変えた。今のラキシエルに必要なものは、偽りの優しさや清貧さによって得られる賞賛の声よりも、金なのだ。今までの働き方、生き方では、それを得るのは難しく、変えるしか道はなかった。
金を稼ぐのは、意外に簡単だった。そもそもラキシエルは、他のアイオン一族の者たちとは違い、日々忙しなく医者として働いていたため、一族の中で最も優秀と言ってよいほどの腕を持っていた。今まで興味を持たなかった世界を振り返ってみれば、金を持つ患者たちからも引く手数多だったのだ。彼らから治療費を請求する事にためらう必要などなかったので、自然、銀貨は積みあがっていった。
けれどまだ、足りない。
ラキシエルは医者でしかない自分、人間が持って生まれた治癒力の手助けをする事しかできない自分の無力さを呪った。この世には、神の奇跡によって瞬時に傷や病気を治す神官と言う生き物が存在していて、あまり法外な金額を要求すれば、神官を呼ぶと言ってお払い箱になってしまうのだ。
地道に働くしかなかった。貧しい者たちを相手にしていた頃のように、いやそれ以上に、ラキシエルは朝から晩まで働き詰めた。くたくたになって戻った家でする事と言えば、眠る事と金を数える事だけだった。
そんな日々を十日ほど過ごした頃だ。ラキシエルが家路を辿る途中、フィアナの姿を見つけたのは。
はじめは、会いたいあまりに見た幻かと思った。そのくらい、静寂な闇の中に月と星とランタンの明かりを浴びて立つフィアナの姿は、現実離れした美しさだった。
寒いのだろうか。肩を抱き、身を縮めて立っている。二、三回、小さく咳をした。
「フィアナ」
名を呼ぶと、フィアナは反応して振り返り、氷色の瞳でラキシエルを捉える。刹那、細まった眼差しは柔らかくラキシエルを受け止めてくれた。
「どうしたんだい、こんな時間、こんな場所で。そりゃ、下町に比べれば治安がいいかもしれないけれど、それでも女性がひとりで出歩くのは危険だ」
まして君のように美しい女性が、と続ける前に、フィアナが口を開いた。
「先生にお会いしたくて」
熱っぽい感情がこもっているわけでもない、単純な言葉だ。けれど言葉よりも単純なラキシエルの心は、瞬時に浮かれ、喜んだ。
フィアナが僕に会いに来てくれた!
「ごめん。また会いにいくと言っておきながら、顔も出さずに。ちょっと、仕事が忙しくて」
「いいのです、謝らないでください。先生のお仕事は尊いお仕事です。何よりも優先して当然ですから。ただ」
フィアナはわずかに戸惑ってから続けた。
「最近先生の姿を見ないと、みんなが口にしていたものですから、もしかして先生ご自身がご病気になられたのかと思ってしまったのです」
「ああ。心配かけたならごめん。大丈夫だよ。毎日元気に働いてる」
「そう、ですか……」
ラキシエルが微笑みながら答えると、フィアナは更に戸惑いを強くし、胸の前で手を組んで俯いた。
可憐な唇はきつくひきしめられたかと思うと、ふいに薄く開き、けれど何か言葉を紡ぐでもなく制止する。フィアナが何か言おうとしながらも言っていいものか悩んでいる事をすぐに察したラキシエルは、フィアナに気付かれないよう静かに息を吐いた。
フィアナが何を言おうとしているのかも判っていた。彼女が吐き出せずにいる言葉が、彼女ひとりのものではない事も。彼女は他の下町の民を代表してここに来たのだろう――実際に送り出されたのか、雰囲気に押されて自ら来たのかまでは、ラキシエルに判断できなかったが。
「みんなは、元気なのかな?」
フィアナの喉を詰まらせるものを取り除いてやろうと、ラキシエルがそう言うと、フィアナは小さく肩を震わせた。
「ほとんどの方たちは。軽い怪我や、熱を出している人たちも、大丈夫だと思います。ただ、ひとつ隣の通りの子が、高熱を出して寝込んでます。ずっと吐き続けていて、苦しそうで、それで……できれば、先生に」
「それは大変だ。医者や神官に見せたほうがいいだろうね。僕は手があかないので行けないけど、誰か知り合いを紹介しようか?」
他人事のように口にすると、ラキシエルを見上げるフィアナの目が大きく見開いた。
「驚いてるね」
「え、ええ……」
「僕がいいひとのふりをするのをやめたのが、そんなに不思議?」
フィアナは一瞬だけ身を強張らせた後、慌てて俯き、目を反らす。
その反応は、ラキシエルが十日間ひとりで抱いていた疑問を晴らしてくれた。
「やっぱり、君は気付いていたんだ。僕が本当にいいひとなのではなく、いいひとのふりをしているだけだって事に」
フィアナは俯いたまま何も言わなかった。
「少しおかしいと思ったんだ。君を最後に治療した日、君は突然、自分の過去を告白した。あまりに唐突すぎる気がしたんだ。女性が気軽に他人に話す事ではないだろうと――あれはきっと、君の作戦だったんじゃないかな。僕が君に好意を持っていると気付いた君は、僕が君を軽蔑するように仕向けようとした。世間が語るような聖人君子ではない、ただいいひとに見られたいだけの見栄っ張りの僕なら、当たり障りのない事を口にしながら君を心の中で軽蔑し、君とやんわりと距離を置き、さりげなく君の前から消えていくだろうと、君は考えた。違う?」
「それは……」
「うん、君に出会ってすぐの頃の僕なら、君の思惑通りになったと思う。僕は人に聞いただけの君の綺麗な優しさに――それと、正直に言うなら、君の外見の美しさにもかな。そう言うものに惹かれていただけだったと思うから。だから、ちょっと幻想を崩されるだけで、簡単に逃げただろうと、自分でも思うよ」
けれど、何度も会い、言葉を交わすたびに、フィアナが綺麗なだけの生き物ではないと、ラキシエルは知る事となった。儚げな外見や雰囲気とは相反する、強い意志と生命力が、彼女の中に存在していたのだ。
けして譲れないもののために多くのものを犠牲にして生きぬいたフィアナは、ラキシエルなどが想像もつかないほど、いくども傷ついてきただろう。その中で、誰かを思いやる心を守りぬいたフィアナは、外見など関係なく美しいと思った。本当に誇り高い貴婦人は、彼女のような人の事を言うのだろうと思ったのだ。
「僕をつき放すためなら、君は本当の事を言って傷付く必要なんてなかったんだよ、フィアナ」
冷たい風が吹いた。
月明かりを浴びる白銀の睫が、氷色の瞳に光と影を落とす。その輝きは、泣いているようにも笑っているようにも見えた。
「上手に嘘を言えばよかったんだ。ただ、『婚約者の事を愛している』と、そう言えばよかった。君がそう言うなら、僕は」
嫌いだとか、眼中にないとか、フィアナがそう言ってくれれば――言ってくれずとも、態度で示してくれれば、ラキシエルは何もしなかっただろう。今までどおり、優しい医者を演じながら、この街のどこかで生きているフィアナの幸せを、ただ祈り続けられた。
「君が守ろうとしたものは何? 僕の名声?」
「いいえ」
「じゃあ、仲間たちに手を差し伸べてくれる医者?」
「いいえ、いいえ」
フィアナは首を振り、震える声ではっきりと否定する。長い睫はほんの少しだけ、涙に濡れていた。
「私は私を守りたかっただけです、ラキシエル先生」
フィアナは己の肩を抱き、体の震えを止めようとしていた。
「私、先生と居る時間が好きでした。血の繋がった家族や、今の家族が与えてくれたものとは違う、でもやっぱり穏やかな空気が、とても心地よかった。それから、先生の声が好きでした。少しくすぐったくて、柔らかいのに頼もしくて、もっともっと聞きたくて、会話を続けたくて、余計な事を沢山話して、本当なら他の方のものになるはずだった先生の時間を、少しずつ奪ってきたんです。先生のまなざしも好きでした。紫と緑の優しい視線を同時に向けられるたびに、嬉しくてどきどきした。先生の手も好きでした。触れるたびに温かくてて、離れるたびに名残惜しくて――でも、先生、私、先生と同じ時間をすごせばすごすほど、自分が嫌いになっていったんです」
声はいつもの、柔らかなフィアナの声だ。口調も、荒いと言うほどではない。
けれどフィアナの言葉はどこか攻撃的で、悲痛で、喋れば喋るほど彼女自身が傷付くのではないかと、ラキシエルは不安になった。
抱きしめようと歩み寄り、手を伸ばす。だがフィアナは細い腕でラキシエルの胸を押し、距離を置こうとした。
「先生と居ると、昔の事を忘れたくなるんです。父が何よりも家族を優先してくれていれば、母が私たちを置いて先に死ななければ、幼い弟が一緒にいなければ、私はもっと、自信を持って貴方の前に立てたかもしれないなんて、酷い恨み言を言ってしまいそうになる。父や母が私を守ってくれたから、弟がそばに居てくれたから、身代わりになってくれたから、私は今日まで生きてこられたのに」
「フィアナ」
ラキシエルはフィアナの手首を掴んだ。それはひどく細くて、少し力を込めれば折れてしまうのではないかと思った。
「どうして君は、僕の前に立つ時に、自虐的な想いを抱くんだい?」
「貴方はロマール一のお医者様です。私は元娼婦です」
「それが?」
「こうして言葉を交わすだけでも貴方の名誉を傷付けます。それが辛いんです。私が、貴方に傷を付けるのが辛い」
「どうして」
フィアナが顔をあげた。濡れる瞳は、戸惑いに揺れていた。
「もう医者としての名誉なんて、僕には何の価値もないのに」
そうでなければ、仮面を剥がしなどしない。今までどおり、優しい笑顔で見返りを期待しないふりをして、賞賛を浴びるために生きていたはずだ。
もっと価値のあるものを、ラキシエルは知った。それは、今ラキシエルの手の中にある、温もりだ。
「こんな事、昔の僕からは考えつかない奇跡だ。名誉やそれからくる賞賛より大切なものなんてないと、二十二年間思い続けていたのに」
「どうして……」
今度はフィアナが疑問を口にする番だった。
「僕にとって君との出会いが、それだけ衝撃的で、重要だったって事じゃないかな」
フィアナはいくばくかの間、歯を食いしばって耐える様子を見せたが、風に流れる雲が月を覆い隠し、再び姿を現す頃には、こらえきれなかった涙が頬を伝い落ちていた。
ラキシエルが掴んでいないもう一方の手で、フィアナは涙を拭いた。だが、拭いても拭いても追いつかないほど、涙は流れ続けた。たまらずラキシエルがフィアナの腕を引くと、今度こそフィアナは抗う事なくラキシエルの胸の中におさまり、ぞんぶんに泣いた。
「嫌いです」
「何が」
「先生なんて、大嫌いです」
縋る手が、震える声が、精一杯の下手な嘘であるのだと教えてくれるのに、それでも傷付く自分の心がおかしくて、ラキシエルは小さく微笑んだ。
胸に溢れる甘い温もりがくすぐったい。けれどきっと、幸せと言うのはこう言う事なのだろうと、ラキシエルは感じていた。
だから素直に、幸福に酔う事にした。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.