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四章



「ラキシエル先生には本当に、感謝しているんです」
 何度目の診療を終えた日だろう。フィアナが「ありがとうございます」の代わりにそう言ったのは。
 感謝の意を伝える言葉であるのは同じだが、何か別に特別な意味が秘められているような気がして、ラキシエルはひどく気になった。他の患者が同じ言い方をしたとしてもここまで気にはしないだろうと、はっきり自覚している頃だった。
「どうしたんです、突然」
「だって先生は、命の恩人ですから」
 腹の傷は触れなければ痛みを感じないほどに治っている頃でもあり、フィアナは自然な笑顔を見せながら、優しい声でそう告げる。
 同じ言葉を、ラキシエルはこれまでも沢山もらってきた。そのたびに、得意になって、いい気分になった。
 けれどやはり、フィアナの声は、言葉は、特別だ。今までにないほどに、胸が弾む。
「大げさですよ。致命傷と言うほどの傷ではなかったんですから」
「でも、先生がたまたま通りかかってくださらなかったら、私は失血で命を落としていたかもしれません」
「他の医者でも同じですよ」
「他のお医者様は、こんな場所をほとんど通りかかりません」
「そんな事……」
 ありませんよ、と言うにはあまりに嘘くさく、ラキシエルは言葉を濁して苦い笑みを浮かべた。
「先生。私は、生きなければならないんです」
 フィアナは腹部に手を置いた。傷にだけは触れないよう、そっと。
 言葉と、包帯の下にある傷に向けられた氷色の眼差しに秘められた穏やかながら強い決意が、ラキシエルを困惑させる。
「まるで義務のように言うんですね」
「ええ」
 ラキシエルの問いに、フィアナは間髪入れずに頷いた。
「私の本当の両親は、私と弟のダリュスセインを守るために命を落としたのです」
 気にかかっていたがけして訊けずにいた、血の繋がった家族の事を、フィアナが自ら語ってくれた事が嬉しかった。けれどそれは想像していた通り軽い話ではなく、ラキシエルは真摯に受け止める覚悟を瞬時に固めなければならなかった。
「私たち家族を守るために父は死に、私たち姉弟を守るために母は死にました。別れ際に、母は言ったのです。弟を守れと。何があっても強く生きろと――けれど私は、弟を守れませんでした。ですから私は、せめて、強く生きなければならないのです」
 語るフィアナの眼差しは静かだが力強く、迷いはどこにも見えなかった。
 その強さが悲しいと思うのは、のうのうと生きてきた人間の驕りでしかないのだろう。
「貴女の弟さんは、亡くなってしまったんですか?」
 フィアナは小さく首を振った。
「十年前、弟は私を守るために自分を売り、どこかに連れていかれました」
「それは……」
 貴女のせいではないでしょう、とラキシエルが言う前に、フィアナは言葉を続ける。
「まだ六歳だった弟にそんな選択を強いた私が、弟のためにできるのは、どこかで元気に生きている事を願うだけなんて、情けない話です」
 白く細い指が絡まり、白銀の睫が静かに下りて氷色の瞳を隠す。
 自身にはけして幸福を与えなかった幸運の神に、生き別れた弟の幸福と安らぎを願う静かな祈りは、すでにどこかで命を落としているかもしれない可能性を懸命に否定する、悲痛なものに見えた。
 フィアナがどうしてそこまで何かを背負い、強くなれるのか、ラキシエルには判らなかった。もしかすると永遠に理解できないのかもしれない。家族や他者を顧みる事なく、自分の欲のために自分を飾る事で精一杯だった、ラキシエルには。
 だからこそ、知れば知るほどに、フィアナに惹かれていくのかもしれない。
「僕も、祈っていいですか」
 湧き上がる衝動のままに問うと、フィアナは伏せていた目を大きく開いてラキシエルを見上げた。
「ありがとうございます、先生。見も知らぬ私の弟のために」
 フィアナの解釈は、半分は正解だ。けれど半分は不正解だった。ラキシエルの祈りの残り半分は、フィアナのためにある。
 祈りたかった。フィアナの幸福を。
 できる事ならば、フィアナに幸福を与える役を自分自身で担いたかったけれど――やはり見た事もない彼女の婚約者の存在を思うと、ラキシエルは祈る以上の事をできずにいた。

 へその下からわき腹まで続く傷あとは、時の流れと共に生々しさを失っていく。かつてこの上を鋭い刃がすべり、多くの血が流れた事が、まるで嘘であったかのように。
 けれど透けるように美しい白い肌の上にあるには、その醜さはやはり異質で、消失する日が一刻も早く来る事を、ラキシエルは願っていた。
「だいぶ良くなったね」
「はい。咳きこんでも、傷がひきつらなくなりました」
「咳? 風邪でもひきましたか?」
 ラキシエルが慌てて問うと、フィアナも慌てて首を振った。
「いいえ。子供の頃から、咳が出やすいんです。喉が乾燥したり、運動したりするだけで、すぐ出てしまって」
「ああ、そうですか。僕の二番目の兄も、そうでしたよ」
 ラキシエルは納得して、傷あとから手を離す。
「うん。あとはもう、時間が傷あとを消してくれるのを待つだけだ」
 ラキシエルがそう言うと、フィアナは胸元までたくし上げていた服を下ろし、ほっと息を吐いた。
「ありがとうございます」
 いつものラキシエルならばここでにっこりと笑みを浮かべ、「良かったですね」や「おめでとうございます」などと、心のない、けれど患者の喜びや感謝を増幅させる台詞を続けていただろう。しかし、今日のラキシエルはそれをしなかった。
 できなかった、と言う方が正しいかもしれない。笑みを浮かべることはできたが、声を出そうとしても出てこなかったのだ。
 もう医者としてフィアナにしてやれる事は全て終わってしまった。立ち上がって、フィアナのそばから離れるべきだろう。そして「お大事に」とでも言ってから家を出て、次に彼女が体調を崩すなり怪我をするなりしてラキシエルを再び呼ぶ時まで、会わない日々を過ごすべきなのだ。呼ばれる事がないのならば、永遠に。
 それが寂しいと思ってしまうから、ラキシエルは動けないでいる。
「いつ、なのかな?」
「はい?」
 突然の曖昧な問いに、フィアナは困惑した様子で首を傾げた。
「婚約していると聞いているから。結婚式、とか……」
 言いながらラキシエルは、自身に呆れていた。
 少しでも滞在時間を伸ばそうと世間話をふる姿も滑稽だが、咄嗟だったとは言えわざわざ自分が傷付くような話を選んでしまうとは、愚かとしか言いようがない。
「いつ、なんでしょう」
「は?」
 今度はラキシエルが困惑して首を傾げる番だった。
「婚約していると言うのは嘘?」
「嘘ではありません」
「どうしてそんな、曖昧な言い回しを?」
 僅かに逡巡したフィアナは、何か答えようと口を開きかけたが、すぐに閉じる。それから、目を細めて微笑んだ。
 言葉よりも更に曖昧な回答は、ラキシエルの胸中にくすぶる不安に力を与えてしまう。
「僕は、去り際に君に、『お幸せに』と言ってもいいのかな」
「はい」
「本当に?」
「何をお疑いです?」
「君のお義母さんの話を聞いて、まるで身売りだと思ってしまったから、この結婚に貴女の幸せはないのではないかと、疑っているんだ」
 率直な言葉でラキシエルは言った。
 フィアナはしばらく微笑みを保っていたが、少しずつそれを消し去り、真顔になった。無表情にも見えたが、とても悲しそうにも見えた。
「もし私が、幸せでないと、こんな結婚は嫌だと、そう言ったら――先生はどう思います?」
 柔らかな声が紡ぐ問いかけは鋭く胸を突く。まるで試されているようだとラキシエルは思った。
「今からでも婚約を解消すべきだと思う。そうして――」
 僕と一緒に生きませんか、と、この時言えていたならば、何か変わったのだろうか。
 けれどラキシエルには言えなかった。二十年以上もの間、愛される事だけを求めて生きてきたがゆえに、愛し方を知らなかったのだ。どうやってフィアナを想い、その想いをどうやって伝えればいいのか、判らない――そんなラキシエルにとって、無表情の中で輝く氷の色の瞳は、好意を告げる言葉全てを遮っているように見えたのだ。
 ラキシエルはうなだれる。フィアナの顔が見えなくなった。まるでフィアナの問いから逃げているようだと思うと、恥ずかしさに少しだけ熱が上がった。
「変な質問をしてごめんなさい。たとえばの話ですから、あまり考え込まないでください」
「たとえば、なんだ」
「ええ。だって先生、私、今、信じられないくらい幸せなんです。弟とふたりだけで生きていた頃から今の両親に出会うまでの間、この体をひと晩いくらで売って生活していた事を思い出せば」
 突然のフィアナの告白からくる衝撃に、ラキシエルの胸は大きく鳴り、強い痛みを訴えはじめる。
「そんな生活から救い出してくれた今の両親のため、私にできる事がある。それだけでも幸せなんです。けれどそれだけではありません。普通に結婚できる日がくるなんて、考えた事もなかったので――男の人は普通、そんな女を、妻に迎えようなんて考えないでしょう? 特に、中流以上の、普通に働いて普通に暮らしていける方たちには、そんな生き方をする女なんて、理解できないものでしょう?」
 返す言葉が見つからず、ラキシエルは膝の上に置いた拳を強く握り締めた。
 フィアナの言う通りだ。少なくとも以前のラキシエルは、そうだった。娼婦たちを治療した事も何度かあるが、彼女たちに笑みを向けながら、心の中で軽蔑していた。彼女たちの想いを理解しようと思う事も、彼女たちの事情を考えようとする事もなく、他の働き口につけない無能な輩だと見下していた。
「すべては無理でも、少しくらいなら」
 けれど、今は少し、違う。
「君は弟さんを守らなければならなかった。弟さんを失ってからは、ひとりで強く生きなければならなかった。そのための手段として、君はその道を選んだ――選ぶしかなかった。そう、だろう?」
 十年前、両親を失い幼い弟とふたりきりになってしまった、まだ十代半ばのフィアナが抱いた絶望感は、想像してみるだけでも、底が見えないほど深い。本当は、底がなかったかもしれない。生きるための手段を選んでいる余裕などなかっただろうと、容易に想像がつく。
 不特定多数の男たちがフィアナに触れてきた事実に、嫉妬や怒りと言った感情を抱かずにいられると言えば嘘になる。けれど理性が、フィアナの生き方を、過去の選択を、理解するべきなのだと訴えてくるので、ラキシエルは必死に感情を押し込めるしかなかった。
「先生の語る私は、とても綺麗」
 フィアナが浮かべるどこか諦めたような微笑みに妙に腹が立って、ラキシエルは僅かに語気を強めて言った。
「君が本当に綺麗な人だからだ」
 境遇に負ける事なく前を見て歩き続けるフィアナは、実に女性的な柔らかい容姿とは裏腹で力強く、頬を張るよりもはっきりと、ラキシエルの目を覚ましてくれる。
 だからラキシエルは知ったのだ。自分がどれだけ恵まれた環境に生まれてきたのか、どれほど周囲に甘えていたのか、どんなに自分勝手に生きてきたのか――フィアナに出会う事で、ようやく本当の意味で知る事ができたのだ。
「不思議です。先生の言葉は、とても嬉しい言葉のはずなのに」
 この瞬間、フィアナの笑みが変わったようにラキシエルは感じた。静かに浮かべているのは同じだが、そこに秘められた感情が、急激に変化したのだ。
「なんだかとても、空しくて、悲しい気持ちになります」
「フィアナ、僕は」
「ごめんなさい、先生」
 氷色の優しい瞳に、涙が滲む。それは大きな雫となって、白い頬を滑り落ちた。
「もうこれ以上、惨めな気持ちにしないでください」
 目の前から消えてくれと、フィアナは暗に口にしていた。だがそれはラキシエルにとって、激しい拒絶ではなかった――もしかすると、ただのうぬぼれかもしれないけれど。
「また、来るから」
 ラキシエルは再会の願いを込めた言葉を残し、フィアナの前から立ち去る。
 去り際に拒否する言葉が聞こえなかった事は、ラキシエルの胸に強い力を与えてくれた。


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