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四章



 翌日、昼よりも少し前くらいに、ラキシエルは再びフィアナの元を訪ねた。本当はもう少し早く訪ねるつもりだったが、急患だと朝から呼び出されてあちこちの家を回っているうちに、こんな時間になってしまったのだ。
 フィアナの義父――昨晩去り際に聞いたところによると、ラーケンと言う名だ――は仕事に出ているのか家に居なかったが、義母――彼女はエトナだ――は昨晩からずっとフィアナのそばに寄り添っているようだった。その日は暑い夏の日で、ただ眠っているだけでもじわじわと汗がふき出してくる。エトナはそれを時おりそっと拭ってやっていた。
 微笑ましいとも言える親子の様子を目の前に、ラキシエルは何か物足りないような気がしたが、優先すべき事はいくらでもあるのだと、考える事を放棄した。
「遅くなってすみません。容態に大きな変化はありませんでしたか?」
「特にないと思います」
「一度も目を覚まさないままですか?」
「いいえ。明け方近くに一度目を覚ましました。お水といただいたお薬を飲ませたら、すぐにもう一度眠りについて、そのままです。お薬が効いているようで、昨日よりもずっと穏やかに眠ってます」
「そうですか。それはよかった」
 微笑みかけたラキシエルは、その笑みが作ったものでなく素直に出たものだと一瞬遅れで気が付くと、強い戸惑いを覚える。それを隠そうと、慌ててエトナから顔を反らし、フィアナに視線を落とした。
 フィアナの寝息は規則正しかったし、表情も静かだった。エトナが言う通り、昨晩よりも穏やかな眠りの中に居るのだろう。これなら問題ないだろうと思いつつ、念のためもう一度傷口を診てみたが、傷口に巻いた包帯は白いままで、傷が開いた様子はなかった。激しい炎症を起こしている様子もない。
「次に目覚めた時には、食事を取らせて大丈夫ですか?」
「ええ、それは、もちろん。食事は健康の基本ですからね」
 ラキシエルは強く頷いた。
「あの出血を目にしたのですから、不安になって当然かもしれませんが、あまり大げさに構えなくても大丈夫ですよ。エトナさんは料理の経験はありますよね?」
「それはもちろん。ほぼ毎日やっておりますよ」
「でしたら、一度や二度くらい、包丁の使い方を誤って、深めに指を切って、たくさん血が出た事、あるでしょう」
 エトナはまず、苦々しい笑みを見せた。それから表情を和らげ、小さく声を出して笑う。フィアナの眠りの邪魔をしてはいけないと、すぐに口を押さえ声を殺したが、笑顔はそのままだった。
「一度や二度じゃすみませんね。特に小さい頃、若い頃は」
 どうやら微笑ましい思い出が蘇ってきたらしい。それが思い出したいものか、思い出したくないものなのかは、複雑なところのようだ。
「それと似たようなものです。今回の場合、場所が指でなくてお腹だったと言うだけで。範囲は格段に広いですけどね、本当にそれだけなんですよ」
 いくら安心させるためとは言え、ラキシエルは無責任な嘘を言わない。フィアナの傷は広範囲ではあったものの、本当に浅いものだった。
 だからラキシエルは思ったのだ。フィアナを刺した男がフィアナの事を想う気持ちに、歪みはあっても嘘はないだろうと。彼はきっと、はじめからフィアナを殺す気などなかっただろう。それどころか、フィアナを前にして傷付ける事すらためらったに違いない。だからと言って、ひとりよがりの感情に流されて凶行に及んだ男を擁護する気にはなれないが、この家を訪れるまでの間に、男がすでに自首し、官憲に捕らえられていると聞いた時は、やはりそうなのかと納得したものだ。逃げたのは、傷付き倒れた愛する女性を目の前にし、気が動転したからなのだろう、と。
「ラキシエル先生」
 フィアナの寝顔を見下ろしながら、少しだけ哀れな犯罪者の事を考えていたラキシエルは、声をかけられると同時に見上げてくるエトナの視線を感じ取り、表情を引き締めた。
「な、なんです?」
「フィアナのお腹、傷が残ったりは……?」
「ないでしょう」
「そうですか。よかった」
 ラキシエルが言い切ると、エトナは胸を撫で下ろした。
 婚約者が決まっているとは言え、嫁入り前の娘の体に傷が残るか否かは、やはり気になるのだろうか。いや、婚約者がいるからこそ、気になるのだろうか。
 そこまで考えたラキシエルは、ふと、部屋に入った瞬間物足りないと感じたものの正体に思いいたった。
「婚約者の方は?」
「はい?」
「彼女には婚約者がいるんですよね? 婚約者がこのような状態だと言うのに、彼はそばに居てあげようと考えないのですか?」
 エトナは少し戸惑いを見せながら頷いた。
「先生のおっしゃる通り命に別状がないのでしたら、仕事のある方ですし、私もおりますし、ずっとそばについている必要はありませんからね」
 少し寂しい気もするが、エトナの言う事は正論とラキシエルは思った。仮に自分が同じ状況でも、やはりずっとそばに居る事はないだろう。そもそもラキシエルは、同じ理由でラーケンが居ない事には違和感を覚えなかったのだ。
 自身の中に生まれた矛盾が気恥ずかしくなり、ラキシエルは慌てて取り繕った。
「ま、まあ、そうですね。仕事は、大切ですよね。ふたりの将来のためにも」
「仕事がなくとも、ここに来る方ではありませんけど」
 ラキシエルは自身の表情がひきつっていくのを感じた。
「まさか、顔を見にも来てない、とか」
「ええ、もちろん」
「もちろんって、彼女が刺された事を知らないんですか?」
「いいえ、さすがにそれは伝えましたが……あの人は本来こちらがわの方ではありませんから。こんな粗末で小さな家に足を運ぶなんて、ありえませんよ」
 ラキシエルは絶句した。感情が混ざり合う事で混乱し、言葉をひとつも紡ぎ出せないのだ。
 目の前も真っ暗になっていくような気がして、ラキシエルは意識しながらゆっくりと呼吸を繰り返す。生ぬるい空気を吸い込むたびに、複雑に絡み合った感情は少しずつほぐれ、怒りや苛立ちを強く抱いている事を自覚した。
 フィアナがラキシエルの知らない爆弾を抱えていないかぎり、命に別状はないだろう。それは事実だ。だが、婚約者が傷を負ったとすれば、苦しんでいやしないかと、心配するものではないだろうか。しかもただの婚約者ではない。上流社会では重要とされる家柄を気にしないほどに求めた相手ではないか。
「相手の人は、大切にしてくれていますか」
 思わず訊ねると、エトナは頷いた。
「ええ」
 そして、寂しげに微笑む。
「フィアナはそう言っています」
 真実か否かは判らない。そう、エトナの表情は告げていた。けれど、フィアナの言葉を信じるしかないのだとも。
「そうですか」
 だからラキシエルは、他に返す言葉が見つからず、エトナと同様に、少しの悲哀を混ぜた眼差しをフィアナに落とす事しかできなかった。
「先生は、噂どおりの方ですね」
「はい?」
「お優しい、素晴らしいお医者様です。怪我だけでなく、フィアナの全てを気遣ってくださるんですから」
「いえ、それは……」
 ラキシエルはやはり返答に詰まった。他の患者に対しても同じように、考え、感じ、心配しているわけではないと、自覚しているからだ。
 だからラキシエルは、自分がフィアナと言う女性に対し、強い興味を抱いている事を自覚せざるをえなかった。
 医者と患者と言うだけの間柄の、会話した事すらない相手に、どうして興味を抱けるのだろう。エトナやラーケンの話を聞いて、おおよその人柄は判るけれど――結局自分も、多くの男たちと同じように美人に弱いのかもしれないと、あまり認めたくない現実を受け入れるしかないかもしれなかった。
「僕はそろそろ、失礼します」
「ああ、そうですね。すみません、お忙しいところ」
「また明日にでも、様子を見に来ま――」
 小さな、うめくような声が耳に届いて、ラキシエルは言葉を切る。声はエトナのものでなく、もちろんラキシエルのものでもなかった。
 微動だにせずに寝台に横たわっていたフィアナの、長い白銀の睫が揺れる。それからゆっくりと、瞼が開いた。覗いて見える瞳は氷のように透き通った青色で、髪と同じく冷たい色合いだった。
「フィアナ!」
 フィアナは義母の声につられるように、僅かに首を傾けた。
 氷色の瞳にエトナが映り、僅かに遅れてラキシエルが映る。瞬時に、フィアナの瞳の奥に警戒が生まれた。
「ラキシエル先生よ。貴女を助けてくれたお医者様」
 見知らぬ男を目の前にしたフィアナの不安をほぐそうと、すぐさまエトナが説明をすると、僅かに強張っていたフィアナの表情は緩み、色合いとは対照的に柔らかな目が、優しくラキシエルを見上げた。
「助けていただいて、ありがとうございます……」
 フィアナの白い手に、寝台を押そうとする力が加わった。置き上がろうとしているのだと気付いたラキシエルは、制止するために手を伸ばしながら駆け寄る。だが、ラキシエルの手が届くよりも早く、フィアナの体は寝台に沈んだ。優しい顔は苦痛に歪み、手は傷がある腹の上に添えられていた。
 強張って丸まったフィアナの細い肩に、ラキシエルはそっと手を置く。
「無理に起きてはいけませんよ。安静にしないと、閉じようとしている傷が開いてしまう」
「す……すみません。ご迷惑を、おかけして」
「迷惑なんて事はありませんよ」
 それは、本当の意味で相手を労わっているわけではない、自分の印象を良くするための、いつも口にしている言葉だった。
 帰ってくる言葉も、いつもと同じ、ありきたりな感謝の言葉だ。
「ありがとうございます、ラキシエル先生」
 フィアナは苦痛を飲み込んだ満面の笑みを浮かべながら、そう言った。
 綺麗な笑顔だった。顔かたちの美しさだけでは作り出せない、静かだけれど強い力を秘めたその笑みは、ラキシエルを一瞬にして惹きつけた。

 きっと、この時にはもう、心を奪われていたのだろう。
 ラキシエルの中でフィアナの存在は、この時を境に、日増しに大きくなっていくのだから。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.