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四章



 フィアナと言う名の女性は、寝台の上で静かな寝息を立てていた。
 ラキシエルからひと通りの処置を受け、周囲に集まっていた男性陣に部屋に運び込まれ、女性陣に清潔な寝巻きに着替えさせてもらった彼女は、ただ安らかに眠っているように見える。だが静かな寝顔には、かすかな苦悶が見え隠れしていた。
 彼女を苦しめるものは、傷の痛みなのだろうか。それとも、刺された記憶なのだろうか。少々気になったラキシエルだが、重くのしかかる疲労に思考能力を奪われたので、考える事を放棄した。朝から晩まで働いて、帰って休もうと思った矢先にもうひと仕事させられたのだ、疲れているに決まってる。
 重い頭を支える事に疲れて俯いたラキシエルは、視線の先にあった女性の顔をただ眺めた。
 綺麗な人だ。ラキシエルはふとそう思った。この時ようやくラキシエルは、美しいものに見惚れる余裕を取り戻したのだった。
 気品のある、優しい顔をしている。けれど、枕の上に広がる物珍しい髪の色のせいだろうか、ひどく冷たい印象を受けた。うっかり触れたら凍り付いてしまうのではないかと不安になるような、無言で拒絶されているような。
 その感覚を寂しいと思いはじめている事に、ラキシエルは気が付く。なんでだよ、と心の中で己を叱咤してから、「どうでもいいや」と呟いて、フィアナから目を反らした。その呟きが本心でない事は自覚していたが、意味を考える気にはならなかった。
 ラキシエルは部屋の扉を開けた。治療の邪魔になるからと、扉の向こうに追いやった者たちに、フィアナの無事を告げて安心させ、賞賛の言葉をもらおうと思っての事だった。
 だが、野次馬たちのほとんどの姿は、すでになくなっていた。もう夜半過ぎであるし、彼らにとって信頼できる医者がそばに着いているのだから、当然と言えば当然かもしれないが、少し薄情ではないかとラキシエルは思った。穏やかな言い方でとは言え邪魔者扱いをしたのはラキシエルの方であるし、もしかするとフィアナを刺した犯人を追っているのかもしれないので、一概に責める事はできないが――とにかくラキシエルは、未だ扉の前で心配そうな顔で立っている、初老の、夫婦とおぼしきふたり組みに対して、温かい感情を抱いたのだった。
 ラキシエルは野次馬の顔をいちいち識別していなかったが、よく見ると、女性の方は少し記憶に残っていた。確か、ラキシエルが到着するまで、フィアナの止血しようとしていた女性だ。
「彼女のご両親ですか?」
 ラキシエルが訊ねると、夫婦は少し悩むそぶりをみせてから、ゆっくり頷いた。
「血は繋がっておりませんが」
 なるほど答えに迷うわけだ、と納得して、今度はラキシエルは頷く。
「傷の件ですが、出血が多くて驚いたと思いますが、あまり深い傷ではありませんでした。当然、内蔵や骨が傷付いたと言う事もありません。数日は絶対安静ですし、しばらくは看病が必要ですが、もう命の心配はないと思います」
「ありがとうございます!」
 ラキシエルの微笑みがまるで合図であったかのように、夫婦は口々に礼を言うと、何度も頭を下げる。これまで助けてきた者の数だけ見てきた光景だが、やはり気分はいい。また明日も頑張ろうとラキシエルは思った。
「意識が戻ったら、この痛み止めを飲ませてあげてください。手持ちが一回分しかありませんので、明日の早いうちにまた持ってきます」
「すみません……」
 ラキシエルが差し出す薬を受け取った女性は、暗い表情で自身の手の中にあるものを見下ろしていた。
 治療費や薬代の事を気にしているのだろうか。目の前に居る医者は、あのラキシエルだと言うのに?
 判っていてまったく気にしないような輩には腹立つが、もしかすると彼女らはラキシエルの事を知らないのかもしれず、それはもっと気に入らなかった。
「お金の事を気になさってるのですか? でしたら、別に……」
「いえ。お支払いする余裕はあるのです。ちょっと待っててください」
 今度は男性の方がそう言って、壁際にある小さな棚の引き出しを開けた。中には両手にあまる大きさの布袋が入っており、彼はその袋の口を開けてから振り返る。
「おいくらになりますか」
「ええと……」
「先生はとても腕のいいお医者様だと聞いています。本当はお高い診療費をとれる方なのでしょう? どうぞ、遠慮なく言ってください。お支払しますから」
 貧乏人のくせに見栄を張るなと思うより早く、ラキシエルの目に金色の輝きが飛び込んできた。どうやら、男が開けた袋の中には、ぎっしりと金貨が入っているようだ。
「正直に言いますと、薬代などそれなりの出費がありますから、お支払いただけるのはありがたいのですが……」
 彼らがその金をどうやって入手したのかが、ラキシエルは気になった。ラキシエル・アイオンの名誉のためにも、汚い金は受け取りたくないのだ。
「大丈夫ですよ。犯罪で手に入れた金ではありませんから」
「いえ、そう言う意味で受け取りをためらったわけではありませんよ」
 ラキシエルは慌てて、思ってもない事を口にした。少しわざとらしすぎたのかもしれない。初老の夫婦は見透かしたような目をラキシエルに向け、穏やかに笑った。
「先生。フィアナは、優しい子なんですよ」
 目を細め、眠るフィアナの顔を眺めながら、フィアナの義母は語る。
 この話の流れで、どうして突然義理の娘自慢がはじまるのか。ラキシエルが内心疑問に思っていると、更に話は別の方向へ進んだ。
「あの子は今度、結婚するんです」
 そんな事、僕には関係ないのに、なぜ話す。
 そう思いながらも、ラキシエルは話を遮る事ができなかった。老人の話に笑顔で付き合う優しい人間に思われたいと言うよりは、話の先が気になったからだった。
「相手の人は、普通ならこちらがわの人間なんて相手にしないような家のお坊ちゃんなんですよ。でもあの子、綺麗でしょう? ひとめ惚れされたみたいでね。ずいぶん前から、しつこく求婚されていたんですよ。しばらく断っていたんですけど、ある日突然受けて。相手の人が好きだからとか、いい暮らしをして幸せになるからとか、言うんですけどね。多分、違うんですよ」
「おふたりのため、とか?」
 ラキシエルが考える「優しい娘」が真っ先にやりそうな事を口にすると、ふたりは揃って頷いた。
「いくらか借金がありましてね。フィアナが求婚を受けた直後に、相手の人が、未来の花嫁の両親が困っているならって、清算してくれました。その上に、当面の生活費だって、こんなにお金をくれて。使いきれませんよ。たとえ使いきれたとしても、できるかぎり、フィアナのために使いたいんですよ」
 夫婦が優しい眼差しをフィアナに向けるので、ラキシエルも振り返り、もう一度、フィアナの寝顔を眺めた。血の気を失った青白い顔は、先ほどまでと何も変わっていないはずなのに、ずっと温かみのあるものに見えた。
「そう言う事でしたら、とりあえず今日の診療費と薬代として、百ガメルいただきます」
「それだけですか? 先生の腕なら、もっと……」
「もらいすぎても、僕には使い道ありませんし。明日新たに薬を持ってきますので、その時はその時でいただきます。完治するまで何度か足を運ぶ事になるでしょうから、その時にも」
「判りました」
 ラキシエルは差し出された金貨二枚を受け取ると、財布の中にしまいこんだ。久々にまともに稼いだのだが、特に嬉しいとは思わなかった。
 代金は受け取った。見たところ、フィアナの状態も安定している。朝になったらまた来るのだし、とりあえず今はこのまま帰っていいだろう。しかしラキシエルはひとつ気にかかる事があり、その場から動く事ができなかった。
 綺麗で優しいフィアナ。きっと、彼女を知る多くの者たちに、慕われていたのだろう。そうでなければ、怪我をして倒れた時、あれほどの数の者たちが、心配して集まってはこないだろう。
 だが彼女の傷は、事故によるものではない。誰かに故意に刺されたものだ。
「彼女は誰かに恨まれていたのですか?」
 ラキシエルが問うと、フィアナの義父は苦々しい表情で頷いた。
「フィアナを刺した男は、フィアナが他の男と結婚すると知って、フィアナを恨んだようです。刺す瞬間、『裏切り者!』と叫んでいました」
「恋人だったのですか?」
「まさか。彼はフィアナを好いてましたが、フィアナは断り続けてましたよ」
「つまり、逆恨み」
「はい」
 肯定された直後、たまらずラキシエルはため息を吐き出した。真相のあまりのくだらなさに、呆れ返ったのだった。
 女性は誰もが綺麗になりたがっているが、綺麗に生まれたからと言って、良い事ばかりではないようだ。ラキシエルはフィアナの不運に同情し、少しだけ祈りたい気持ちになって、目を伏せた。そのうち彼女に幸運が訪れますようにと、幸運新チャ・ザに、軽く祈る。
 この時ラキシエルは気付いてなかった。その祈りが、純粋に他者のためのものであると。
 それがこの時期のラキシエルにとって、奇跡に近い事であるのだと。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.