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四章



 何よりも大切な出会いから、気付けば二年近くが過ぎていた。

 当時のラキシエルは、旅の医者ではなかった。
 ロマール王都で代々続く高名な医者の家系であるアイオン家の三男として生まれたラキシエルは、アイオン家の者としてあたりまえのようにロマールで育ち、あたりまえのように医学を学び、あたりまえのように医者となり、あたりまえのようにその腕をロマール国内でふるっていた。
 だがラキシエルは、たったひとつだけ、アイオン家の常識から大きく外れて生きていた。高給と引き換えに王侯貴族のお抱え医師になる事をしなかったのだ。
 それ故にラキシエルの名は、他の一族の者たちよりも、広く知られる事となった。
「熱もだいぶ下がってますし、咳も落ち着いたみたいですね」
 どんなに華やかな大都市であっても――いや、華やかだからこそ、暗部がある。ロマールも例外ではなく、街の片隅には華やかさとは縁遠い貧民街が広がっており、今にも倒れそうな小さな家がひしめきあっていた。
 ラキシエルが訪れたのは、そのうちの一軒だった。狭い家だ。若い夫婦と子供の三人が暮らしているはずだが、四肢を伸ばして寝られるのか疑問に思うほどの広さしかない。
 そんな家の隅で、まだ五歳ほどにしかなっていない男の子が、痛んだ毛布に包まり、健やかに寝息を立てていた。はじめてラキシエルがこの家に呼ばれた三日前、高熱を出し、息をする間もないほど長い咳をしていた事が、嘘か冗談であったかのように。
「もう大丈夫でしょう。ですが念のため、今日も安静にしておいてくださいね」
「先生、ありがとうございます……!」
 つぎのある服を着た、眠る子供の母親である女性は、震える声でラキシエルに礼を言うと、固く手を組み、頭を下げた。それから小さな袋を探り、中から数枚のガメル銀貨を取り出す。
「足りないと判っていますが、今手持ちがこれだけしかありません。残りは、今度お持ちしますから」
 母親は銀貨が乗った手をラキシエルに差し出したが、ラキシエルは微笑みながら小さく首を振り、その手を押し返した。
「お金はいつでもいいですから」
「ですが」
「このお金で、お子さんに栄養のあるものを食べさせてあげてください。そうすれば、もう僕を呼ばなくてすむようになりますよ。まず優先すべきはそちらでしょう」
 母親はラキシエルの申し出に困惑していたが、やがて深く、何度も何度も、頭を下げた。組んだ手を額に押し付け、まるで神にそうするかのように、祈った。
 いや、真実神なのかもしれない。彼女たちのように、神殿に赴き神の奇跡を願う事も、医者にまっとうな謝礼を支払う事も不可能な者にとって、ラキシエルのような存在は。
「では、僕はこの辺で失礼します。熱がぶり返すとか、何かあったら、遠慮なくまた呼んでくださいね」
 ラキシエルはそれだけ言葉を残し、家を出た。やや歪んで閉じにくい扉を閉めると、息を吐き、歩きはじめる。ひどく疲れた気がして、こった肩を何度か叩いた。
「たまらないな、貧乏人は。頭を下げれば許されると思っているんだから」
 呟くラキシエルが浮かべる笑みは、先ほど母親に見せた人好きのするものから大きく変わり、冷たいものになっていた。
 ロマールの貧しい民や一般の民は、皆が口を揃えて言う。見返りを無理に求めようとせず、怪我や病に苦しむ者のために尽くすラキシエル先生は、素晴らしい医者なのだと。
 そうして称えられるたびに、ラキシエルは思う。簡単に騙される彼らは愚かで、それ故にとても都合がいい生き物だと。
「僕は神様なんかじゃないのになぁ」
 神は無償で人を助ける。あるいは、全く救いの手を伸ばさず見捨てる。
 けれどラキシエルは違った。自分自身のために、見返りを求めて、人を救うのだ。
 金銭欲に忠実に生きるアイオン一族の中で、報酬を気にせず働くラキシエルを無欲な変わり者と思う者は多いが、それが大いなる間違いである事を、ラキシエル自身は知っていた。ラキシエルにも欲がある。おそらく、家族の誰よりも強い欲。ただ、種類が違うだけだ。
 名声が欲しかった。
 楽な仕事で高い給金をもらい、贅沢な暮らしをする事になど興味はない。ひとりでも多くの者に腕の良さを知ってもらい、素晴らしい医者だと認めて欲しかった。感謝や賞賛の言葉をもらう事が、ラキシエルにとって何より嬉しい報酬なのだ。
 そのためには、優しく笑う事も、無償で働く事も、苦痛ではなかった。どうせ家に帰れば温かな食事や綺麗な風呂や寝心地の良い寝台が待っている。家族内での評判はあまりよくなく、冷たい目で見られる事もあるが、仕事に追われるラキシエルはあまり家族に会う機会がないし、アイオン家に勤める使用人たちからは当然ラキシエルが一番慕われているので、生活に困る事はないのだ。
 ラキシエルは満足げに笑みを浮かべ頷いて、深呼吸のついでに夜空を見上げた。
 いつもは月や星を眺めても、あまり印象に残らない。だが今日は、やけに半月が綺麗に見えて、しばらく見惚れた。そうしてあまり周囲を気にせず歩いていたラキシエルは、角から突然人が飛び出してきても、まったく気付かなかった。
 肩に強い衝撃が走る。ぼんやりしていたラキシエルは、衝撃に抗えず、尻から転んだ。医療道具が入っている荷物袋は、中身を散らばす事こそなかったが、地面にぶつかって派手な音を立てる。
 だと言うのにラキシエルにぶつかってきた人物は、謝るどころか足を止める事すらせず、ラキシエルの横をすりぬけて走り去っていった。
 何かひと言怒鳴りつけてやろうと思ったが、すぐに別の足音が近付いてきたので、口を噤む。できる限り、「穏やかで優しいラキシエル先生」の印象を崩したくないと思ったからだった。
「ラキシエル先生!?」
 角から新たに現れた女性は、どうやらラキシエルの事を知っているようだった。金の髪に両の色が違う瞳と言う目立つ風貌で、目立つ行動を取っているので、ラキシエルは顔自体もそれなりに有名だ。自重したのは賢明だったと、ラキシエルは寸前の自分の我慢を心の中で褒めてみた。
「ちょうどよかった! 急に怪我人が出たんです。先生、来てください!」
 ラキシエルは立ち上がって埃を掃いながら答えた。
「それは構いませんけど……貴女、今走っていった人を追っていたのでは?」
「そうですけど、どうせ誰だか判っているので、後回しです!」
 女性はラキシエルの手首を掴むと、全力で走り出す。角を曲がり、元来た道を辿っているようだ。
 ラキシエルはただ彼女を追従する事しかできなかった。

 辿り着いた先は、小さな家だ。その前には夜だと言うのに、他者の進入を拒むように人だかりができていた。
「ちょっと、どいて!」
 ラキシエルの手を引く女性が、高い声で鋭く怒鳴り、人を散らす。女性の先導に従って、できあがった道を歩くと、人々はラキシエルの存在に気が付き目を輝かせた。
「先生!」
「ラキシエル先生か!」
「良かった、ラキシエル先生が来たならもう大丈夫だぞ、フィアナ!」
 開かれたままの玄関扉の前に立つ初老の男が、家の中に向けて声をかける。どうやらフィアナと言う名の人物が次の患者らしいと、ラキシエルは悟った。
 ラキシエルは表面上落ち着いていたが、内心でははりきっていた。人々に期待の眼差しを向けられるのも、気持ちいいからだ。
「怪我とお聞きしましたが、どのような……」
 入り口に辿り着く直前、ラキシエルは周囲の者たちに訊ねようとしたが、必要ないとすぐに判った。問題のフィアナの言う人物は、扉から一歩入ったところに、倒れ込んでいたからだ。
 貧しい身なりをしていたが、それで隠し通せないほど美しい女性だった。雪のように淡い白銀の髪が月明かりを浴びて輝く様子は、柔らかな美貌と合わさって幻想的にも見え、妖精のような印象を見る者に与える――だが彼女は、見惚れる余裕を一瞬たりともラキシエルに与えてくれなかった。
 女性は綺麗な顔を、苦痛で歪めていた。
 腹部を鮮血の赤に染め上げているのが原因だろうと、ラキシエルはすぐに察した。流れ出るものを止めようと、そばに膝をつく初老の女性が清潔そうな布を押し当てているが、それすらもほぼ色を変えているのだ。そこにはきっと大きな傷があり、今も血を流し続けているのだろう。
 ラキシエルはともすれば緩みがちな表情を引き締めた。名誉欲にかられているラキシエルだが、医者としての本分を忘れ去っているわけではないのだ。目の前いる怪我人や病人を治療する事に、迷いはない。
「さっき逃げてった男が、狂ったように叫んで、フィアナを刺したの。お願い、先生、彼女を助けて!」
「言われなくとも」
 ラキシエルが腕をまくりながら力強く答えると、野次馬たちは静かになった。


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