四章
3
ラキシエルはセインから目を離せなくなった。
たとえばその日の宿代を精算している時、熱を出したセインを冷やすための水を取り替えている時、少し休憩している時、食事を摂っている時――そんな、ほんの僅かな隙をついて、セインは寝台を這い出し、部屋を抜け出そうとするのだ。
無茶な事だった。そんな事を続けても、傷の直りが遅くなるだけだ。遅くなるだけならばまだいいが、せっかくふさがりかけた傷が開き、悪化したらどうなる。命を落とすと言う、最悪な結末にもなりかねない。それだけは許せなかった。医者としても、ラキシエルと言うひとりの人間としても。
今回も、疲れたあまりうっかりとうたた寝をした隙に、セインは消えていた。膝を叩く事で自身の失態を責めたラキシエルは、すぐに立ち上がり、セインを探した。
しょせん相手はろくに動けない怪我人だ。ラキシエルは部屋を出てすぐに、よれよれと歩く背中を見つけた。呼びとめようと思ったが、怒りのあまり上手く声にならず、代わりに壁を力強く叩いた。
セインは振り返る。反省の色がまったく見えない、無表情のまま。無視して先に進まれるよりはましだが、それでも腹立たしかった。
「言ったよね、僕。勝手に起き上がるなって」
可能なかぎり低く、冷たい声で、ラキシエルは言い放った。
「何かしたい事があるなら、僕に言ってくれ。僕が代わりにやるから。だから、君はゆっくり休ん」
「お前なんかにできる事じゃない」
セインのとげとげしい言葉によって、ラキシエルの中には更なる怒りが生まれる。それを足音で表現しながらセインに近付いたラキシエルは、進行方向を塞ぐようセインの前に回りこむと、精一杯睨みつけた。
「そうだね。君は僕より背が高いし、体格もいいし、きっと僕よりずっと強くて、僕ができないような事も、たっくさんできるんだろうね。でもそれは、普段の君なら、じゃないかな? 歩くこともままならない状態の君にできるような事なら、健康体の僕には楽勝だと思うんだけど」
言ってラキシエルは、勝ち誇った表情でセインを見上げる。
セインも、自身の現状を理解できていないわけではないようだ。反論できないと瞬時に悟り、唇を噛みながら、ラキシエルに背を向けた。どうやら、部屋に戻る気になったようだ。
しかしセインは、弱った自分にはできないと認めても、ラキシエルに何らかの用件を頼むそぶりはけして見せなかった。それが彼なりの意地なのだろうか。
「なぁ、ラキシエル」
弱い足取りで数歩進んだ後、セインは悲しみを溶かした声をラキシエルの耳に届けた。
大きいはずの背中が、か弱い子供のように小さく見える。明らかに軟弱なラキシエルの方が、「彼を守ってやらなければならない」と思ってしまうほどに。
そうしてラキシエルの同情を買おうとしているならば大したものだが、彼はきっと無意識で、だからこそ余計に卑怯だとラキシエルは思った。
「俺のそばには、本当に誰も居なかったのか?」
その問いは、セインが目覚めた日から、いったい何度繰り返されただろう。
これからもずっと続くのだろうか。ラキシエルが、セインの望む答えを告げるまで? ラキシエルが彼の望む答えを口にする事など、ありえないのに。
命の恩人であるラキシエルを平気でないがしろにする彼が、それほどまでに強く求める相手とは、絶対にそばに居るべき、離れてはいけない相手だったのだろう。与えてあげられれば、彼の手の中に返してあげられれば、どれほどいいかとラキシエルも思うが、どうしようもない事だった。
「居なかったよ。誰も居なかった。もちろん、遺体もなかった。だから、きっとどこかで生きているよ。ゴブリンが医者である僕に気付かせないくらい巧妙に血の匂いを消すなんて芸当、できるはずがないんだから――君の探している人たちは、生きてる」
そうだろうか。
ラキシエルは少年を落ち着かせようとそれらしい言葉を並べてみたが、ラキシエル自身は、言葉にした通りの希望を持つ事ができなかった。生きているならば、どうして少年をあんな所にひとり放置したのかとの、疑問が生まれるからだ。
確かなのは、死んだ証拠がない事だけ。生きている証拠も、やはりないのだ。それで希望を持てと言うのは、酷すぎるだろうか。
「探しに行きたいのなら、まずは傷を治して、僕と言う障害物を力ずくでどかせるくらいには回復する事だね。そのくらいまで回復すれば、適当に歩き回っても、それなりに大丈夫だろう」
「それなりかよ」
「とりあえず悪化して命を落とす事はなくなるよ。君だってそれだけは避けたいだろう? 君の大事な人だって、君の無事を祈っているに決まっているんだから。それに……」
「それに?」
続けようとした言葉を飲み込み、ラキシエルは笑ってごまかした。
「いや。何でもない」
セインはそれ以上聞いてこなかったのは、ごまかされたと言う事だろうか。もしかするとごまかされたふりをしてくれているだけかもしれないが、どちらにせよ、ラキシエルにとって都合が良かった。ラキシエルはセインの横に並び、傷のない場所を選んでセインの背を押しながら、部屋まで付き添った。
その間、ラキシエルはセインを見ないよう努めていたのだが、一度だけ、セインが小さくよろけた時、淡く鈍く輝く白銀が視界に飛び込んできた。瞬間、胸の奥が激しくざわめいて、ラキシエルは困惑した。
「立ち入った事を訊いてもいいかな」
追い立てられるように、ラキシエルはセインに問う。
セインは返事をしなかった。ここ数日の付き合いで、セインは嫌な事は全力で嫌だと反論してくる人物だと理解したラキシエルは、彼の態度は肯定を意味しているのだろうと判断した。
「どんな安全な道でも、旅をしている以上、魔物に襲われる可能性はそれなりにある。こんな状況に陥る可能性を、少しくらいは考えたはずだ」
「そうだな」
「それでも君たちは旅をしていた。どうしてだい?」
セインは黙り込んだ。
立ち入りすぎたのだろうか。ラキシエルが思っている以上に、深い事情が隠れているのだろうか。ならばしつこく追求するのはよそう――ラキシエルがひとりでそう結論付けた時、セインは小さく呟いた。
「生活していた場所に居られなくなった。それだけだ」
ラキシエルならばけして「それだけ」との言葉で片付けられない事実を語っていると言うのに、少年の声の中には悲しい響きが見つからなかった。
生活の場を追われる寂しさを、苦にしていない、と言う事だろうか。大切なものを失う事に慣れているのか、生活の場がそもそも大切なものではなかったのか――どちらにせよ、想像するだけで胸が痛み、ラキシエルは自らの心を守るために、話を反らした。
「君は、兄弟とか居るの?」
セインはうさんくさそうにラキシエルを見下ろす。
「いきなりなんだ。お前は俺に何を聞きたいんだ」
「いや、何って言うか、単なる世間話。駄目かな? ちなみに僕は兄がふたり居るんだ。それなりに賢い人たちだとは思うんだけど、高慢ちきでね。あまり好きじゃなかったな。多分向こうも、僕の事好きじゃなかっただろうけど」
ラキシエルは声に出して笑ってみたが、セインは無表情のままだった。
氷色の瞳をゆっくりと細める。何かを思い出すように、遠くを見つめるように。
「姉が、ひとり居た」
ラキシエルは無言で目を見開いた。
「驚くような事を言ったか?」
「いや、別に。君のお姉さんなら、さぞかし綺麗な人なんだろうなって思っただけだよ。でも……その、『居た』って言うって事は、お姉さん、亡くなっているのかい?」
セインは短く間を空けてから、
「さぁ……」
とだけ言った。
肉親の事についての返答としては、薄情なほど淡白だ。しかしラキシエルは、肉親に対する情愛を持たないが故の答えではないのだろうと理解した。彼はきっと、姉について、本当に何も知らないのだろうと。
どうやらセインとは、世間話すら気を使ってしなければならないようだ、とラキシエルは悟った。もしかすると彼自身は気にしていないかもしれないが、ラキシエルの方が息苦しくなってしまうのだ。
だから、部屋に到着した時は少し嬉しかった。そそくさとセインを寝台に押し込めた。セインはやはり探し人が気になるようだったが、「駄目だよ」と念を押すと、しぶしぶ布団を被った。さすがに、自分の体がどれほど弱っているか、自覚しているのだろう。
「じゃあ、僕はちょっと買い物に行ってくるよ。すぐに帰ってくるからね。逃げようなんて考えず、しっかり休む事」
「判ってる」
「判ってないからしつこく言っているんだよ、ダリュスセインくん」
ラキシエルはおどけた口調で言ってから、部屋を出ようとセインに背を向けた。
「待てよ」
低く短く響く、セインの声。
ラキシエルが振り返ると、少年は上半身を起こし、不審な目つきでラキシエルを睨んでいた。これまでも、年長者を敬う心を忘れているかのような態度を取られていたが、それとはまったく種類の違う、ひどく冷たい視線だ。
何か無意識に、セインの機嫌を損ねるような事をしてしまったのだろうか。
ラキシエルは己の言動を振り返った。答えは、自ら探し出すよりも前に、セインによって告げられた。
「どうして俺の本当の名前を知っているんだ」
ラキシエルは自身の失態に気付き、息を飲んだ。
「その名は、教えていないはずだ。どうして知って――まさか、お前」
セインはどうやら、思いつく限りで最悪な状況を、覚悟しているようだった。何があればそんなにも他人を恨めるのかと訊きたくなるほど冷たい眼差しでラキシエルを見てから、視線をずらす。その先には、剣が立てかけてあった。雪の中倒れ込んでいたセインが握りしめていたものだ。
「ちが、違うよ、セイン。落ちついて。僕は本当に怪しい者ではないんだ」
胸の前で懸命に手を振って否定してみたが、セインの不信感は拭えなかった。それどころか、余計に不信感を募らせただけのようだ。
ラキシエルは困惑した。どう説明をすればいいのか、まったく判らなかった。
なぜ本当の名前を知っているのか。そんな問いには、答えられない。彼がダリュスセインとの名の持ち主だと、確実に知っていたわけではないのだ。勘が当たった、とでも言えばいいだろうか。
だがその言い訳――半分は本当であるから言い訳ではないのかもしれないが――に意味はないだろうとラキシエルは思う。ダリュスセインと言う名が珍しい事は、本人も自覚しているようで、偶然当てられるものでないと思っているからこそ、ラキシエルを疑っているのだろうから。
ラキシエルはぐっと拳を握る。仕方がない、と心の中で呟いて覚悟し、セインの瞳を真っ直ぐに捉えた。
「フィアナランツァを覚えている?」
ラキシエルがその名を口にすると、セインはあからさまに反応する。張りつめていた空気が、少しだけ和らいだ気がした。
代わりにラキシエルの心が、痛みを訴えはじめたけれど。
「覚えているようだね。よかった。僕は彼女――フィアナの知合いなんだ。ダリュスセインと言う名前の弟が居ると何度か彼女から聞いていたし、君はセインと名乗ったし、顔も髪の色もとてもフィアナに似ているから、きっとそうなんだろうと思って……」
苦しくて、胸が裂けそうだ。
フィアナランツァ。口にするだけで辛い、愛しく、悲しい名前。泣きたくなるほどに。
「姉は……フィアナランツァは、今、どうしている」
フィアナランツァの弟である彼が、姉に対して好意的な感情を抱いているならば、当然出てきてしかるべき疑問だった。
答えようと口を開いてみたが、唇は細かく震え、言葉は喉につかえる。ラキシエルは何も言えないまま、両手で顔を覆った。
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