四章
2
セインは夢を見ていた。ちらちらと雪が舞いおりる中、身を寄せ合って寒さをしのぎながら歩いている夢を。
それが夢ではなく、実際に体感した記憶の再生であると気付いたのは、子供が突然泣きだした時だった。静か過ぎる白い世界に響く泣き声に、覚えがあったのだ。
子供が泣く理由は判らなかったが、もし寒さゆえの事ならば、もう少しだけでも温めてやりたいと思ったセインは、手を伸ばそうとした。冷気にさらされる柔らかな頬を、雪の混じった風から守ってやる事くらいはできるだろうと。
その瞬間、目の前に雪が多量にふりそそいだ。何事かと思い振り返ったセインは、痩せた木々の間から飛び出してくる魔物の姿を目に映した。どうやら、魔物が勢いで蹴り上げた雪が、セインの近くまで飛んできたようだ。
子供の泣き声につられて出てきたのだろうか。何にせよ、現れた魔物が一体だった事は幸いだった。しかも、あまり強い魔物ではない。記憶を手繰り、かつてリュクセルから借りて読んだ本に書いてあった内容と、目の前の魔物を照らし合わせたセインは、そう確信した。ゴブリンだ。戦士としての修行を積んだ経験がある者ならば、倒せない敵ではない。
だがセインには、倒せる自信がさほどなかった。ガーフェルート邸を発った二年前から、まったくと言っていいほど本格的な訓練をしていない上、実戦経験は皆無なのだ。
逃げるべきだ。セインは瞬時に判断した。
「引き返しましょう!」
言いながら、もう十年以上も共に生きてきた少女と、彼女が抱く子を背中に庇ったセインは、今にも自分たちを餌にしようとしているゴブリンを牽制するために、剣を抜いた。
弱々しい足取りで走る少女を追って後ずさりながら剣を振るうと、刃がゴブリンの肉を裂く。痛みで逆上したゴブリンは、牙をむき出しにして、セインに飛びかかってきた。
ゴブリンの攻撃を、何度かは、避けた。食らっても、爪に皮膚の表面を抉られるくらいですんでいた。厚く積もった雪に足を取られ、尻から倒れ込むまでは。
「セイン!」
好機を得たゴブリンは、遠慮なくセインに覆いかぶさると、セインを殴り、爪で裂き、牙で食らいついてきた。そのたびに鋭い痛みがセインを攻める。血と共に、熱が流れ出ていく感覚がした。このまま凍えて死んでしまうのではないかと思った。
『大いなるマナよ。光の矢となりて、敵を撃て』
少女の心地よい声が、セインの知らない複雑な言葉を語った。
歌うようになめらかに響くその声と、振るわれた長い杖は、空中に輝く矢を生み出す。それはまっすぐにゴブリンへ向かい、わき腹に突き刺さった。
ゴブリンは叫んだ。セインが切りかかった時よりも、遥かに大きく、苦しそうな声で。ひとしきり叫ぶと、セインの事などすっかり忘れてしまったのか、顔を上げ、魔法を放った少女を睨んだ。
セインは身を起こす。体中が悲鳴を上げていたが、それでも懸命に、少女を視界に捉えた。
「逃げてください! 早く!」
叫んだ。だが少女は、逃げるそぶりを一切見せず、ゴブリンに怒鳴りつけた。
「セインから離れなさい!」
ゴブリンは人の言葉を解さない。少女が語る言葉の意味など、当然理解していないだろう。
それでもゴブリンは、少女の言葉に従って、セインのそばを離れた。手痛い魔法攻撃を放った少女への怒りで、周りが見えていないのだろうか。それとも、セインよりも少女のほうを、より良い餌と判断したのだろうか。
少女は魔法を使うために一時雪の上に置いた子供を抱き上げると、踵を返して走り出す。ゴブリンは、迷わず少女を追った。
「駄目……で……」
剣を杖代わりにして、セインは立ち上がる。そうして少女たちを追いかけようとしたが、ゴブリンに追わされた傷は深く、出血も多く、思うように動かなかった体は、再び雪の上に倒れこんだ。
「……ナ……さ……」
情けない。ゴブリンにも敵わない無力さが。立ち上がる事もできない弱さが。
夢を見ながら、セインはそう思った。だが倒れたその時は、何を考える余裕もなく、すぐに意識を失った。
セインは目を見開いた。それと同時に体を起こそうとして、できずにうめいた。意識の覚醒と共に体中の傷が一斉に痛みを訴えはじめ、声を出す事もできなかった。
うずくまり、枕から浮かせた頭を元に戻す。大きく息を吸い込んだ。それだけで、胸の辺りに引きつるような痛みを覚える。その事実に違和感を覚えたセインは、周囲を見回した。
まず、自分の体が寝台に横たわっている事が判った。当然、辺りに雪などない。暖炉で大きく燃える炎と厚手の布団や毛布のおかげで、とても温かかった。
ついさっきまで、思いきり息を吸うだけで鼻や喉を痛めそうになるほどの冷気の中にいたはずなのに――
「どこだ……ここは」
どうして自分が室内に居るのか、セインには理解できなかった。雪山から移動した記憶が、まったくないのだ。
あの雪山の記憶は本当に夢だったのだろうかと、一瞬だけ考えてみたが、夢の中でゴブリンからくらった傷と、今セインの身を苛む傷の位置がまったく同じであったので、やはり現実だったのだと判断するしかなかった。
落ち着け。ずれた毛布を肩まで引き上げながら、セインは自分にそう言い聞かせる。
きっと、痛みかなにかの衝撃で、一時的な記憶障害になっているだけだ。落ち着いて、ゆっくりすれば、途切れた記憶が蘇るだろう――セインはそう楽観視してみたが、落ち着いてしばらく考えてみたところで、やはり何も思い出せそうになかった。
無為な時間を過ごすたびに、得体の知れない不安と苛立ちが育つ。せっかく落ち着いた心が、再び騒ぎ出そうとした。
部屋の隅にある扉が開き、片手に水桶を持った男が現れたのは、その時だ。
顔立ちそのものは凡庸だが、渋い金色の髪と左右色の違う目が、妙に印象的な男だった。やや幼い顔立ちをしているし、セインより背が低く、体つきも華奢で、せいぜいが同い年くらいにしか見えない。しかし、かもしだす雰囲気はどこか落ち着いていて、もしかすると年上なのかもしれない、とセインは考えた。
「あれ?」
驚いた様子の男は、水桶を傾けて少し袖を濡らしながら、しかしそれを気にする様子もなく、セインを凝視した。
「よかった。目が覚めたんだね。心配したよ。今日で寝たきり三日目に突入だったから」
「あんたは……」
「あ、そうか。僕はもう三日も一緒に居るから慣れてるけど、君は僕をはじめて見るんだよね。じゃあ自己紹介。僕はラキシエル・アイオン。旅医者さ」
「医者……?」
「あ、こんな若い医者なんて信用できないって思ってる? 僕、こう見えてもう二十三歳、もうすぐ二十四歳だから。まあ充分若いけどね」
もしかするとどころか、明らかに年上だったらしい。セインは内心の僅かな動揺をごまかすため、無言を貫いた。
ラキシエルは微笑むと、寝台脇にある椅子に腰を下ろした。近くの台に水桶を置いて手を空けると、起き上がろうとしたセインを制止する。
「おとなしく寝ていて。君は、意識が戻ったからって起き上がっていいわけじゃないんだ。十一ヶ所に裂傷、ほぼ全身に軽い凍傷。失血も多かった。僕がたまたま通りかからなかったら、間違いなく死んでいたんだからね、ええと――名前、教えてくれるかい?」
「セインだ」
「セイン……か」
ラキシエルは確かめるように、口の中で何度かセインの名を繰り返した。
「じゃあセイン、さっそくだけど、ちょっと残念なお知らせ。おとなしく寝ていてくれればもう命に別状はないけれど、傷はいくつか残ってしまうと思う。肩の噛みあとと、胸から左わき腹にかけての大きいやつと、あと、額についているのもかな。体はともかく額のは、せっかくけっこう綺麗な顔に生まれてきたのに、もったいないよね。高位の司祭さまにでも治してもらうかい? 寄付金とか言ってかなりお金とられると思うけど」
「どうでもいい」
「そうだよね。顔に傷って、見方によっては格好いいよね。女の子だったら、受け取り方が違うのかもしれないけど」
のんきな口調のラキシエルの言葉によって、何よりも大切な事を思い出したセインは、ラキシエルの制止も聞かず、体を起こし、ラキシエルの肩を掴んだ。
「ど、どうしたんだよ」
無意識に、手に力がこもる。肩を掴まれているラキシエルは、僅かに顔をしかめた。
「アーシェリナ様とソフィアは無事か?」
まるで睨んでいるかのように真剣な眼差しで、セインは問うた。
雪山で魔物に襲われたのは、夢ではない。現実の記憶なのだ。ならばふたりが無事なのか、怪我をしていないかが、気になった。きっと平気だろうと楽観的に考えるには、今セインのそばにラキシエルしか居ない事実が邪魔をした。もしアーシェリナが自由に動ける状態ならば、心配そうな顔でセインの傍らに居るだろうと思うのだ。
セインを守るためにゴブリンを引きつけて走り去って言った細い背中が、目の奥に蘇った。響き渡る子供の泣き声は耳の奥に。追う事すらできなかった悔やみは、胸の奥に。
それらの記憶にどれほど攻め立てられても構わない。ふたりが無事ならば。それならば、どんなに自分が情けなくとも、救われる。
「名前が判らないか? 外見は、俺と同じ年頃の黒髪の美しい女性と、一才の子供だ。俺と一緒に、居たはずだ」
ラキシエルは眉根を寄せ、視線を泳がせた。緑と紫の瞳に、困惑を浮かべて。
ラキシエルの手が、セインの手首を掴んだ。彼の手は、あっさりとセインの手をラキシエルの肩からはずした。
力だけには自信があったセインは驚いた。明らかに弱々しい目の前の男に、こんなにもあっさりと力で負けるとは。それほど、全身の怪我によって弱っていると言う事だろうか。
「ごめん」
泳いでいた視線をセインの元に戻したラキシエルは、絶望的な言葉を告げる。
「僕はそのふたりの事を知らない」
続いたのは、一番聞きたくなかった言葉だった。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.