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四章



 他人の親切から生じた忠告をきかなかった件について、ラキシエルは深く後悔していた。
「やっぱり、言われた通りやめておけばよかったんだ」
 手綱を握り締め、空を仰ぎ見る。左右色の違う瞳に、昨晩から降り続く雪が、ゆっくりと舞い下りてくる様子が映った。
 降りはじめから降雪量は少なめだったが、今は更に少なくなっている。ようやく止んでくれるのかもしれないと、ラキシエルは淡い期待を抱いた。毛皮の上着や毛糸の手袋など、思いつくかぎりの防寒着を身にまとっても、震えが止まらないほど寒いのだ。雪と風が止まってくれるだけでも、かなりありがたかった。もちろん一番いいのは、雪を降らせる雲がどこかに消えて太陽が姿を見せてくれる事だが、灰色の雲は見渡すかぎりの空を覆っていたので、そこまでの期待をする気は起らなかった。
「やめておけばよかったなぁ……」
 後悔が、胸の奥から息を引きずり出す。外気と比較して明らかに熱を持つそれは、白く長く伸びたかと思えば、あっさりとどこかに消え去った。それを眺め、体ばかりか心まで寒くなったラキシエルの脳裏に、ひと晩世話になった宿屋の主人の、よく言えば温かみのある、悪く言えば暑苦しい顔が、突然蘇ってきた。
 彼は今朝、「山越えをする」と言ったラキシエルを、親切にも引き止めてくれたのだった。「雪山ほど恐ろしいものはない。ただでさえ辛い山越えを、冷気と戦いながらしなければならない。遭難しても、誰も助けには来てくれない。死ぬかもしれないぞ」と。
 主人の言葉はもっともだと理解しながら、ラキシエルは笑いながら返したのだ。「大丈夫ですよ。準備は万端にして生きますし、凍死とか遭難なんて馬鹿な事にはなりませんから」と。
 確かに、馬鹿な事にはならなかった。体の芯から冷えるほど寒いが、寒さ対策はしっかりしてきたため、凍え死ぬほどではない。山越えとは言っても、大して高い山ではないし、山を挟んで国交が盛んなためにきちんと整備された街道があり、今のところそこから外れていないため、遭難する可能性も低かった。
 それでも、ラキシエルは後悔していた。心の底から、後悔していた。あまり雪の降らない地域で生まれ育ったとは言え、「降り続いた雪は積もる」と言うあたりまえの事をすっかり失念していた自分自身に、絶望すらしていた。それは、車輪の半分近くが雪に埋もれているせいで、馬車全体の動きが重くなっているため、進行速度が予想以上に鈍っているせいだった。
 日が傾くよりも前に次の宿場町にたどり着く予定だったと言うのに、まだ半分しか進んでいない。もう昼は過ぎていると言うのに――この調子でいけば、なんとか夜中までにはたどり着けるだろうが、寒い思いをする時間が長引くと思うだけで、ラキシエルは憂鬱だった。
「別に、間違った選択をしたとは思ってないさ。このあたりの冬は常に雪が降りっぱなしのようなものだって言われてたからね。春まで待つ気なんて、僕にはこれっぽっちもないんだよ。だからと言って別の街道を使って遠回りしたら、何ヶ月かかるか判ったもんじゃないし。いやね、別に山の向こうに用があるわけじゃないから、何ヶ月かかったってよかったんだけども」
 厚い雲のせいで昼とは思えないほどの薄暗さや、人や動物の姿がまったく見当たらない静けさは、ラキシエルを心細くした。ひとりごとがひとりごととは思えないほどの声量になっているのは、そのせいだ。
「君もがんばってくれよ。こんな目に合わせてごめん。町に着いたら、何かごちそうを食べさせてあげるから――と言っても、僕は馬のごちそうがなんなのか知らないんだけど。きっと馬に詳しい人がひとりは居るだろうから、その人を探して訊いてみるよ」
 寂しさのあまり、ラキシエルはとうとう馬車を引く馬に話しかけるようになった。もちろん、馬と意思を疎通させる術など持っていないので、意味合い的にはひとりごととさほど違いはない。
「退屈だなー」
 語り続けた挙句、ひとりごとにも飽きたラキシエルは、呟いてから周囲を見回したが、雪の白か、葉のない木々の茶色だけしかない景色は、町を出てからこれまでほとんど変化がなく、余計に退屈な気分になるだけだった。
 だからと言って、一面の白の中に見慣れた赤が埋もれる光景を見つけた時、退屈が紛れたと喜ぶ気にはなれなかったが。
「何だ、あれ……」
 嫌な予感しかしなかった。ラキシエルは予感に従い、すぐに馬車を停止して飛び降りると、膝のあたりまで包み込もうとする柔らかな雪を蹴り上げながら、走り出す。
 近付いてみると、ラキシエルが見つけた鮮やかな色は、冷えて凝結した血液だと判った。思った通り、嫌と言うほど見慣れた色だったのだ。
 だがラキシエルは、あまり血痕に目を止めなかった。それよりももっと重要なものを、すぐそばに見つけたからだった。
 雪の中に倒れ込む、雪に同化してしまいそうな白い肌と白銀の髪を持った、人間。
 その人物には少しだけ雪が積もっていた。ここで倒れてから、いくらか時間が経過しているようだ。ラキシエルは慌てて手で雪を掃ってやった。
 体格から、すぐに若い男性だと判った。現れた綺麗な顔に残る幼さから、まだ少年と言える年代だろうとの予想もついた。
「どうして――こんなところに」
 ラキシエルは少年に目を奪われたあまり動きを止めたが、ほんの数瞬の事だった。少年の固く閉じられたまぶたが、余計な事を考えている場合ではないと、ラキシエルに教えてくれたからだ。
 すでに命はないのかもしれないと不安を覚えたラキシエルだが、手袋越しに伝わってくる少年の熱と脈が、その不安を掃ってくれた。しかし、別の心配事が増えた。雪を赤く染めた血液が、この少年から流れ出ているものだからだ。
 白い肌のところどころが、魔物の爪か牙のような鋭いもので引き裂かれている状況は、けして楽観できない。それに、こんなところに倒れていたのだから、凍傷を起こしているかもしれない。雪の積もり具合から、そう長い倒れていたわけではないと思うが――
「大丈夫か?」
 大丈夫な訳がないと判っていながら、ラキシエルは少年に声をかけてみた。ついでに、軽く頬を叩いてみる。やはり反応はなく、完全に意識を失っているのだと確かめられただけだった。
 とりあえず馬車に運び込もうと、ラキシエルは少年の腕を取り、自分の肩に回した。担いでやれれば良かったのだが、残念な事に、少年の体はラキシエルよりも大きく、重い。腕力に自信のあるほうではないラキシエルが持ち上げて運ぶのは無理な話で、引きずるがせいぜいだった。
 馬車までの距離がおそろしく遠かった。思うように動けないもどかしさに、ラキシエルは舌打ちをする。
「絶対助けてやる」
 ラキシエルは吐き捨てるように呟いた。
「そして、僕に拾われた幸運を、チャ・ザに感謝させてやるからな」
 言いながら、ラキシエル自身が幸運を司る神に祈りを捧げる。
 すぐそばにある、力なくうなだれる少年の顔を覗き見た。すると、少しだけ力が湧いてくるような気がした。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.