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三章



『光よ』
 薄暗くなりはじめた部屋の中で、アーシェリナは師に与えられた杖を振るいながら、力ある言葉を唱える。
 響きは魔力を持って杖の先に宿り、淡くやわらかな青白い光となって、辺りを照らす。あまり広くない部屋であったので、四隅を除くほとんどを明るくする事ができた。
 セインは意志の弱い眼差しを、アーシェリナが手にする杖の先、光の中心へと向ける。すると、彼が本来持つ氷のように色素の薄い青の瞳は、光を映して若干色見を増し、いつもと違う輝きをアーシェリナに見せてくれた。
「魔法、ですよね」
 しばらく光に見惚れていたセインが、突然そう問いかけてきたので、ぼんやりとセインの瞳に見惚れていたアーシェリナは、意識を現実へと引き戻した。
「ええ。ようやくこれだけ使えるようになったの」
「ようやくって……普通の方も、こんな短期間で使えるようになるのですか?」
 アーシェリナはいくらか返事に迷ってから答えた。
「普通は、短くても三年、長いと五年くらいかかるらしいわ」
「それを、アーシェリナ様はたった数ヶ月で?」
 セインは表情こそ静かだったが、声に強い驚愕を交えていたので、アーシェリナは慌てて手を振り否定した。
「あ、違うの。本当に、何も知らない状態の人が、初歩の魔法をいくつか使えるようになるなるまでにかかる時間が、よ? 普通は、魔術の基礎である古代語を覚えて、次に魔術の理論的な部分を勉強して、それからようやく実践となるんだけど、私ははじめから古代語の読み書きはできたし、魔法理論も理解していたから、その分時間が短くてすんだの。短くと言っても、古代語の勉強をはじめた時から数えればもう十年近くになるから、人より遅いくらいなんだけど」
「遅いって……」
 一度はアーシェリナに向けていた視線を、もう一度光の中心に戻してから、セインはさらに首を回し、少なくとも今宵は不要となった燭台やランタンと言った照明器具に目を向けた。
「でも、とても凄い事、なのでしょう?」
 否定できなかったアーシェリナは、謙遜すると言う手も考えたが、あまり意味がないように思え、素直に頷いた。
 どれほど情熱や時間を費やしても、生涯魔法が使えない者も居るのだ。それを考えれば、魔法を発動できるようになっただけでも、充分才能に恵まれていると言っていいだろう。しかも、独学ではけして習得不可と言われている古代語魔法を、ほぼ独学、たった数ヶ月師事しただけで――
「良かった」
 アーシェリナが肯定するのを確かめたセインは、弱々しいながらも優しい笑みを浮かべると、呟いた。
 相変わらず光に照らされているはずだと言うのに、細まった眼差しには、強い闇が生まれている。それを感じとったアーシェリナの心は、急速に冷えていった。
 アーシェリナは、セインが抱えるものが、時の流れと共に徐々に強まっていくのを感じていた。
 相変わらず何事もなかったように振舞おうと、アーシェリナの前では笑ってくれるが、もう笑顔だけでは偽りきれなくなっている。ならば偽る必要のない、ひとりで居る時の彼は、どれほどひどい状態なのだろうか。
「何が『良かった』の?」
 アーシェリナは首を傾げながらセインに訊ねた。
 本当は聞かずとも判っていた。セインが抱えるものの正体など、少し考えれば判る、単純なものだったから。
 おそらくガーフェルート邸から持ってきてしまったもの。そして、はじめからアーシェリナと共有しようと考えないもの。ふたりで逃げ出してきた時の状況と、以前彼が口にするのをためらった名前を思い出せば、答えはひとつしか考えられなかった。
「私が父親を殺して自由になった事が『良かった』の?」
 アーシェリナが核心を突きつけると、返答できないでいたセインは、一度だけびくりと体を大きく揺らす。もはや笑顔を作る事もできなくなったようで、絶望を秘めた瞳でアーシェリナを見下ろした。
 アーシェリナが光り輝く杖を壁に立てかけると同時に、セインは身近にあった寝台に腰かけた。それはまるで倒れ込むかのようで、アーシェリナの胸はきりきりと痛んだ。
 アーシェリナの手が赤く染まったあの晩、セインは言ってくれた。「貴女は汚れていない」と。だからアーシェリナは、セインが全てを許してくれたのだと思っていた。
 けれど違うのだ。セインは確かにアーシェリナを許してくれたが、代わりに自分自身を責めている。自分のせいでアーシェリナに父親殺しをさせてしまったのだと――それが勘違いだとも知らずに。
「何を、おっしゃって……」
「勘違いしないで、セイン。私が殺したのはエイナス・ガーフェルートよ。父親なんかじゃない」
「アーシェリナ様!」
「それに、殺したのは私自身のため。私が、生きるためによ。私のわがままなの。貴方のためじゃない」
 ただ、セインに生きていて欲しかった。そして叶うならば、ずっとそばに居てほしかった。だからアーシェリナは、エイナス・ガーフェルートを殺した。それだけの、単純な話なのだ。
 セインが思い悩む必要など、ないのだ。
「貴方のためのはずがないでしょう。貴方のためにした事で、貴方をこんなにも苦しめているのだとすれば……私、ただの馬鹿じゃない」
 アーシェリナはゆっくりとセインに歩み寄る。するとセインは逃げようとしたのか、僅かに腰を浮かせたが、アーシェリナはけして逃すまいと、セインへ手を伸ばした。
 細い髪が指先に触れる。白銀が、淡い青を取り込んで幻想的に輝いていた。
「貴方がひとりで悩んで、苦しんでいた事は知っていたわ。それを私に気付かれたくないと思っていた事も。だから、今までは――だけど、ごめんなさい。わがままで。私は、貴方にひとりで苦しんでほしくないの」
「何の……事です」
 もう答えは判りきっているのに、それでもごまかそうとして虚勢を張るセインの姿を、アーシェリナはたまらなく愛しく感じた。
「私は貴方の救いになりたい。貴方が少しでも楽になれるなら、何でもしたいの。私がした事で貴方が苦しむのは、やっぱり、私にとって辛い事だわ」
「違う。違います、アーシェリナ様。貴方は苦しまなくていい」
「無茶な事、言わないで」
 アーシェリナは体の奥から次々溢れる言葉を整理しようと、ゆっくりとした呼吸を一度だけ挟んだ。
「私は貴方が苦しんでいるのが、一番辛いの。私に苦しむなと言うのなら、貴方が苦しまないで」
 本音を率直に吐露すると、セインは片手で顔を覆いながら俯いた。
 もしアーシェリナが、父を殺した事で悲しみ、落ち込んでいたら、セインは慰めてくれたのだろうか。アーシェリナを元気付ける事に必死になって、これほど沈む事はなかっただろうか。
 もどかしい想いを抱えながら、アーシェリナは両手でセインの頬を包み込む。
 導かれるように顔を上げたセインは、アーシェリナをじっと見上げた。アーシェリナにとって苦痛となる眼差し――セインが一番苦しんでいた時、アーシェリナの中に別の男を探し出して憎しみをぶつけてきた時に、よく似た瞳で。違っているのは、抱えている感情だけだ。
 罪悪感に震える彼は、そうしてアーシェリナの中に、エイナスの影を探しているのだろう。自分自身を責めるために。
 それは自らの破滅を求めているようにも見え、悔しさに震えたアーシェリナは、セインとそっと額を合わせた。
 お願いだから、苦しまないで。
 私と同じ血を流す人の事なんて、何もかも忘れてしまって。
「貴方は言ったわ。罪になるとしたら、生き長らえた事だと」
 アーシェリナは再び語りはじめる。声と共にこぼれる息で、白銀の睫が揺れた。
「それが本当に罪ならば、貴方はこれからも、罪を犯し続けなければいけないの。私が生きるために」
「アーシェリナ様……」
「貴方だけが、私の生きる理由なの。貴方が生きていないなら、生きる意味なんてないの」
 一瞬だけ固く目を伏せたアーシェリナは、目を開けると、セインを見下ろした。深く暗い瞳を見つめると、セインの肩に置いた手が勝手に震えだす。
 持ち合わせた勇気を全てかき集め、少しの勢いに後押しされたアーシェリナは、ゆっくりとセインにくちづけた。
 喜びと羞恥のあまり熱が上がっていく。唇で触れたところは温かく柔らかで――だがそれとは対照的に、手で触れたところは、徐々に強張っていった。
「アーシェリナ様」
 唇が離れると、セインはアーシェリナの肩を掴み、引き剥がすようにアーシェリナと距離を置いた。
 目が合う。セインが照れた表情で顔を反らしたため、僅かな時間の事だったが、それでもアーシェリナは、氷色に潜む相変わらずの闇の中に、何か違う色の瞬きを見つけた気がした。
 だからアーシェリナは、けして拒絶されているわけではないのだと、自信を持つ事ができた。セインが、精一杯腕を伸ばして距離を取ろうとしていても、けして手を放しも突き放しもしないから、余計に。
「その呼び方はやめて。私はもう、ガーフェルートのお嬢様じゃないのよ、セイン」
「いいえ」
「そうなの。私は貴方と同じなの」
「いいえ……違います」
「だからって、愛してほしいなんて、言わないから。ただ、認めてほしいだけ。私がただのアーシェリナなんだって」
 アーシェリナの肩を押さえるセインの手から、力が抜ける。
 自らの体を支える力が急に失われた事で、アーシェリナの体はよろけた。自力で立ち直る事ができないまま、セインの胸の中に倒れ込むと、セインの腕がアーシェリナの体を包み込んだ。
 優しくない、ただ力強いだけの腕は、震えていた。それは緊張や戸惑いから生まれたものではないだろうと、アーシェリナは理解していた。彼はきっと、虚勢を張る事を諦めたのだ。祈り、救いを求めたのだ。たまたま目の前に居たアーシェリナに――アーシェリナは、それで構わなかった。セインが、ほんの少しでも苦しみを忘れ、癒されるならば、夢のように幸せだった。不器用に触れてくる手に、うっとりと酔いしれる事ができた。
「アーシェリナ様……」
 セインがときおり、そうしてアーシェリナを呼ぶたびに、夢は覚めたけれど。
 彼の心は、もしかすると一生、受け入れないのかもしれない。アーシェリナが、ただの女である事を。
 それはアーシェリナにとって、たまらなく悲しい事だった。


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