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三章



 アーシェリナの目の前に座る女は、長い時間難しい顔をしていた。
 はじめて向かい合った時は、優しい顔をしていたはずだ。けれどすぐに眉間に皺が刻まれた。その皺は時間と共に深まっていき、固く引き締められた唇は形を歪めていった。
 女の様子が変わったのは、アーシェリナが手渡した羊皮紙に目を通しはじめた途端だ。
 ガーフェルート邸の庭の片隅に閉じ込められた十年強の年月の中で目を通した、多くの魔術関連の書物の中に見つけた、いくつかの疑問。しかし当時は抱いた疑問を他者に頼る事では解決できなかったので、自分なりに考え、結論付けるしかなかった。けれどいつか、誰かに確認できる日が来るかもしれない――そう願って書きとめておいたものを、アーシェリナは女に見せたのである。
 女は魔術師だった。たまたま通りかかった街で正規の魔術師に出会えた事を幸運に思ったアーシェリナは、自分の理論に目を通してみてくれと頼んだのだ。
 だが、女の反応を見たアーシェリナは、自身の行動を恥じた。女が無知な小娘の思い付きを長々と読まされる事で、機嫌を損ねているように見えたからだ。
「貴方は以前、どこの誰に師事していたの?」
 十枚以上も続いた文章を全て読み終えた女が、手にした紙束を整えながら最初に口にした問いがそれだった。
 アーシェリナは落胆した。やはり失敗だったのだと思った。魔術に関わる人間にとって、ごく基本的な事を、長々と書いてしまっているのだと。だから女は、真っ先にアーシェリナの師の能力や常識を疑ったに違いない。
「誰にも」
「はい?」
「誰にも師事していません。ひとりで本を読んだだけです」
「なるほどね」
 女が納得した風に頷いたので、アーシェリナは少し悲しい気持ちになって、俯いた。
「だから、魔術師の間では完璧なものとして受け入れられているシュベルの理論に疑問を抱けたのね」
「すみません」
「どうして謝るの?」
「無駄な時間を取らせてしまったので」
「私の時間が無駄か無駄じゃないかは、私が決める事であって、貴女が決める事じゃないでしょう」
 口調はそれなりに優しかったが、言葉に宿る力は強く、彼女の言う通りだと素直に納得したアーシェリナは、無言で頷いた。
「逆に私がお礼を言いたいわ。とても有意義な時間だったから。正魔術師になってから一番、と言ってもいいくらいにね」
 アーシェリナは咄嗟に顔を上げる。そうして目にした女の表情は、再び柔らかい笑顔に戻っていた。
 微笑む女は、アーシェリナに見せつけるように、羊皮紙の束を目の高さまで掲げる。
「独学と言うからには、貴女はまだ魔法を使えないのかしら?」
「はい。古代語の読み書きは大体できるようになりましたので、理屈上は判るのですが、呪文の詠唱がうまくいかなくて……」
 もしかすると、十年もあればそちらの方も独自の練習で何とかできたかもしれないが、声を出せるようになったのがつい最近であるアーシェリナには、どだい無理な話だった。
「と言う事は、ここに書いてある事は当然実践されていない」
「はい」
「じゃあ、今すぐに貴女の理論が正しいとは言えないわね。けれど、とても興味深い。実証してみたいと思えるわ」
 アーシェリナは即座に立ち上がり、女に頭を下げた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 礼を言い終えてアーシェリナが頭を上げた時、女は目を見開き、アーシェリナを凝視していた。
 どうやら、驚いているようだが、なぜ女が驚いているのか判らないアーシェリナは、戸惑うしかなかった。
「今のお礼の言い方って、ひょっとして、このレポートを丸ごと私に預ける気?」
「迷惑ですか」
「迷惑ではないけど……ほぼ全て貴女が考えた事なのに、手柄は完成させた私のものになるわよ? 世間に評価されて、名声を得るのは私だけ」
「私はそれで構いませんけど」
 アーシェリナは軽く頷いた。抱えた疑問の答えをはっきりと知りたいだけのアーシェリナには、女の語る世間の評価や名声などに、何の価値も見出せなかった。
「あ、そ、そうなの?」
 女は再度驚いた様子を見せたが、唐突に諦め交じりの笑顔を浮かべる。もう一度書類に軽く目を通してから、自身の胸に抱え込むと、頷いた。
「なら遠慮なくもらうけど――これとは別にしても、私は貴女に興味があるのよ。独学でこれほどのものを書きあげた貴女が、誰かの手によってもっと多くの知識を得たら、どんなにすごくなるのかしら、って」
 テーブルに手を付いて少しだけ身を乗り出した女は、真剣な眼差しでアーシェリナを見上げた。
「貴女、私の元で魔術師を目指して見る気はない?」
 女の言葉は、率直な分だけ真っ直ぐに、アーシェリナの胸に届く。
 つい数ヶ月前まで勉強以外にする事がなかったアーシェリナにとって、更なる知識の深みに到達できると言う意味を持つ誘い文句は、とても魅力的なものだった。今回のように、自分が抱いた疑問を他人に頼む手間が、省けるのだから。
 それに、伯爵令嬢でなくなった今、何かしらの力を得る事は、重要に思えるのだ。日々の糧のためにも、自分自身や大切なものを守るためにも。
 けれど。
「考える時間をいただけますか。一日でもいいので」
 迷うアーシェリナが訊ねると、女は何度も頷いた。
「考えてくれるなら嬉しいわ。もしその気になったら、魔術師ギルドを訪ねて。私の――ユリアの名を出せば、通してもらえるから」
「判りました。ありがとうございます」
 アーシェリナはもう一度礼を言うと、その場を後にする。
 最初はゆっくりと歩いていたが、徐々に走りはじめた。脚力の弱いアーシェリナが走ったところでたかが知れているのだが、それでも、できるだけ早く目的の場所に到着したい気分だったのだ。
 通り過ぎる家や店のところどころに灯りが点きはじめている事に気付いて、間もなく陽が落ちる頃合なのだと、アーシェリナは知る。同時に、ユリアと居た時間が思っていたより長かったのだと判ると、気持ちが逸った。

 世話になるのは今宵で最後だろうと思っていた宿に到着すると、アーシェリナはできるかぎり急いで階段を上った。自分たちの部屋は二階の一番奥だ。おそらくセインはもう、部屋にいるだろう。すぐに相談したかった。先ほどのユリアの申し出も含めた、これからの事を。
 扉は少しだけ開いていた。中から灯りがもれていたので、閉じ忘れたのだろうとアーシェリナは判断した。セインにしては珍しいなと、少し楽しくなったアーシェリナは、セインを驚かせてやろうかと、できるだけ足音を殺して扉に近付き、そっと中を覗きこむ。
 その瞬間、心臓が押しつぶされるかのような痛みが走った。
 予想通り、セインは部屋の中に居た。備え付けの安物の椅子に腰かけて、うなだれていた。灯りに照らされる瞳は虚ろで、視線はどこにも定まっていなかった。
 膝の上に投げ出した手で、ふいに固い拳を作ったかと思うと、椅子の肘掛を叩く。痛みに痺れているだろう手をゆっくりと開くと、しばらくてのひらを見つめてから、顔を覆う。
 指の隙間から見える、固く伏せられた瞼には、強い苦悩が浮かんでいた。それを見て、セインが何かを抱え込んでいる事に気付けないほど愚かではなかったアーシェリナは、深く傷付いた。
 きっと、昨日今日抱え込んだものではないのだろう。つまり、共にガーフェルート邸を出てからこちら、セインがアーシェリナの前で常に明るく振舞っていたのは、その「何か」をひとりで抱え込むためだったのだ。
「セイン?」
 アーシェリナは室内に声をかけながら扉を開ける。
 声に反応したセインは、顔を上げた。それまで背負っていた闇は一瞬でどこかに押し隠したらしく、先ほどまで虚ろであった事が嘘のように、明るい瞳をアーシェリナに向けた。
「ご用事はもう済まされたのですか?」
 アーシェリナは無言で頷いてから、慌てて「ええ」と声にして返事をした。それからセインに近付き、セインの前に座る。少しだけ見上げたところにある笑みは、やはりどこにも影がない。
 セインが目には見えない、けれど強固な盾を構えたように、アーシェリナは感じた。これ以上踏み込むなと、繊細な部分に触れてくれるなと、言われているようだった。だからアーシェリナは、セイン本人に関わる質問を、表に出さないよう飲み込んだままにするしかなかった。
「この街にしばらく留まっても、いいかしら」
 ユリアの誘いはアーシェリナにとって、セインと比較する価値もない事だったが、他に表に出せる質問が思い浮かばなかった。
「なぜです?」
「大した事ではないの。さっき、魔術師になるための勉強をしてみないかと誘われて、少し、興味があったから」
 セインは少し考え込んでから答えた。
「いいと思いますよ」
「本当に? 無理してない?」
「はい。実は俺も少し考えていたんです。どこかにしばらく留まって、働こうかな、と。幸い金銭的な余裕はまだ充分ありますが、一生働かずにすむわけではないですし……アーシェリナ様がこの街に滞在する理由があるのでしたら、そうしましょう」
「大丈夫かしら」
 アーシェリナが具体的には語らず、漠然とした不安だけを言葉にすると、セインはまた少し考え込んだ。
「多分ですが、俺たちを追う者が居たとしても、それは少数の、ガーフェルートの私兵だけだと思います」
「そうなの?」
「あくまで、おそらくです。けれど、ファンドリア内でも、国境を越える時も、俺たちに手配がかかっている様子はなかったので、あの――エイナス様の件は、公になっていないのだと思います」
 淀みのない語り口調の中に一瞬生まれた沈黙は、アーシェリナが知りたかった答えを教えてくれた気がした。
「だから大丈夫、とは言い切れません。あっさりと見つかって、突然この街を離れなければならなくなるかもしれません。それでも……」
「構わないわ」
 アーシェリナははっきりと言い切った。
 魔術師になる事に興味があるのは本当だ。けれど、なれなくても構わない。
 この先も、セインと共に居られるのなら。


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