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二章 episode2

17

 アルシラの足音が遠ざかり、風の音の中に消え去っても、リュクセルはしばらくその場に立ちつくしていた。
 流れゆく雲を見つめながら、長い息を吐く。やがて雲に隠れていた太陽が姿を現し、眩しさを感じると、大きく息を吸い、視線を地上へと戻した。
 そして、驚いた。
「サーニア……」
 目の前には、強い風になぶられる髪を必死に抑えるサーニアが立っていたのだ。
 いつの間に彼女はこんなにも近付いていたのだろう。これほど存在感がある人物の接近に気付けないほど、去っていったアルシラの事ばかり考えていた事自覚したリュクセルは、小さく笑うしかなかった。
「なかなか言える台詞ではないな」
 言いながらサーニアが見せる微笑みには、普段の高慢とも言える雰囲気はなかった。安堵しているような、喜んでいるような、複雑な表情だ。
 どう反応していいか判らないままリュクセルが立ち尽くしていると、サーニアは更に距離を詰め、片腕をリュクセルの首に回した。そのまま腕に力を入れ、リュクセルを肩に引き寄せた。
 もしかすると、身を切るような別れを迎えたばかりのリュクセルを、慰めてくれているのだろうか? 少し、やり方が男らしすぎる気がするが。
「よく言ったな。辛かっただろう?」
 耳元に響く言葉は、ひどく優しくて、リュクセルの胸に心地よく染み入った。
「君には罵られると思っていたよ。『なんと酷い事を言うのだ。冷血漢め』などとな。君はアルシラがお気に入りのようだったから」
「言わんよ」
 柔らかく笑いながらも、サーニアはきっぱりと言い切った。
「イルン・フォスターは笑っていた。これ以上ないほど幸福そうに、笑っていたよ」
 確かめる事が恐ろしくて、見る事を拒否した最後のアルシラを、リュクセルはサーニアの言によって知る事となった。
 そうか。笑っていたのか――私の言葉は、彼女に優しく届いたのか。
 リュクセルの心は少しだけ安らぎを取り戻した。安堵したとも言えた。少しは彼女の気持ちを理解し、彼女のために何かしてやる事ができたのだと思えたので、とても嬉しかった。
「お前がイルン・フォスターを幸せにしたのだ。自身を持て」
「ありがとう」
 リュクセルはそっと目を伏せる。サーニアの声が、香りが、温もりが、今は何よりも心地よかった。
「サーニア、突然だが」
「どうした」
「私と結婚しないか」
 リュクセルは目を伏せていたし、体勢的にも、サーニアの表情を確認できない。それでも判るほど、サーニアは動揺していた。
 まさかリュクセルがそのような事を言い出すとは思ってもみなかったのだろう――それはリュクセル本人とて同様だったが。
「なぜ、そんな事を言う」
 もっともな質問を率直に口にされ、リュクセルは小さく笑う。
「以前から、考えていたのだ。家の決めた相手と、愛情のない空虚な家庭を作る。それが私に似合いなのではないかと」
「ほう。お前にそれが似合いだとして、何だと言うのだ。付き合わされる私の身になってみろ」
 リュクセルの首に回る腕に、力がこもった。その中にはもう、優しさや労わりは見つからない。どうやらサーニアは怒っているようだった。
 当然か。リュクセルは再度小さく笑う。
「すまない。言葉が足りなかったな。君とならば、穏やかではないが楽しいだろうと思ったのだ。そのていどの幸せは、私にも許されて良いのではないかと、そう思った」
 ゆっくりと目を開けたリュクセルは、サーニアの腕から逃れ、上体を起こした。すると、戸惑いをけして表に出さない冷たい視線がこちらに向けられていたので、優しい眼差しで受け入れる。
「思ってみただけだ。気にするな」
 リュクセルはサーニアの肩を軽く叩くと、屋敷の中に戻ろうと歩き出した。
 傷付いてはいなかった。自分はサーニアに尊敬される男には一生なれないだろうと、だから受け入れられる事はないだろうと、はじめから判っていたのだ。判った上で思った事を、軽く言ってみただけだった。
「私は、お前とは良い友人になりたいと思っている」
 ふたりの距離が数歩ぶん開いた頃、背後から声が響き、リュクセルは足を止める。
 予想通り――いや、予想よりもずっと良い返事だった。
「友人は対等であるべきものだと私は思っている。だから尊敬はできないし、してはいけない。だから、けして夫にはできない」
 強い風が吹く。だが、サーニアのよく通る声は、風にかき消える事はなかった。
「そうか……」
「そう思った」
 リュクセルは、サーニアが最後に放った言葉に含まれたものを感じとり、振り返る。
 サーニアは微笑んでいた。いつもの彼女が見せる、強く凛々しい笑みだった。
「思っただけだ」
 サーニアは短く駆け、リュクセルの隣に並ぶ。そこから覗き込むように、リュクセルを見上げた。あっけにとられたリュクセルを、からかうように。そして笑みを浮かべたまま、深いため息を吐く。
「私もそのくらい妥協するのが、似合いの結末かもしれんよ」
 サーニアはため息まじりでありながら、楽しげにそう言ったのだ。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.