二章 episode2
16
強い風が色とりどりの花びらを吹き上げていた。
なびく髪を抑えながら、まとめた荷物を肩にかけたアルシラは、歩みを進める。一歩ずつ石畳を踏みしめて、花が溢れる庭を抜けた。その途中、一度だけ振り返ると、幼い頃から長くを過ごした屋敷が目に映った。
エルローに関わる事をはじめとした、嫌な思い出もそれなりにある。けれどほとんどの思い出は、優しいものだった。リュクセルとの思い出も、ほとんどがここで生まれたのだ。
名残惜しくないと言えば嘘になる。だがもう、振り返りはしまい。アルシラはそう決めていた。記憶をこの場に置いていくわけではない。自分の中に抱えて、一緒に行くのだから。
屋敷に背を向けて再び歩きはじめたアルシラは、庭園の先にある大きな門の前に、ひとつの人影を見つける。遠くてもひと目で誰の影だか判り、自然と微笑んでいた。
ああ、よかった。
最後に、貴方に会えて。
「リュクセル様」
「アルシラ」
近付いたところで互いに名を呼びあうと、アルシラは立ち止まる。
「もう、帰って来ないつもりだな?」
リュクセルはアルシラにそう問うてきた。だがその言葉の中をどれだけ探しても、疑問の意味は見つからなかった。
リュクセルは判っているのだ。アルシラの取った行動の意味を。
判ってくれているのだ。
「はい。申し訳ありません」
答えると、たくましく力強い腕は、優しくアルシラを包み込んだ。
アルシラが一番良く知っている温もりは、安らぎばかりを与えてくれた。これが最後だと思うと少し悲しくて、アルシラは視覚を閉ざした。全ての感覚を駆使して、この温もりを記憶に刻み付けたかった。けして忘れる事のないように。
「あの子たちを捕まえなければ、私は帰ってこられません。それは裏を返せば、帰ってこなければ、捕まえなくてもいい事になります」
「そうだな」
「だから――だから、私がふたりを追う事で、あの子たちは自由になれる」
私が、二度とここに帰ってこなければ。
リュクセルは腕に込めた力を緩め、アルシラの体を離した。
アルシラの思考を、望みを、リュクセルは判ってくれているのだろうと感じた。その事実が何より嬉しくて、笑みは消えなかった。今日は、今は、リュクセルのそばに居られる最後の時だというのに、満たされる気持ちは、悲しみを遥かに凌駕した。
「お前がセインたちのために犠牲になろうとしているのならば、止めた。それではセインたちとて、安らかには過ごせないだろう」
アルシラはそっと首を振った。
「判っているつもりだ。お前は全てを丸く治めただけだと。誰も不幸にならない道を選んだだけだと」
リュクセルの言葉で、ひとりの男の顔を思い浮かべたアルシラは、その瞬間笑顔を消した。
「いえ……いいえ、リュクセル様。私はひとつ、貴方に謝らなければならない事があります。私はセインたちを選ぶ事で、あの人を見捨ててしまう」
「気にするな」
「ですが」
リュクセルは静かに微笑んだ。
「これまで、お前がひとりに背負わせて悪かった。これからは、私ひとりであの方を支える。もう、大丈夫だ」
穏やかな笑みには、不思議な力強さが眠っている。その力を前にして、「大丈夫だ」との言葉を、疑えるはずもなかった。
今日この日までエルローを突き放せなかったリュクセルは、覚悟したのだ。だからきっともう、間違えないだろう。間違えずに、エルローを支え生きていくのだろう。
寂しさゆえに歪んだ青年は、いつか気付いてくれるだろうか。けしてひとりではないのだと。寂しくなどないのだと。
その日ができるだけ早く来る事を、アルシラは祈った。
「リュクセル様。今日を最後に、私の事は忘れてくださいね。それが一番大切な事ですから」
アルシラの心にひっかかっているのは、ここに残るリュクセルの事だった。ひとり旅立つアルシラを不憫に思い、気にし続けていたら、幸せになれるものもなれなくなる。それだけは嫌だった。
アルシラはこれ以上リュクセルのそばに居る事が辛いと感じていた。そばに居たいのは嘘ではないが、自分より近い位置に別の女性が存在する事に耐えたくなかった。だから離れようと思った。しかもそれが、セインたちのためになる――リュクセルが自分に囚われずに幸せになってくれれば、これほど都合の良い事は他にないと、アルシラは思っていた。
「この結末は、お前が選べる中で、一番良い結末なのかもしれないな。だが、私にとっては少なからず不幸だ」
「リュクセル様……」
「いいのだ。私はずっと考えていた。怯えていたのかもしれない。私にはどんな罰が下るのだろうと――だが、お前が心安らかであると言うのなら、思っていたよりずっといい」
リュクセルは押し黙ると、それまで握りしめていたものを、アルシラに差し出した。
アルシラが手のひらを差し出すと、開かれたリュクセルの手から、青色の球体が転がり落ちる。
「これは」
何だろうと、アルシラは考えた。見覚えはないはずなのだが、懐かしいと感じた。
これは何ですかと訊ねようとして、アルシラは顔を上げる。すると当然、リュクセルと目が合った。眼帯に覆われた左目とも。
アルシラは息を飲む事で、同時に悲鳴を飲み込んだ。
「私だと思って大切にしろなどと、意味のない事は言わん」
「ですが、これは、貴方の左……」
「そんなものでも古代王国時代の遺物だ。金になる。金に困ったら売り払えばいい」
アルシラは受け取った球体――スリープ・アイを優しく両手で包み込むと、胸に押し抱いた。手が、体全体が、震えはじめる。
「私……気付か……いつから、ですか……?」
風に打たれ続け冷えたアルシラの顔を、リュクセルの両手が包み込んだ。
愛情をこめたと言うよりは、まるで子供をあやすような、動作と表情。懐かしかった。まだアルシラが幼くて、しょっちゅう泣いていた頃、リュクセルはこうして、アルシラを慰めてくれたのだ。
「あの晩だ。お前が目覚めるよりも前だったかな。自分の手で抉り出した。その目が憎かったのか、自分を痛めつけたかっただけかは、もう思い出せんが」
「リュクセル様」
「自分に与えられる罰を、少しでも減らしたかったのかもしれん」
祈るようにアルシラは、スリープ・アイを包み込んだ手を額にあてる。
それがリュクセルなりの贖罪のひとつであったと言うならば、リュクセルの受けた痛みを、自分にも分けてほしかった。にせものとは言え、自ら目を抉り出すなど、どれほど恐ろしかっただろう。どれほどの痛みを伴っただろう。それを手伝えなかったどころか、二年以上も知らずにいた自分が、悔しかった。
一生手放すまいと、アルシラは心に決めた。たとえこの先、何もかもを失い、飢え死ぬ事になったとしても、リュクセルの目と共に朽ちようと。
アルシラは青い球体を大事にしまうと、顔を上げた。再び笑顔を浮かべて。
アルシラを見つめ返すリュクセルも、笑顔だった。
「アルシラ」
「はい」
「最後の命令だ」
「はい」
まだこの人は、自分のために何かをしてくれる。そう思うと、アルシラの心は期待に踊った。
「もう二度と、この国に帰ってくるな」
落ち着いた口調で言ったリュクセルは、アルシラに背中を向けた。
アルシラはその大きな背中を見つめ続ける。無意識に、涙が出た。絶対にそれだけはしないようにと思っていたのに。
だが、それもいい。アルシラは涙を拭わなかった。
誰に判ってもらえなくても、アルシラ自身は知っている。これは歓喜の涙なのだと――アルシラがもっとも望んでいた別れの言葉を、今、リュクセルはくれたのだ。
心が凍る。もう、迷わない。ここに帰って来る事はないだろう。くじける事もないだろう。帰って来られない事を、辛いとも悲しいとも思わない。帰りたいとも思わない。だから、セインたちやエルローやリュクセルを憎む日は、一生来ないだろう。
「はい。行ってまいります」
だから平気です。私はもう、充分です。
アルシラもリュクセルに背を向けて歩き出した。ふたりはもう二度と、互いを見る事はなかった。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.