二章 episode2
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ひと足先にアルシラが部屋を出て行くと、リュクセルは取り残された気になった。朝一番からとんでもない事件を耳に入れ、慌てて主の元に駆けつけた割に、ひどくあっさりした結果が出た気がしたのだ。
「結局自分はこの後何をすべきなのか」を考えてみると、「特に何もしなくていい」と言う結論が出てきてしまう。主から何の命令も下らなかったからと言って、まったく何もしないのはあまりに無能すぎるが、だからと言って勝手に積極的に動くのは間違っていると、リュクセルは日ごろから思っていた。
今回の場合、自分はガーフェルート邸に待機し、セインたちに捜索のために動き回るアルシラの手助けをするべきだろう。リュクセルはそう結論付け、とりあえず今はアルシラと話し合うべきだと、エルローのそばを離れようとした。
「リュクセル、お前には一応、国内の捜索を頼む。よほどの馬鹿でもない限り、国内に留まりはしないだろうから、短期間で打ち切っていいけどね」
「はい」
「それと、お前は一生、この国を一歩も出てはいけないよ」
「は……?」
「命令だ」
元より国を出ようなどと考えた事もないのだが、あらためて命令との形を取って言われると、少し身構えてしまう。リュクセルは頷くまでに、少しの間を必要とした。
「よし。ならばもう出ていけ」
リュクセルが命令を受け入れたのを確認すると、エルローはリュクセルに退席を求めた。リュクセルはおとなしく従い、挨拶をして部屋を出る。
少し混乱していたからか、エルローの部屋の扉を閉めた直後、リュクセルは「訳が判らん」と呟いてしまった。
妙に機嫌のいいエルローもよく判らないが、一番判らないのはアルシラだった。アルシラは一体何をしたいのだろう。セインやアーシェリナの自由を、もしかすると本人たちより望んでいただろうに、自ら捕らえる役目を申し出るとは。
「なかなか面白いものが聞けたな」
考え込んでいたため、エルローの部屋の前で立ち止まっていたリュクセルは、横から聞こえた声に慌てる。急いで振り返ると、すぐ近くの壁に寄りかかる格好で、サーニアが立っていた。
「室内での会話を聞いていたのか。どこからどこまで」
「おや。聞かれては困る会話をしていたのか?」
「茶化すな。君の命に関わる事かもしれんぞ」
サーニアは皮肉っぽく笑いながら両手を上げた。
「私が聞いたのは、イルン・フォスターが、『そのお役目、私にお任せいただけませんか』と言い出したところだ。伯爵令嬢と逃亡奴隷の駆け落ちは、口封じに殺されるほど重要な秘密なのか?」
リュクセルは返事をせず、沈黙の中でサーニアの目を見つめた。リュクセルの強い眼差しに、サーニアは負けじと強い眼差しで返してきて、それは偽りない真っ直ぐなものだった。
だからリュクセルは、信じようと決めた。もしサーニアが、それ以前から話を聞いていたとしても、聞いていなかった事にしてくれるだろう、と。
「言いふらさないと約束してくれるな」
「約束しよう」
サーニアが頷くので、リュクセルも頷いた。
「ところで、君はいつまでここに居るつもりだ? ガーフェルートはしばらく忙しない日々が続くだろう。私も、他の誰も、君には構っていられないぞ」
「そのようだな。仕方ないから、そろそろ帰るか。最後にいいものを見させてもらったし――いや、正確には、聞かせてもらっただけだが」
サーニアは楽しそうに微笑んだ。
「お前は本当に惜しい事をしたな。イルン・フォスターを嫁に貰い損ねるなどと。私が男だったら、とっくに嫁にしていると言うのに」
リュクセルはサーニアを見下ろす右目を見開いた。
サーニアがこの屋敷に滞在をはじめてから、それなりの日数が過ぎているが、サーニアとアルシラが顔を合わせる機会は数えるほどしかなく、会話などはほとんどしなかっただろう。いつの間にそれほど気に入ったのだろうと、リュクセルは驚きを隠せなかった。
「ふむ、やはり、帰るのは惜しいな。せっかくだから、事の顛末を見守りたい気がする。まるでおとぎ話が現実になったようで、興味深いではないか」
「おとぎ話?」
君まで訳の判らない事を言い出さないでくれ、と、消え入りそうな声でリュクセルはぼやいた。
「ああ。エルロー・ガーフェルート様が、魔王だとすると」
エルロー・ガーフェルート様、の部分に強い悪意がこもっていたが、リュクセルは軽く聞き流す事にした。
「イルン・フォスターは勇者か王子様と言ったところだな。そしてお前が、魔王に幽閉された王女様だ」
「もう少しまともなたとえはないのか……」
「なんだ、お前は勇者様や王子様になりたいのか」
「そう言う意味ではなくて、だな」
いちいち反論しても、無駄に疲弊するだけな気がしたリュクセルは、そこで口を噤む。
サーニアは寂しそうな空気をかもしだしたが、ほんの一瞬だけで、すぐに話を続けた。
「言い得て妙ではないか? 勇者は愛するお姫様を取り返すために、魔王が望む宝物を探しに行く――ふむ。魔王と言うより、根性悪の国王様の方が似合っているかもしれんな」
考える事が多すぎて、気詰まりしていたリュクセルにとって、くだらない事を言いながら能天気に笑うサーニアは、羨ましい事この上なかった。だが同時に、少し感謝もしていた。リュクセルの足をこの場に縫い付けていた緊張が、ほぐれたような気がしたからだ。
「さて、結末はどうなるのだろう。やはり勇者様は、必死になって見つけてきた宝を国王様に差し出して、王女様の元に戻り、めでたしめでたし、か?」
『悔しい』
ふいにリュクセルは、あの晩の事を思い出す。
アルシラはリュクセルの目の前で、堂々と苦悩し、嘆き、リュクセルを責めた。そばに居てリュクセルを苦しめ続けてやると、そう言った。リュクセルが望んだ通りに。
なぜ今、その時の事を思い出したのか、リュクセルには判らなかったが、何か意味があるような気がした。
胸騒ぎがする。リュクセルの手は自然と、自身の胸倉を掴んでいた。
「しかし――イルン・フォスターを嫌っているエルロー・ガーフェルート様には、少々おいしすぎる賭けではないか?」
「そう、か?」
リュクセルはぎこちなく視線を動かし、サーニアを見下ろした。
「そうだろう? エルロー・ガーフェルート様にしてみれば、イルン・フォスターがガーフェルートのためにふたりを連れ戻しても、任務が達成できずにお前と永遠に引き裂かれて不幸になっても、嬉しいではないか」
リュクセルの拳に力がこもる。自分自身を握りつぶしてしまいそうなほど、強く。
無言の緊迫はサーニアにも伝わったようで、サーニアは神妙な面持ちでリュクセルを見上げた。
『あの子のために、何でもしてあげたいんです。私に何か、できる事があるなら』
セインとの再会を果たした日、アルシラはそう言いながら、泣いていた。傷付いたセインを目の当たりにする事で、傷付く前に救えなかった事を、心から悔やんでいた。
そう言う事、なのか。アルシラ。
それが、お前の選んだ道なのか。
「違うな」
リュクセルは小さく呟いた。
「何がだ? 私のエルロー・ガーフェルート様の解釈がか?」
「いや。結末が、だ」
それだけ言うと、リュクセルは走り出した。ずいぶん先に部屋を出た、アルシラに追いつくために。
数々の思い出が蘇ってきた。生まれたばかりのアルシラをはじめて目にした日、幼いアルシラが、誰かに教えられた台詞を唱え、リュクセルへの永遠の忠誠を誓った日――よく思い出せないほど昔から、アルシラはリュクセルと共にあった。
アルシラは幸せなのだと、感じていた。それはリュクセルも同じだった。だからこそ何も変えようとしないまま、こんなにも長い時間が過ぎたのだ。
けれど、今は。
「アルシラ……」
リュクセルは足を止めた。ここに来てようやく、アルシラが何を考え、何を感じ、選んだのか、理解できたのだった。
お前は、全てに片を付けようとしているのだな。
リュクセルは歯を食いしばり、自分自身の情けなさを淘汰した。自身の無力が何よりも情けないと感じ、僅かでもいいから、力が欲しいと望んだ。
アルシラに安らぎを与えられる、力が。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.