二章 episode2
14
眠れない夜だった。
裏門の番兵の気を引いたり、セルナへの手紙を書いたり、普段の夜よりやるべき事が多かったのも眠れない理由のひとつだ。だが一番の原因は、考え事や気になる事が多かったからだった。
眠れないほど気にかかるならば、寝室を飛び出して真実を探しに行けばよかったのかもしれない。しかしアルシラはそれをせず、寝る努力を続けるにとどめた。知ってしまえば、後に引けない気がしたからかもしれない。
そうして昨晩、いつもより遅めに寝台に入ったアルシラは、いつもより早めに寝台を出る事となった。寝不足である事を周囲に悟られないよう、念入りに化粧をしなければならなかったからだ。
アルシラがちょうど身支度を終えた頃、扉の向こうで誰かが走る足音が起こった。少しずつ近付いてくるそれは、アルシラの部屋の前で止まると、乱暴に扉を叩く音へと生まれ変わる。
「アルシラ!」
リュクセルの声だった。声だけで取り乱している事が判別できたので、アルシラは小走りで扉に駆け寄る。
リュクセルをここまで動揺させたものは、やはりセインやアーシェリナの不在だろうか?
「とんでもない事になったぞ」
扉を開け放った瞬間、朝の挨拶すら飛ばしたリュクセルは言った。
「何がです」と問い返す前に、リュクセルはアルシラの耳に口を寄せる。辺りに人が居る気配はなかったのだが、それでも声をひそめてから続けた。
「エイナス様の御遺体が、アーシェリナ様の別館で発見された。しかも、アーシェリナ様とセインの姿は見えないらしい」
アルシラは衝撃のあまり硬直し、困惑を浮かべる主の眼差しを見つめた。
「まさか……」
ふたりとエイナスとの間に何かあったのだろうとは予想していた。そうでなければ突然出て行くはずがないと。だがまさか、殺してしまったとは。アルシラもさすがにそこまでは予想していなかった。
アルシラは片手を自身の首に運んだ。セインの首に残っていた痕を思い出し、少し息苦しくなったからだった。
命が危機にさらされて、相手が誰であるかなど、考えられなくなったのだろうか。その状態で、本能と衝動にまかせて暴力をふるっても、けして不思議ではないだろう。結果、殺すつもりがなかったのに、殺してしまったのかもしれない――
思っていた以上の悪い状況に、軽く苛立ったアルシラは、唇を噛んだ。
伯爵令嬢と奴隷がふたりで逃亡したのだ。はじめから、追っ手がかかるだろう事は予想していた。だが、ふたりに当主殺しの容疑がかかる事は想定していなかった。ガーフェルートは、あらかじめアルシラが予想していたよりも遥かに上回る人力を使い、血眼になってふたりを探すに違いない。
「追っ手はできる限りどうにかする」と、アルシラは昨晩セインと約束をしたが、アルシラの力でどうにかできる程度ではない可能性が高くなってしまった。
どうすればいい。
どうすれば、ふたりを安全に逃がす事ができる?
世間をあまり知らないふたりだから、外に出てしまえば、苦労が山のようにあるだろう。けれど、ようやくふたりは自由になった。望む通りに生きる事ができるようになり、幸せになれるかもしれないのに――捕まって、連れ戻されれてしまったら、きっと命はないだろう。少なくとも、セインは。
天井を見上げたのちに目を伏せたアルシラは、祈った。今までふたりを見放していた、幸運の神チャ・ザが、ふたりのために何かしてくれないかと。
「動揺する気持ちは判るが、今はとりあえず、私と来い。エルロー様がお呼びなのだ。おそらく、今後の事についての話だろう」
「はい……」
放たれたばかりのリュクセルの言葉を脳内で反芻したアルシラは、絶望ゆえに力ない返事をして、ふと、気付いた。
エイナス・ガーフェルートは死んだ。ガーフェルート伯は、長子であるエルローが継ぐだろう。だから今現在、ガーフェルートの当主はエルローなのだ、と。
口元に小さな笑みが生まれた。それをリュクセルには見せまいとして、アルシラは俯いた。
いける。セインたちを助けられる。そう思ったのだった。エイナスは亡き友に関わらないところではけして隙を見せない人物であったが、エルローは違う。エルローならば、アルシラでもある程度は操れるだろう。あとはどう操るか、だ。
リュクセルの数歩後ろを歩きながら、アルシラは考えた。生まれてから今日まで、これほど頭を使った事があっただろうかと思うほど。やがて一筋の光明を見つけると、笑みはより強いものとなった。
アルシラは少しだけ歩みを速め、先を歩いていたリュクセルと並んだ。何事かと見下ろしてくるリュクセルに、けして視線を返さず、まっすぐ前だけを見て口を開いた。
「今、リュクセル様にお伝えしたい事があるのです。『彼』からの伝言を」
「『彼』?」
「『許してやる』と、そう言っておりました」
リュクセルは一瞬だけ歩みを止めた。
「セインか?」
アルシラは答えなかった。
リュクセルは無言の肯定と受け止めたようで、それ以上何も問いただしはしなかった。
心臓が高鳴るのは、けして悪い意味ではなく、むしろ喜びの意味でだろう。
リュクセルの肩越しに、執務机についているエルローを見つけたアルシラは、不思議と嬉しかった。勝手に笑みが生まれてしまいそうで、いつもならば自然とできあがる真顔を、意識して作った。
「話は聞いているな?」
リュクセルとアルシラを交互に見ながら、エルローは問う。
現時点では、エイナスの遺体が別館で発見され、そこで暮らしていたふたりが行方不明だとの事実は知っているので、ふたりは戸惑いながらも頷いた。
「おそらく父上は、逃亡した奴隷に殺されたのだろうが、対外的には病死にするつもりだ。最近父上は心臓を患っていたから、特に怪しまれずにすむだろう」
アルシラは心の中で笑った。エルローが今のところ、アルシラの想定通りに動いてくれているのが嬉しかったからだ。
「エイナス様が奴隷ごときに害されたとあっては、ガーフェルートの名に傷が付きますからね」
「ああ、そうだ。父上はガーフェルートのため以外に生きられなかった方だから、自分のせいでガーフェルートの名を貶める事を良しとしないだろう。最期くらい、望みどおりにしようと思う。僕がこれからガーフェルートを背負う上でも、そのほうが都合がいいしね」
エルローは苛立っている事が目に見えて判る、深いため息を吐いた。乱雑に髪をかきあげる仕草や、しきりに足を組みかえる動作にも、苛立ちが見て取れる。
判りやすい男だとアルシラは思った。だからこそアルシラは、一世一代の大博打に出てみようと思えたのだが。
「ですが、逃亡奴隷をこのまま放っておくわけにはいきませんよね? 奴隷が逃げ出しただけならば些細な問題ですが、エイナス様のお命を奪ったなどと、許しがたい犯罪です。連れ戻し、相応の罰を与えなければなりません。アーシェリナ様も、奴隷ごときに奪われてよい令嬢ではございませんし」
エルローは冷たい眼差しでアルシラを睨んだが、すぐに小さく笑った。
「どうした、アルシラ。今日のお前はものわかりがいいな」
「貴方が予想通りの反応をしてくださっているだけですよ」とは言わず、アルシラは笑顔だけで返した。
多少機嫌が良くなったのか、エルローはそれ以上アルシラを問い詰めなかったが、代わりにリュクセルが、胡散臭いと言いたげな眼差しをアルシラに向けた。昨日までは顔を合わせればエルローといがみ合っていたアルシラが、エルローを尊重し、友人であるセインを侮辱するような発言ばかりをしているのだから、疑われるのは当然とも言えた。
「だからね、リュクセル。お前に頼みがある。アーシェリナとその奴隷を、ここに連れ戻して欲しい」
「はっ……」
リュクセルは逆らう気こそなさそうだったが、困惑ゆえに、返答に詰まる。
その瞬間に生まれた小さな沈黙を逃さず、アルシラは一歩前に進み出た。
「エルロー様。そのお役目、私にお任せいただけませんか」
息を飲んだリュクセルが、アルシラを引き止めようと手を伸ばすが、アルシラはそれを片手で制する。
久々に見せた柔らかい表情を一瞬で消し去ったエルローは、貫くようにアルシラを睨んだ。
「僕はお前を信用していないよ、アルシラ。それなのに、重要な役目をお前に任せるわけがないだろう?」
知っていますとも。フィアナランツァ様を奪った私を、貴方は憎んでいる。だからこそ、私が苦しむ事を望んでいる――
アルシラは薄く浮かべた笑みを崩さず、胸に手をあてた。
「エルロー様に無礼ばかりを働いてきた事、心より反省しております」
「言うだけなら簡単だ」
「そうですね。では、私が本気で反省し、エルロー様とガーフェルート家のために力を尽くしたいと思っている事を証明するため、誓いましょう。それならば、信用いただけるのでは?」
「なんと誓う?」
アルシラはひとつ静かに、深い呼吸を挟んでから続けた。
「逃亡奴隷を捕らえ、アーシェリナ様を奪還するその日まで、私はこのガーフェルート邸――いえ、この国に、二度と足を踏み入れないと誓います」
長い沈黙が流れた。アルシラの意図に気付いていないリュクセルは呆然とし、アルシラの言葉だけを受け取ったエルローは深い思考の世界に入り込んでいた。
はやく頷いて。笑いながら、「それならば任せた」と言って。この役目を、私に与えて。
アルシラは緊張しながら、真剣な眼差しでエルローを見つめる。エルローがどう動くか待つ時間は、とても長く感じた。
やがてエルローは、笑う。
それはアルシラが勝利した瞬間だった。
「面白いな。判った。お前に任せよう」
「ありがとうございます。ではさっそく、追跡にあたらせていただきます」
アルシラは深々と頭を下げる。
泣きたいほど、叫び出したいほど、嬉しかった。けれどそう思っている事をエルローやリュクセルに知られてはならず、アルシラは床に視線を落とした瞬間だけ、表情を崩した。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.