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二章 episode2

13

 コンコンと、窓を叩く軽い音が響いた。
 燭台に点る蝋燭がゆっくりと燃えていく音と、アルシラ自身が走らせる羽根ペンの音を除けば、完全な静寂に包まれていた部屋の中に、突然その音である。驚いたアルシラは、緊張して背筋を伸ばした。
 妹セルナからの手紙の返事を書くためにたまたま起きていたが、普段ならば寝ている時間だ。しかも、窓から。訪ねてくるのはあまりに怪しく、不信感でいっぱいになったアルシラは、窓を睨んだ。
「誰?」
 アルシラの部屋の窓は硝子ではないので、見ただけでは訪問者の正体が判らない。なので声をかけたが、返事はなかった。
 ますます怪しんだアルシラは、手にしていた羽根ペンを置き、精一杯足音を殺してそっと窓に近付く。やはり音を立てないよう気を付けて鍵をはずすと、ひと呼吸おいてから、一気に窓を開けた。
 知らない人間ならば隙を突いて捕まえ、何のつもりか問いただしてやろうと考えてそうしたのだが、部屋の中と外を繋いだ瞬間、アルシラは見慣れた白銀を見つける。伸ばしかけた腕を止め、その色の持ち主の名を呼んだ。
「セイン! どうしたの、こんな遅くに」
 何の前触れもなく開いた窓に驚いたセインは、一瞬間を空けてからアルシラの声に反応した。
「静かにしてくれよ」
 セインは立てた人差し指を唇の前に置き、囁く。
 ほとんどの人が寝静まっている時間帯だ。騒ぐのは確かに良くないだろう。しかしアルシラは、セインが静かにしろと言う理由は、周囲への迷惑を気遣ったものとは少し違うと感じていた。
「まるで、ここに居る事を誰かに知られるのを恐れているみたいね」
 思った事を率直に口にすると、図星を突かれたのか、セインは気まずそうに苦笑した。だがすぐに笑みを消し去って神妙な顔になり、硬く握りしめた拳を胸の前に持ってくる。
「さっき、さ。アーシェリナ様のところと言うか、俺のところと言うか、来てさ。久々に、会ったんだ」
「誰に?」
「エイナス・ガーフェルート様に」
 アルシラは言葉を失った。
 エイナスが何を思ってわざわざセインやアーシェリナの所に足を運んだかは判らないが、セインにとって良い展開ではないだろう事は、容易に予想できた。
 エイナスはアーシェリナの婚約を強引に押し進めていたが、アーシェリナ本人が拒否していると言う噂は、アルシラも耳にしている。もしエイナスが、アーシェリナが婚約を嫌がる主な理由がセインだと気付いていたら――
「エイナス様に何か酷い事言われたりされたりしなかった?」
 アルシラは心配のあまり率直に問う。するとセインは、柔らかく笑いながら、彼自身の首元をさすった。
 そこにかすかに残る指の痕を、隠すつもりだったのかもしれない。だがその行為は逆に痕を目立たせ、アルシラに気付かせる事となった。
「そんな……いくらなんでも」
 目的のために邪魔だからと言って、奴隷だからと言って、いきなり殺そうとするとは。
 アルシラは手を伸ばし、そっとセインの首に触れる。痛々しさが、エイナスへの怒りを増幅した。
「こんな事をされても、何もできなかったんだ。酸欠とか、恐怖とか、混乱とかで、頭の中が朦朧としていて――解放された後は、もしかして嘘なんじゃないかと思った。全部俺の夢なんじゃないかって。でも、何度も確かめたけど、本当だった。現実だったんだ」
「何? 何の事?」
「今まで、ありがとう」
 アルシラは窓枠に手をついて身を乗り出した。
 セインの表情が変わった。全てを悟ったような、あるいは諦めたような、強い決意を秘めたような、鈍い輝きを宿している。守るものを決めた、この先生きる道を選んだ男の目――それを見たアルシラは、今セインが紡いだ、謝礼を模った別れの言葉が、けして冗談ではないのだと、いやでも思い知らされた。
「ここを出るの? どこかに行くの?」
「ああ」
「アーシェリナ様も一緒なの?」
 ゆっくり、だがはっきりとセインが頷くので、アルシラは諦め、納得するしかなかった。
 エイナスとの間に何があったか判らない。だが、相当な事があったのだろう。あんな状況に耐え続けていたふたりが、逃げ出す決意をしたのだから。
 深いため息をひとつだけ吐く。呆れたわけではなかった。湧き上がる少しの寂しさと、大きな安堵が、自然と息を吐かせたのだ。
「判った」
「結構簡単に納得してくれるんだな。止められるかと思った」
「止めないわよ。貴方たちが必死に考えて決めた事だって判るから――でも、ちょっと待って」
 アルシラは一度部屋の中に戻ると、戸棚など、思い付く場所を片っ端から漁った。そうしていくらか金が入った財布や、つつましくも宝石があしらわれている装飾品の類をかき集めると、再びセインの前に戻る。
「持って行きなさい」
「いや、これは受け取れない」
 セインは即座につき返そうとしたが、アルシラはむりやりセインの手に押し付けた。
「どうせ私には必要のないものだし。貴方たちお金を持ってないでしょう? 貴方はそれでもいいかもしれないけど、アーシェリナ様に貧しい思いをさせるのは、嫌でしょう?」
 アーシェリナの名を出すと、セインも反論ができないようだった。しぶしぶと言った表情でだが頷いて、「ありがとう」と短い謝礼を口にした。
「追っ手がかかるかもしれないけど、それは私ができる限りなんとかする。とりあえず今晩中に屋敷を出なさい。表は厳重だから駄目よ。裏門からね。裏門の今日の番は知り合いだから、あとで私が引き付ける。その隙に出なさい。それから、街を出るのは朝、門が解放されてからにしなさい。それ以前だと目立つから、顔を覚えられる可能性が高くなる。あとは、そうね、とにかくこの国を出て。二度と戻ってこないつもりで。それから……」
 思い付く事を片っ端から語り続けるアルシラに、微笑むセインの手が伸びた。その手は優しく、撫でるようにアルシラの頭部に触れたかと思うと、急に力が入り、アルシラを引き寄せた。
 体勢を崩されたアルシラの影が、セインの影に重なる。その一瞬、掠めるように、ふたりの唇が触れ合う。
 セインの手が離れた。アルシラは慌てて体勢を整える。真っ直ぐに見つめあう形になると、照れたのか、セインの方から目を反らした。 
「気付いていなかったみたいだから、言うけどさ。俺はずっと、お前が好きだったんだ」
 セインの言う通り、アルシラは今の今まで、ちっとも気付いていなかった。
 好かれているとは思っていたが、そう言う意味だと考えた事は一度もなかった。アルシラにとってセインは、弟のようで、息子のようでもあったから。だからセインも、アルシラの事を姉のように母のように慕っていると思っていた。
 だが、セインにとっては違ったのだ。それが判ると、アルシラは急に申し訳ない気分になった。以前リュクセルとの事を語った時、セインがアルシラの頭の上に花を散らしたのは、きっと嫉妬ゆえの事で、激励のためではなかったのだろう。
「リュクセル様のご許可がないと、私に触れてはいけないのよ」
 返事に困ったアルシラは、ごまかすようにそう返す。
 だがセインは悪びれる事なく、勝ち誇ったような笑みを浮かべるだけだった。
「知ってるよ。だからだ。だから、リュクセルに伝えてくれるか。これで全部、許してやるってさ」
「セイン……」
「それと――今まで本当に、ありがとう、アルシラ」
 アルシラを見つめるセインの瞳には、もう恋情の色は見えない。ただ、優しかった。胸が痛むほどの強い感謝が、そこに溢れていた。
「お礼はさっきも聞いたわ」
「ああ、言った。でも、お前には、この言葉を何度繰り返してもたりないんだ。何度でも、言いたいんだ」
 たまらずアルシラは腕を伸ばし、セインの頬を撫でた。セインは感触と温もりに酔うように、目を伏せる。
 できる事なら、抱きしめたかった。元気付けて、送り出してやりたかった。
 きっと、これでお別れなのだ。おそらくは、永遠の。
「お前のそばだけだったんだ。あの日以降、本当の自分として存在できた場所は」
 言い終えたセインは、数歩後退する。距離を開けてからもう一度、氷色の瞳がアルシラを見る。
 もうアルシラはかける言葉を見つけられなかった。セインも何も言わなかった。数瞬見つめ合った後、セインは背を向けて駆け出し、アルシラから遠ざかって行った。


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