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二章 episode2

12

 忘れたくても忘れられない記憶が、セインにはある。それはふとした時に思い出す。身動きがとれなくなるほどおぞましい、まるで呪いのような、息苦しい記憶。
 長く優しい時の流れだけが、それを忘れさせてくれるのだと思っていた。
 だが、他にも方法があるのかもしれないと、セインはほどなくして知る事となる。
 けして望んではいなかったけれど。

 建物の入り口の扉が、二度、強く叩かれた。
 人が尋ねてくるにしては、ずいぶん遅い時間だった。アーシェリナが就寝のために部屋の明かりを消した直後で、セインもそろそろ休もうかと考えていた頃だ。
 まだ眠りに落ちていなかったのか、アーシェリナはすぐに音に反応し、自室の扉を薄く開けた。ちょうどセインが入り口に向かおうと通路を歩いていた時で、セイン自身も不安だったのだが、そのそぶりを見せず、安心させようとして「大丈夫ですよ」と微笑みかけた。
「どなたですか。こんな時間に」
 はじめは穏やかに語りかけてみた。扉の叩き方は荒っぽいが、扉を蹴破るような強引さで侵入してくるつもりはないようだし、そもそも暴漢の類がわざわざここに来るとは思えない。何かしら緊急の用事があって来た本館の誰かなのだろうと、セインは予想していた。
「開けろ」
 声を聞いた瞬間、セインは本能的に体を硬直させる。
 静かでありながら相手に重圧感を与える声は、セインの記憶の片隅に残るものによく似ている。その声を最後に聞いた十年ほど前と比べ、加齢のためか多少張りを失っているように思えたが、同一人物のものである事は疑いないと思えた。
 なぜこの人が直接、こんなところに足を運ぶのか。セインには理由がまったく予想できなかった。だが、意味が判らないからとの理由で逆らえる相手ではなかったので、セインはおとなしく扉を開けた。過度の緊張で、てのひらには汗をかいていた。
 扉を開けると、光が入ってくる。ランタンの灯りだ。それはランタンを手にする本人を照らしだす。
 セインは息を飲んだ。
「エイナス様……」
 最後に会った時と比べ、やはり歳をとっていた。けれど瞳に宿る鋭い光だけは、変わっていなかった。
 視線に威圧されたセインは、無意識に逃げ場を求め、後ずさる。背中に壁が当たり逃げ場を失うと、そのまま動けなくなった。
「いかが、なさいました。こんなところにわざわざ、エイナス様自ら足をお運びになる、とは」
 一瞬にして喉が渇く。枯れた声で、セインはエイナスに訊ねた。
 複雑な気分だった。エイナスは、幼いセインの望みを叶えてくれた恩人で、けれどアーシェリナに愛情の欠片も与えずに酷い扱いをした張本人で、ガーフェルートの益のためとは言え崩壊目前のラシード家を助けた人で――あのエルローの父親で。
 今、どんな想いでエイナスを見ればいいのか、セインには判らなかった。
「ずいぶん育ったな」
「こちらに来てから、九年ほど過ぎておりますから」
「だが、似ていない」
「は……」
 誰にですか、と問う前に、エイナスは続けた。
「だと言うのにお前も、他の誰にも動かせなかった者の心を動かした。少しは、似ているのか」
 この人は何を言っているのだろう。セインは疑問を抱いたが、それを表に出す余裕もないほど萎縮していた。震える事さえできないほどに。
 何と返せばいいのか、どうしてよいのか、まったく判らなかった。結果、はやく立ち去ってくれないかと願った。そうなれば少なくとも、威圧的な空気からは解放されるのだから。
「娘の心を惑わしたのは、お前だろう」
「何の、事です」
「アーシェリナは、せっかく決まった嫁入り先を拒否しようとしている」
 セインは高く鳴った自身の心臓を抑えようと、胸に手をおいた。
「私の命令を前にアーシェリナ本人の意志など何の意味も持たないが、わざと相手を不快にさせるような行動を取り、向こうから断らせるよう仕向けるかもしれん。それは少々都合が悪い」
 知らなかった。アーシェリナの婚約が決まっていた事も、アーシェリナがそれを拒否していた事も――だが、今知った。以前アーシェリナが見せた涙の、本当の意味と同時に。
 知っても、やはり判らなかった。アーシェリナがなぜ、解放を望まないのか。
 判らないと言うのは、少し違うだろうか。アーシェリナも、エイナスも、直接的な言葉で言っている。アーシェリナは、セインを望んでいるのだと。セインと一緒に居たいがために、手に入る数多くのものに目もくれず、父親の命に逆らおうとしているのだと。
 判っていて疑問に思うのは、そこまでしてアーシェリナがセインを選ぶ意味、自分自身の価値を、理解できないからなのだろう。
「娘を惑わすのはやめてもらおう」
「貴方が好き」と、以前アーシェリナは言った。
 必要なのは貴方だけと、ずっと一緒に居たいと、セインの手に言葉を落とした。
「そう言ったところで、お前にどうする事もできまい。お前が奴隷の身分を逸脱して娘を誑かしているならばともかく、違うようだからな。愚かな娘が、勝手にお前に惑わされているのだろう」
 アーシェリナが閉鎖された世界に自ら囚われる事を望むのは、他のどんなものよりも、セインに価値を見出してしまったがためだと、そう言うのなら。
 解放するのは簡単だ。なくなればいい。アーシェリナを惑わし、心を捉えるものが。
 俺が、この世界から消えてしまえばいいんだ。
「つまりお前の存在そのものが、あってはならぬと言う事だ」
 セインはエイナスの言葉を否定できなかった。むしろ肯定するために、頷いた。
「私はお前を見つけた当時、お前が欲していた金を与えてやった。気まぐれで拾い、ここまで使ってやった」
「はい」
「もう充分だろう」
 頭が、壁に強く叩きつけられた。セインの首に絡まったエイナスの手が、セインを押さえつけたのだ。
 それはあまりに突然で、抵抗する間もなかった。呼吸を奪われ、喉が焼けるような苦しみがセインを襲った。
「先ほどお前は私に、何のために足を運んだかと聞いたな。私はお前に会いに来たのだ。この九年、一度として思い出す事のなかったお前を前にして、何か感じるものがあるかを確かめに。だがこの目でお前を見ても、何の感慨も湧かなかった」
「かっ……は」
「当然だな。お前はアヴァディーンの息子だが、アヴァディーンではない。お前の存在が、もう一度私に光を与えてくれるかもしれないと考えた事もあるが――結局お前は、ただアヴァディーンの血を継いだだけの、意味のない存在だった」
 淡々と語り続けるエイナスの言葉はただ空ろで、心はけして見えない。だが見えないからこそ、ひどく悲しく響いた。
「私に残されたものは、ガーフェルート伯の名、それだけだ」
 生存本能が、エイナスの手を引き剥がそうと、セインの手を動かす。背が高いエイナスに上方から押さえられているので、体勢的には不利だったが、死ぬ気でがむしゃらに逆らえば、どうにでもなるだろうと思った。
「抗うな」
 だが、囁くような命令と、鋭すぎる眼光は、セインの本能までも戒め、体の自由を奪った。
「お前の主は私だ。その私が、もうお前を必要ないと言っている。私の邪魔をせず、おとなしく朽ちてみろ」
 首を絞める片手に、もう一方の手が重なり、苦しさが更に増す。
 死にたくなかった。守ると誓ったアーシェリナをひとり残して、こんなところで。
 だが――自分が居なくなれば、アーシェリナは解放される。振り返る事なく、明るい世界に飛び出せるだろう。ならば、ひとり残して去る事が、セインがアーシェリナのためにできるすべてなのかもしれないとも思う。
 矛盾する考えを抱え、身動きがとれなくなったセインは、目を伏せた。やがて訪れる深遠を待つために。
 その時だった。セインの喉が解放され、呼吸を取り戻したのは。
 小さな呻き声を聞いた気がして、セインは目を開ける。何度か咳き込んだ後、むさぼるように呼吸をしながら、目の前で徐々に崩れ落ちていくエイナスの体を凝視した。
 背中から赤い液体を溢れさせたエイナスは、重い音を立てて床に倒れる。すると、アーシェリナの姿が現れた。エイナスの真後ろに立っていたアーシェリナは、エイナスの背中から流れるものと同じ色を絡ませた懐剣を手にしていた。
 アーシェリナの手から力が抜ける。赤く輝く刃が地面に落ち、乾いた金属音と少しの水音を立てる。
 アーシェリナの白い手も、ところどころ血の色に染まっていた。不快なのか、アーシェリナはその液体を懸命に拭きとろうとしていたが、いつまでもこびりついたままだった。
「アーシェリナ、様……」
 アーシェリナの表情は静かだった。悲しみも恐れも喜びも、そこには見えない。
 首を絞められていた時よりも怯えながら、セインはアーシェリナを見下ろした。命が助かった本能的な安堵にも勝る恐怖の正体は何なのか――理解する事を、セインは拒否した。
「赤い……」
 アーシェリナは手を見下ろしながら呟いた。声を出せば激痛がその身を攻めるはずなのに、しかし眉ひとつ動かす様子がない。
「手が、白く戻らないわ。私の罪の、重さのせいかしら」
「アーシェリナ様、声が……」
 アーシェリナは平然と語り続ける。その様子を見たセインは、長年アーシェリナを苦しめていた呪縛はとけているのだと考えるしかなかった。
 高位の司祭に除去の魔法をかけもらうか、あらかじめ設定されている鍵となるものを探り当てて実行しなければ、制約はとけるはずがないのだが――今現在アーシェリナの周囲に解呪の魔法をかけられる者は居ないのだから、何らかの行動によって鍵を開けたと考えるしかなかった。
 それは、もしかすると。
 セインは屈みこみ、エイナスの体に触れる。体熱はまだ残っていたが、脈は感じられなかった。
 アーシェリナの声を奪った男の命は潰えていた。それこそが鍵だったのだろうか? 今となっては、判らない事だけれど。
「この人は、お婆様のお葬式の日以来、一度も私に顔を見せてくれなかった。亡きお婆様の代わりに私に怯えて、私の声と自由を奪った。少しも愛してもくれなかった。ただ血が繋がっていただけの父親だった。そんな男が、私の一番大切な人を奪おうとしたから殺したのに――どうして重い罪になるの」
 力なくアーシェリナがその場に座り込む。暗い意志の宿る瞳が、天井を見上げる。
 いたたまれなくなり、セインはしきりに首を振った。何度も、何度も。それだけは絶対に違うのだと、アーシェリナに伝えるために。
「違う。違います、アーシェリナ様。貴女は俺のためにこの男を殺してくれたんです。俺を、助けるために。その手は俺のせいで汚れたんです」
「セイン」
「それが罪になるとしても、貴女の罪じゃない。貴女の手によって生き長らえた、俺の罪です」
 アーシェリナは目を見開き、ゆっくりと視線をセインに向けた。
 紫の瞳は、明るさを取り戻し、輝かんばかりだった。驚きと喜びの混じった、戸惑いの光。そして可憐な唇は、言葉を紡ぐために震えている。
「許してくれるの? 貴方が、私を」
 セインは力強く頷いた。
 殺されかけた事より、目の前で人が死んだ事より、アーシェリナが罪に埋もれる事が恐怖だった。ましてそれが自分自身のせいだなどと、絶対に許せない事だった。
 アーシェリナ様は綺麗な人なのだ。いつまでも美しく、微笑んでいてほしいのだ。罪に汚れるのは、俺ひとりだけで充分だ。
 張り裂けんばかりに叫ぶセインの心は、喉を詰まらせる。救いを求めて何かを掴もうと縋る両手は、硬い床にはじき返されるだけだった。
「貴方が私を許してくれるのなら、私はどれだけ汚れても平気よ」
 そしてアーシェリナは極上の笑みをこぼした。
 笑みに目を奪われたセインは手を伸ばし、アーシェリナの温かい体を、力いっぱい抱きしめる。アーシェリナはここにいるのだと確かめるため、自分の震える体を抑えるため、こぼれそうな涙をこらえるために。
「汚れた事を、罪には思わないもの」


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