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二章 episode2

11

 再度摘んだ花を風で散ったりしないよう守りながら、セインは裏庭を駆ける。できる限り早く戻りたかった。花を摘みに出る時、アーシェリナに「すぐに戻ります」と言ってしまったのだ。
 アルシラは珍しい事に、傍目から見て判りやすいほど落ち込んでいた。だから、自分が足を止める事によって、少しでも彼女の慰めになったなら、帰りが遅くなってしまった事に後悔はない。けれど、もしかするとアーシェリナがセインを心配しているかもしれないと思うと、気が逸った。アーシェリナにはこれ以上、余計な心労をかけたくなかった。
 息を切らしたセインは、もう陽が当たらなくなった別館に辿りつくと、急いで扉を開けて中に入る。その瞬間、強烈な違和感を覚え、足を止めた。
 息を飲み、辺りを見回す。しかし、違和感の正体と言えるものは何ひとつ見つからなかった。いつもと同じなのだ。暗く、静かな、アーシェリナのためだけの空間。
 ならば抱いた違和感は、単なる気のせいなのだろう。そう自分を納得させたセインは、真っ直ぐにアーシェリナの部屋へと向かった。
 部屋に近付くと、セインはもう一度違和感を覚えた。今回は、違和感の理由が明らかだった。いつもならばきっちり閉じられているはずの扉が少しだけ開いており、中から明かりがもれ出ていたのだ。
「アーシェリナ様?」
 セインは主の名を呼んでみた。あまり大きな声を出さなかったが、隙間から部屋の中に声が通っているはずだ。少し待っても鈴が鳴る様子がないので、セインは部屋の中に足を踏み入れた。
 部屋の中に居ない可能性も考えた。だが、アーシェリナが部屋の中に居て、椅子に腰かけていた。けれど違和感からくる得体のしれない不安感は、解消しない。俯いているアーシェリナの横顔がどこか悲しそうで、身を縮めているように見えたからだった。
 静かな足音を立てながらセインが歩み寄ると、アーシェリナは顔を上げた。セインと、セインが手にする花を目にすると、柔らかく笑ってくれたが、華やかさの中に色濃い陰りが見え、セインはますます不安になった。
「どうかしたのですか」
 セインはアーシェリナの傍らに跪き、下から主の顔を覗き込む。そうすれば、アーシェリナが表情を隠そうとしても、見逃さずにすむと考えたからだった。
 アーシェリナは淡く微笑みながら、小刻みに首を振った。セインの手を取り、指でひとつひとつ文字を綴ろうとした。「なんでもない」と書こうとしたようだった。
 けれど指の動きは途中で止まる。完成しない言葉が、セインのてのひらの上に残された。
「なんでもない」なんて、明らかに嘘だ。
「アーシェリナ様?」
 セインはもう一度、主の名を呼ぶ。優しい声音で語りかけたが、問い詰める意志を込めて。
 そんなセインの意図が、アーシェリナにも伝わったのだろう。アーシェリナはびくりと体を強張らせてから、俯いた。
 紫の双眸の奥からじわりと湧き出る雫が、長い睫を濡らす。今にも涙がこぼれそうだった。だがそれだけはしたくないのだろう。アーシェリナは瞬きすら我慢して、必死に堪えていた。
 アーシェリナの涙には、セインを強く動揺させる力があった。かつて、セインが未熟ゆえに泣かせてしまった時の罪を、思い出してしまうから――これからは彼女を守ろうと誓った無意味さを、自身の無力さを、思い知らされるような気になってしまうから、だ。
 うろたえたセインはどうして良いか判らず、おそるおそる手を伸ばした。堪えきれず白い頬に零れた涙を、指で拭うために。
 セインの手が触れると同時に、アーシェリナは我慢を諦めたようだった。瞬きと同時に、拭いきれないほどの涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。そしてアーシェリナは椅子から降り、両膝を床につける。
 セインと同じ位置まで下りてきたアーシェリナは、セインの胸に飛び込んできた。
「ア……アーシェリナ様!?」
 これまでとは意味の違う強烈な動揺が、セインを翻弄した。アーシェリナはただ、思うぞんぶん泣く場所を探しただけなのだろうと判ってはいるのだが、柔らかな肌の感触や、優しい香りが近すぎて、どうしても照れてしまうのだ。
 セインの頬は勝手に赤みを増し、両手は行き場を求めてさまよった。何もできない情けなさが手伝って、セインは途方に暮れた。緊張のあまり高鳴る鼓動に、アーシェリナが気付かないよう祈りながら。
 幸いにもアーシェリナは、セインの様子に気付く余裕はないようだった。制約ゆえに、嗚咽すらもらさず泣き続けるだけだ。その姿はあまりに痛ましく、なおさらセインを困惑させた。
 アーシェリナは喋れない。泣く事に必死で、文字も綴れない。セインには、彼女がどうして泣いているのか、知るすべがなかった。どうして泣いているのかが判らなければ、どうやって慰めていいか判らないのに――せめて言葉が使えれば、泣き声ゆえに多少支離滅裂であっても、いくらか理由を察する事ができたかもしれないのに。
 結局セインにできたのは、気がすむまで泣かせてやる事だけだった。長い時間、待った。やがてアーシェリナが、赤く泣き腫らした目でセインを見上げると、ようやくひと息吐けた気がした。
(ごめんなさい)
 アーシェリナの指が、セインのてのひらに、言葉を残す。手短な、謝罪。それだけで、泣いた理由をセインに教える気はないようだった。
「何が、あったんですか?」
 とりあえず泣きやんだとは言え、まだ暗い表情のままの主を放っておけず、セインは問う。
 しかしアーシェリナは、静かに首を振るだけだった。セインのてのひらに置いていた指を離し、会話を終わらせようとした。
 それだけは、嫌だった。
「俺では貴女のお役に立てませんか」
 無礼だと判っていたが、どうしても逃がしたくなかったセインは、アーシェリナの手首を掴み、離れていった白い指をてのひらの上に戻す。
「俺は、必要ないですか」
 即座にアーシェリナは強く首を振った。そして再び、泣いた。先ほどまでのように激しくではないが、静かに涙を頬に伝わせた。
 アーシェリナは震える指を動かしはじめる。ひと文字書いて、動きを止める。またひと文字書く。
(必要なのは貴方だけ)
 ゆっくり、戸惑いながら、アーシェリナはセインの手の上に感情を吐き出していった。
(ずっと一緒に居たい)
 別れを示唆する言葉に、アーシェリナの涙の理由と先ほどから覚えていた違和感の正体を教えられたセインは、心が凍るような驚きを知る。たまらず、アーシェリナの指の動きを追っていた目を、涙に濡れる瞳へ向けた。
「俺が居ない間に、誰か来ましたか?」
 アーシェリナは頷いた。
「その人が貴女に言ったんですね? 俺たちが離れる理由を?」
 もう一度、頷く。
「俺が、追い出される、とか」
 今度は首を振った。その際、少しも迷いを見せなかった――つまり、セインが口にした予想は、アーシェリナが聞かされた現実に、少しも掠っていないのだろう。
 自分が追い出されるのでないとすれば。
「まさか、貴女がここを出て行くのですか?」
 アーシェリナはセインから目を反らしてから頷いた。
 どうして。
 生まれた疑問はあまりに強すぎて、言葉にならなかった。
 それでどうして泣くのか、セインには判らなかったのだ。こんなところに閉じ込められて、言葉を奪われて、不自由で、辛い想いを沢山してきただろうに。外に、明るい場所に出られれば、広い空や、本当の森や、ここでは見られない沢山のものが見れるのに。制約も解除してもらえるかもしれない。煌びやかに着飾り、多くの者に愛される、伯爵令嬢にふさわしい生活が待っているかもしれない。
 待っているのは、嬉しい事ばかりではないか。
(必要なのは貴方だけ)
 セインは残された言葉を探すように、自身のてのひらを見下ろした。
(ずっと一緒に居たい)
 それでもアーシェリナが涙を流すのは、明るい未来よりも暗い現在を望んでいると言う事で、未来になくて現在にあるものは――セインくらいで。
 セインの方が泣きたい気持ちになった。そして強く思った。こんな狭い世界をわざわざ選ぶとは、なんて愚かな人なのだろうと。
 どこの誰よりも、美しいものが似合うはずなのだ。だから、選択を間違えてはいけないのだ。
 たかが奴隷ひとりのために。


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