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二章 episode2

10

 腰かけるのにちょうどいい、大きくてまったいらな石の上に座り、もの思いにふけっていたアルシラの耳に、がさがさと草を踏み分ける音が届いた。
 誰か人が近付いてきているのだと判ったが、音がする方を見てみたり、声をかけたりして、相手を確認するだけの気力が湧いてこなかったので、アルシラは音に気付く前と変わらない姿勢で座り続ける。すると、少年の声に名を呼ばれた。
「アルシラ?」
 声だけで、誰であるかすぐに判ったアルシラは、今度は面倒くさがらずに振り返った。ひとりで居たくなかったが、誰と一緒に居ていいか判らなかったアルシラにとって、何も気負わず一緒に居られる声の主の登場は、とても嬉しい事だった。
「セイン」
「なんだ、暗い顔してるな。どうせお前の事だから、リュクセルの事で悩んでるんだろう?」
 セインは呆れ口調で言いながら、アルシラの隣に腰かけた。
 美しい主のために摘んできた帰りなのだろう、慎ましやかな花を数本手にしている。すぐに帰って主に見せたいだろうに、心配して留まってくれた少年の優しさが、アルシラの胸に染みた。胸には図星を突かれた痛みもあったが、それは笑ってごまかした。
 笑いながら、セインを見つめる。出会った頃と比べて、ぐんと背が伸び、逞しくなった。繊細な顔立ちは精悍にもなり、声も低く落ち着いてきた。外に出れば、それなりの数の女性たちの注目を浴びるかもしれない。
「セインはもう誕生日来たんだっけ?」
「ああ。十五歳になった。立派な大人だ」
 セインは得意げに胸を張った。
「おめでとう」
 親しみを込めて、簡素な祝いの言葉と共に拍手を送る。
 セインが毎年誕生日を特別楽しみにしている事を、アルシラは知っていた。セインより少し早く生まれたアーシェリナに、追いつく事ができるからだ。中でも今年の誕生日は特別なものだっただろう。成人を迎えたアーシェリナと子供のままの自分との間に、セインは高い壁を感じていたから。
「じゃあ、出会った頃の私に追いつくまで、あと一年もないわけだ」
「だな」
「どうりでね。私も歳をとるわけだ」
 アルシラが大げさにため息を吐くと、セインは呆れ顔でアルシラを見下ろした。
「ば……」
「ば?」
「い、いや。何でもない」
 セインが必死に言葉を飲み込もうとしていたので、アルシラはセインが何と言おうとしていたか判っていながら、見逃してやる事にした。アルシラにとって気分のいい言葉ではないので、問い詰めたところであまり特をしない事も手伝って。
「成人して喜んでる今のセインの気持ち、思い出せるよ。懐かしいな」
 十五歳になって、大人になれたと思って嬉しかった。リュクセルに少し追い付けた気がした。もっとリュクセルの役に立てるかもしれないと思うと、嬉しかった。
 幸せだった。だがそれは、ただ年齢を重ねただけの、何も判っていない子供だったからだ。ずっと、永遠に、そばに居る事ができると、信じていられたから。
「そばに居られるならそれだけでいいって思ってたんだけどな。いざ現実に目を向けると、逃れられないところまで、結婚なんて言葉が押し寄せてきてる。時が経つのは早い……」
 ふわりと、軽いものが触れ、アルシラの髪を揺らした。
 セインの手から放れた薄紅色の花たちが、アルシラの頭の上に落ちてきたからだった。頭の上で留まるものもあれば、滑り落ちてアルシラの鼻をくすぐり、地面に落ちるものもある。
「ふん」
 自身がいつの間にか俯いていた事に気付いたアルシラが顔を上げると、セインはつまらなそうな顔でアルシラを見ていた。
「リュクセルと結婚でもなんでもすればいいだろ。好きあってるもの同士なんだから、さっさとくっつけ。周りに迷惑だ」
 何がどう迷惑だか判らないが、アルシラは儚い笑みで返す。そして髪に絡まる花を一輪手に取って、指先で転がした。
 脆い花びらが散り、ゆっくりと地面に舞い降りる。その様子は愛らしく、悲しく、幻想的だ。
「そうね。そうできれば、嬉しいのだけど」
「だけど?」
「ラシード家とフォスター家の間ではね、婚姻を結んではいけないって決まりがあるの」
「なんで」
 呆け気味のセインの口から率直な疑問が飛び出したので、アルシラは正直に答えた。
「昔からの事だから、予想でしかないんだけど……両家のしきたりに従うと、小さい頃から男と女がずっと一緒にいる事になるでしょう。どうしたって想い合うふたりは沢山生まれてしまう。その人たちが全員結婚したら、一族の間でばっかり結ばれる事になってしまって、色々不都合があったんじゃないかしら」
「ああ……なるほどな」
 素直に納得したらしいセインは、何度か頷いた。
「でもひとつだけ例外があるの。片方の家に男子が生まれなかった場合。後継ぎが居なくなって困るでしょ? そう言う場合は、娘のひとりが婿養子を貰うの。相手の家からね」
 胸が、軋んだ。
 感情や現実を自分の中に押し込めていくのが少し辛くて、こうしてセインに吐き出していると言うのに、それでも痛い。語る事でどうしても、セルナからの手紙を思い出してしまうから、だろう。
「私には兄も弟も居なくて、リュクセル様はラシード家の次男で、私はフォスター家の次女。ラシード家のご長男であるイルギス様は当然ラシード家を継ぐから――だから私、勝手に思い込んでいたの。いつかリュクセル様とフォスター家を継ぐんだって。でも、それが無理になったのよ。数日前に、妹とリュクセル様の弟君が結婚したの。だから私たちは、決まりを守らなければいけない……」
『セイシェル様と結婚する事になりました』
 セルナの手紙の一節が頭の中に蘇る。アルシラは手の中にあるいくらか散った花を握りつぶした。
 いいと思ったのだ、手紙を読んだその時は。セルナはセイシェルと結婚して幸せになる。自分はリュクセルのそばに居られるだけで充分だから。それだけで幸せになれるから。みんなが幸せになるために、一番正しい選択だと思った。だから止めなかったのだ。
 馬鹿な事だ。アルシラはその時、少しも考えなかったのだ。自分と結婚しないリュクセルが、別の女性と結婚する可能性を。
 先ほど顔を合わせた、リュクセルの婚約者と名乗ったサーニアを思い出す。切なさのあまり、胸がきりきりと痛んだ。
 その時が来たら自分はどこに行けばいいのだろう。
 リュクセルはきっと、そばに居る事を許してくれるだろう。だが、リュクセルの妻となる人が、アルシラの存在を許してくれるだろうか。我慢して許してくれたとしても、嫌だった。少しずつ不満と言う名の闇を抱える女たちの板ばさみになって辛い想いをするのは、きっとリュクセルだから。
「ごめん。こんな話、つまらなかったよね」
「そうでもないけどな」
 セインは弱々しく笑って答えると、アルシラの髪に絡んだ花を、ひとつひとつ丁寧に取ってくれた。一瞬だけ、頭を撫でてくれた気がした。優しく、慰めるように。
「俺、もう戻るわ。アーシェリナ様が待ってるし、もう一度花を摘んでこないといけないし」
 頭にばらまかれた花を思い、アルシラは微笑んだ。セインが、アーシェリナのために摘んできた花を、自分を慰めるために使ってくれた事が、とても嬉しかった。
「ありがとう。またね」
「ああ、またな」
 立ち去ろうとするセインに、アルシラは手を振る。振りながら、セインに話さなければと考えていた事を思い出し、アルシラは手を伸ばした。
「っと、そうだ、セイン。アーシェリナ様の事で……」
 アルシラの手が、離れゆくセインを掴もうとする。何かを隠すように包帯が巻かれた、手首を。
 触れた瞬間、はじかれた。
 慌てて振り返ったセインは、強張った表情をしていた。生まれつきの白い肌を、青く染めて。
「な、なんだよ。び……っくり、させるなよな」
 抑え込んだ震えと、ごまかすように浮かべた笑いが、辛かった。アルシラは、少し赤く染まった自身の手を、後ろに隠した。
 セインは怯えている。普段は必死に頭の奥へとしまいこんでいる記憶に。
「悪い。叩いて」
「ううん。平気。じゃあね」
 アルシラが再度小さく手を振ると、セインは駆け出した。急いで帰りたいと言う思いと、逃げ出したいと言う思いのため、だろう。
 少年の姿が見えなくなると、アルシラは肩を落とす。情けなさのあまり、顔を伏せた。
 あの晩の事を、簡単に忘れられるはずがない。セインはどれほど辛かっただろう。悲しかっただろう。
 手首に残る傷を包帯で隠して、アーシェリナを憎んで当り散らして、セインはあの夜の出来事から、必死に目を反らそうとしたのだ。そうして誰かを傷付けた時、同時に彼自身も傷付いたのだろう。本当はとても、優しい子だから。
「ねえ、セイン。教えてよ」
 消え去った少年の背に、アルシラは語りかける。
「私は貴方のために何かできる? 何でもいい。何か、してあげたいの」
 主に代わって謝罪をしようと言う訳ではない。ただの友人として、救いたかった。少しでも傷を癒したかった。
「何もしないで欲しいなら、そうするけれど」
 傷付いたセインの重荷にならないならば、何でもしてやりたい。
 それは嘘偽りない、アルシラの本心だった。


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