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二章 episode2



 まずは主に帰還の挨拶をすべきだろう。リュクセルは、放っておいては屋敷の中を駆けずり回りかけないサーニアの腕を引き、エルローの部屋へ向かった。
 挨拶のついでに、サーニアの事も説明するつもりだった。正式に主の許可を得たリュクセルの客人となれば、彼女が多少歩き回ったとしても、大きな問題にならないと考えたからだ。
 いかにも気が合いそうにないエルローとサーニアを対面させて、何か問題が起きる可能性を考えなかったわけではないが、アルシラの前で見せていた演技力に期待する事にした。よく考えてみれば、サーニアは商売と言う人と対する仕事で成功した人物なのだ。誰彼構わず普段の態度を取って相手の機嫌を損ねたりはしないだろう。
「エルロー様。失礼してもよろしいでしょうか」
 エルローの部屋の前に到着すると、リュクセルは扉を叩き、声をかける。
「入れ」
 さして間を開けず、入室許可を告げるエルローの声が聞こえた。
 リュクセルはサーニアに「とりあえずここでおとなしく待機していてくれ。私が呼んだら入ってこい」と言いつけると、ひとり部屋の中に入る。
 エルローは豪奢な椅子に腰かけていた。本を読んでいる最中だったらしいが、あまり真剣に読んでいたわけでもないようで、しおりも挟まずに本を閉じると、適当に机の上に放り投げ、リュクセルに向き直った。
「戻ったのか」
「はい」
「久々の実家はどうだった?」
「相変わらず居心地が悪い家で、さほど変わりはありませんでした。一番の違いと言えば、弟が結婚し、よその家の跡継ぎに納まっていた事でしょうか」
 言ってみて、よく考えれば大きな変化ではなかろうかとリュクセルは思ったが、ラシード家に大して興味がないエルローは、「ふうん」と適当に流してくれた。
「まあ、余計な事で滞在が長引かなくて良かったよ。ちょうどお前に頼みたい事があったからね」
「何でしょう」
「今夜、アルシラを貸してくれる?」
 唇の両端を吊り上げた、禍々しくもあり無邪気でもある笑みはあまりにも妖艶で、視線を奪われたリュクセルは、一時思考能力を失った。
 ただ、エルローの言葉を、聞かなかった事にしたかったのかもしれない。
「どう言う、意味でしょうか」
「野暮な事を聞くな。僕がお前ではなくアルシラを使う理由なんて、そうないだろう」
「なぜ、です」
 長年フィアナランツァの事を想い続けたエルローが、ここ数年アルシラへの恨みを連ね続けていたエルローが、なぜ今更アルシラを欲するのか、リュクセルには判らなかった。
 エルローの表情はけして優しくない。つまり、いい意味ではないのだろう。リュクセルを、あるいはアルシラを、苦しめるために、なのだろうか。
 この青年はそこまで追いつめられているのだろうか。
「アルシラがお前の許可を取れって言うから、一応話を通しておこうと思ってね。もちろん、お前は僕に逆らわないよ……」
 リュクセルの背後で、激しい音が響いた。乱暴に開かれた扉が立てた音だった。
 あまりの音に、エルローはそれ以上語る気力をなくしたようだ。呆けた表情で、リュクセルの肩の向こうを見つめている。
「部下のとは言え人の恋人をもの扱い。貴様、何様のつもりだ」
 サーニアの通りの良い声が、部屋の入り口から響くと同時に、エルローの目が細まり、突然の侵入者を睨んだ。
 おとなしく待機していろと言ったのに。誰にも聞こえないよう呟きながら、リュクセルは突入してきたサーニアに振り返る。
 気が重い反面、仕方がないかもしれないとも思っていた。男性蔑視のサーニアでなくとも女性ならば、今の会話の内容は腹を立てて当然だろう。エルローとサーニアを合わせようとした事そのものが、やはり間違いだったのかもしれないと、リュクセルは無言で反省した。
「僕はエルロー・ガーフェルート様だけど。勝手に屋敷の中に入っているお前こそ、何者?」
 形相で近付いてくるサーニアにも、激しい足音にも、エルローは怯む事なく、悠然と構えて言った。
「私はサーニア・フォレ……」
「エルロー様。彼女は私の婚約者です」
 この場の雰囲気を少しでも治めようと、リュクセルは睨みあうふたりの視線を遮るように身を滑り込ませ、きっぱりと言い切った。
 するとエルローは目を大きく見開いた。驚いたようだ。リュクセルが今更アルシラ以外の女性を選ぶとは思っていなかったのだろう。リュクセル自身とて同様に考えており、これからもそのつもりなのだが。
「職場見学と言いますか、私の普段の暮らしを見てみたいと言うので、連れてまいりました。もちろんあたりさわりない部分だけにとどめますので、屋敷の中を案内してもかまいませんか?」
 エルローは少しだけ考えてから、笑った。楽しそうな笑みだった。
 リュクセルは背中の後ろでサーニアが動揺する気配を感じ取った。それもそうだろう。慣れているはずのリュクセルでさえ、多少の恐怖を感じているのだ。
「いいよ。ふたりのめでたい婚約祝いだ。許可してあげる。サーニア、好きなだけこの屋敷に滞在するといい。そして自分たちの幸せを、いやってほど周りに見せつけて、あの女を苦しめてやればいい」
「あの女?」
 問い詰める口調のサーニアを笑顔でかわしたエルローは、サーニアを指さした。
「ただし、さっきのような態度は二度と許さない。忘れてはいけないよ。僕がエルロー・ガーフェルート様である事をね」
「なっ……」
「ありがとうございます」
 リュクセルはサーニアの口を塞ぎながら、自由にしたところでけしてサーニアが言わないだろうお礼の言葉を口にし、頭をさげた。
「もういい。サーニア、君は先に下がってくれ」
「私ひとりでか? なぜだ」
「私はまだ大切な話が残っている。判るだろう?」
 リュクセルは具体的な説明を省いたが、サーニアは理解してくれたようだった。拳の震えを抑えながら、しぶしぶと言った表情で頷く。
「お前を信じていいんだな」
「ああ」
「判った。では、失礼する」
 短く挨拶をして、サーニアは部屋を出ていった。扉が閉じ、機嫌の悪そうな足音が遠ざかっていくのを確認してから、リュクセルはエルローに向き直った。
「何だい? 他に、何か面白い報告でもあるの?」
「先ほどのお話の続きです」
 エルローは一瞬間をあけてから、再び妖艶な笑みを浮かべた。
「ああ、そうか。お前の婚約者が邪魔に入って途切れてしまったね。でもいいよ、別に。返事は判ってるから」
 リュクセルは無言で首を振ってから口を開いた。
「いいえ、エルロー様。申し訳ありませんが、お断りさせていただきます」
 数瞬の間、エルローは笑みを崩さなかった。
 だが時間を使い、リュクセルの言葉の意味をじっくりと理解すると、笑みを消し去った。怒りの奥に絶望を秘めた目で、リュクセルを見上げたのだ。
「逆らうのか? お前が、僕に」
 その言葉が、その眼差しが、何よりリュクセルを責めるのだと、エルローは知っているのだろうか。
「そうではありません」
「何が違うんだ。お前は今、僕の頼みに、『いいえ』と答えただろう。それを逆らっていると言うんじゃないのか?」
「貴方のためです、エルロー様。このままでは、貴方の心は追いつめられる一方です。幼き日よりも、なお奥深く、息苦しいところに。ですから私は――」
「黙れ!」
 エルローは周囲に手を伸ばし、先ほど放った本を手に取ると、リュクセルに思いきり投げつけた。本の角はリュクセルの頬にあたり、血は出ないまでも赤くなっているだろう事が、鏡を見ずとも想像できた。
 開いた状態で床の上に落ちた本を、リュクセルは拾い上げる。折れて曲がったページを直してから本を閉じると、エルローに差し出した。
 エルローは乱雑な手つきでリュクセルの手から本を奪い取った。
「自分の女を奪われたくないだけだろう。それを僕のためになんて、偉そうに言うな」
「いいえ。貴方が心からアルシラを愛した上でそうおっしゃるのでしたら、私とて」
「笑わせるな」
 短い嘲笑が、鋭く響く。
「どうして僕が、あんな女を」
「ですが貴方は、今」
 言ってはならない事を言いかけて、リュクセルは口を噤んだ。
 エルローは今、埋められない寂しさを、アルシラを恨む事で埋めている。かつて、フィアナランツァを愛してそうしたように。だから今、エルローにとって誰よりも必要な人物は、フィアナランツァでもリュクセルでもない、アルシラなのだ。
 その事実を、エルロー本人は気付いていないだろう。気付けば、自身が許せないあまりに壊れてしまうのではないかと、リュクセルは危惧している。もっと深いところに堕ちてしまうかもしれないと。
 ならばどうすればいい。何も知らないエルローから、アルシラとエルロー本人を守るには。
「お前は、僕よりのあの女が大事なのか」
 エルローの言葉は、口にした本人が思っているよりもはるかに重くリュクセルにのしかかり、抱く迷いのひとつを瞬時に振り払う。
 リュクセルは俯いていた顔を上げる。十年以上ぶりに、逃げずに、エルローの目を見つめた。
「本当に、そうであれば」
 アルシラだけを選び、アルシラのために生きられるなら。彼女ひとりに重荷を背負わせる事なく、安らかに生きられれば――どれほど楽だったか。
「私は今頃、アルシラを連れて、どこか遠くに逃げているのではありませんか。貴方をひとり置き去りにして」
 やはり十数年ぶりにリュクセルの目を見たエルローは、引きつった顔をしている。無表情にも見えるそれは、子供のように動揺した表情でもあり、今にも泣きそうな表情でもあった。
 先に目を反らしたのは、エルローの方だった。少しだけ震えた手で顔を覆い、俯く。泣いてはいない。今の彼は、もうそれができなくなっている。だからこそ余計に痛々しかった。
「もう、いい」
 かすれた声で、エルローは呟く。
「エルロー様?」
「出ていけ」
 静かな声は、強い願望を表していた。
 リュクセルは一度エルローの前に跪き、深く頭を下げると、言われた通り部屋を後にする。これ以上エルローを見てはいけないと判断したので、一度も振り返らなかった。
 守れたと思っていいのだろうか。アルシラや、エルロー自身を。
 リュクセルの胸の中に少しだけ、温かな満足感が生まれた。


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