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二章 episode2



 ひと晩ラシード家に泊まっていったサーニア――もちろん、リュクセルとサーニア両名の強い希望によって、部屋は別々だ――と、イルギスと、ティアと。楽しいのか気まずいのかいまいち判らない朝食を終え、ガーフェルートの屋敷に戻る支度をしていたリュクセルの元に、サーニアは現れた。
「もう戻るのか?」
「ああ。できる限りここに長居したくないのでな」
「同感だ。では、私も一緒に連れていけ」
 とても人にものを頼む態度ではないなと思ったリュクセルだが、実にサーニアらしいと思えたし、彼女の家が具体的にどこにあるか判らないが、向かう都は同じなのだから構わないかと、笑って頷いて承諾した。
「ありがとう」
 サーニア自身はすでに出かける準備を終えているようだ。ソファに腰かけて靴紐を結び直しているリュクセルを、退屈そうに見下ろしている。他意はないのだろうが、急かされているような気になったリュクセルは、沈黙をごまかすために余計な事を口走った。
「君はこの先一生、誰とも結婚しないつもりか?」
 返事はすぐに来なかった。
 もしかすると、逆鱗に触れる話題だったのだろうか。顔を上げて確かめる事を本能的に拒否したリュクセルは、結び終えた靴紐を見下ろしたまま、待つ。
 サーニアが動く気配がした。まさかいきなり殴りかかってくるつもりかと、リュクセルは咄嗟に考えたが、サーニアはただ静かに、リュクセルの隣に腰を下ろすだけだった。
「よく誤解されるのだが、私は特に独身主義と言う訳ではないぞ」
「……は?」
 空耳かと疑ったリュクセルは、短い言葉で問い返す。
「何だ。私は何かおかしい事を言ったか?」
「おかしいわけではない。似合わない台詞だと思っただけだ」
「正直な男だな」
 柔らかなソファに背中を預けたサーニアは、ふふ、と小さく笑う。昨日までの彼女ならばけして見せてくれなかった、なかなか可愛らしい表情は、多少心を許してくれた証なのだろうか。そう思うと、少し嬉しかった。
「よく勘違いされるがな、私はさほど自立心が強いわけではないよ。少し意志と主義主張が強いだけだ。ひとりは寂しいと素直に思うし、無駄な苦労は面倒くさいと思っている」
「なるほど。女性が独身を通すのは、なかなか苦労が多いからな」
「その通りだ。腹立たしい事にな!」
 座ったばかりだと言うのに、サーニアは床に強く足を叩きつけて立ち上がる。眉間に深い皺を刻んで怒りを強く面に出したので、先ほどまでの可愛らしさは無残に消えていた。
「少なくとも現状では、女が平穏に生きるには、結婚するのが一番らしい。自由を放棄し、一生男にかしずいて生きるのが、な」
 また、ずいぶんと極端な結論を。リュクセルは半ば呆れ、半ば尊敬しながら思う。
 だが、それもひとつの正しい結論なのだろうと、納得せざるを得なかった。サーニアもそうなのだろうが――リュクセルが真っ先に思い出したのは、アルシラや彼女の姉妹の事だった。
 彼女たちは、男に生まれていれば、どれほど自由だっただろう。
「だがな、こうも思うのだ。私ほどの女が、ろくでもない男にかしずいて、一生を終える。それは重大な才能の損失ではないか、と」
 自分の事をそこまで称えられるサーニアの度胸に驚き、リュクセルは一瞬言葉を失ったが、すぐに取り戻して返した。
「すごいな、君は」
「なんだ、突然」
「いや。私は君に見合う男にはなれなさそうだ、とあらためて思ったのだ」
「当たり前だろう」
 リュクセルは小さく声を上げて笑う。
 冷静に考えずとも、見下されているのは確かで、ここは怒る所なのだろう。だが不思議と、サーニアには何を言われても気にならなかった。
「つまり君は、自分の才能を犠牲にしても仕えるほどの価値がある男となら、結婚してもいいと思っている、と?」
「そうだ。喜んで結婚してやる。だが、現実にそんな男と出会った事がない。『むしろお前が一生私に仕えろ』と思える相手なら良い方で、顔も見たくない男ばかりが溢れている」
「なるほど――では、そろそろ行くか」
 リュクセルは立ち上がり、荷物を担ぐと、サーニアについてくるよう視線で促した。
 頷いたサーニアは、「ようやくか」と呟きながら、歩き出すリュクセルの横に並ぶ。
「君の考え方は、理屈上は正論なのだろう。だが、恋愛ではないな」
「ああ……」
 楽しそうに微笑んで、サーニアはリュクセルの肩を強く叩いた。
「そうか、そうだな。お前、なかなかいい事を言う」
 言って、真っ直ぐ正面を見る。その目はどこか、遠い所を見ていた。
 何かを吹っ切ったような、凛とした、清々しい表情。けれどどこか、寂しそうにも見える。
「私は結婚相手と恋愛する事など望んでいない。ただ、相手を尊敬したいのだ」

 そうして半日ほどリュクセルと馬を並べて走らせたサーニアは、いっこうにリュクセルと分かれるそぶりを見せなかった。リュクセルがガーフェルートの屋敷の前にたどり着き、馬を下りて別れを告げようとした時までも。
「ここか」
 分かれるどころか、彼女もまた屋敷を前にして馬を下り、さも当然のように、リュクセルについてこようとしている。
「どうしてついてくる?」
「何を今更。私は一緒に連れていけと言った。お前は承諾した。違うか?」
「ああ……」
 リュクセルは重くなった頭を抱えた。
 確かにサーニアは、連れていく先がどこまでか、具体的に言っていなかった。リュクセルが勝手に勘違いしただけなのだ。
 なぜここまでついてこようと思ったのだろう。ただの興味本位なのだろうか? 突然の事にリュクセルは困惑する。
 だが、そんなリュクセルなどおかまいなしのサーニアは、雅な庭園を突き進んでいった。
「サーニア!?」
 サーニアのあまりに堂々とした足取りに、不審者なのかそうではないのか判断ができない使用人たちが、リュクセル以上に困惑している。仕方なくリュクセルはサーニアを追いかけ、彼女の一歩前を歩く事にした。リュクセルが連れてきた客人と判断した使用人たちは、安堵の表情を見せた。
「頼むから、これ以上勝手に歩き回らないでくれるか」
 屋敷の中に足を踏み入れると、リュクセルはきつい口調で言った。
「判った」
 返事だけは素直なサーニアだが、素直に従う気はないらしく、足取りに変化はない。今にも勝手に通路を曲がり、リュクセルの視界から消えてしまいそうだ。
「勝手に歩き回らないでくれ、と言っているだろう。ここは他人の屋敷だぞ」
「だが、こんな広い屋敷なのだぞ。歩き回らねば判らんだろう」
「ならば私に訊け。ここで長年暮らしているのだ。自分の屋敷より詳しいくらいだ」
 リュクセルが言うと、サーニアはちらりとリュクセルを見上げ、肩をすくめた。
「お前は本音では私を追い出したがっているだろう。だから信用できない。案内されるがままについて行った先が出口で、放り出されるかもしれない」
「私はそんな情けない事をしな――」
 リュクセルは言葉を途中で止め、同時に足も止めた。サーニアを追っていた視線を正面に向ける。
 サーニアもリュクセルの異変に気付いたらしい。同じように足を止め、前方を見た。
「アルシラ」
 前方から歩いてきたアルシラも、驚いた顔で立ちつくしている。はじめは真っ直ぐにリュクセルを見上げていたが、ゆっくりと視線をサーニアにずらすした。
「リュクセル様、おかえりなさいませ。そちらの方は、お客様ですか?」
「ああ、彼女は」
 アルシラにどう説明しようかと、迷ったリュクセルは言葉を止めた。「家が勝手に決めた婚約者だが、互いに納得していないので破棄する予定」などと、正直に説明していいものだろうか。アルシラにだけは下手な誤解や不安を与えたくないと言うのが、リュクセルの正直な気持ちだった。
 言葉を探すために、リュクセルはサーニアを見下ろす。するとサーニアは、満面の笑みを浮かべる。「私に任せておけ」とでも言いたげな、自身満々の顔だった。
 任せてしまっていいものか。リュクセルが迷っているうちに、サーニアは一歩前に進み出る。そして普段の彼女からは考えられないような、柔らかい表情を見せ、優雅なお辞儀をした。
「はじめまして。サーニア・フォレストと申します。イルン・ラシードの婚約者です」
「あ」
「え?」
 焦ったリュクセルはサーニアの口を塞いだが、すでに遅かった。アルシラははっきりと、都合の悪い部分だけを切り取った真実を、聞きとってしまったようだ。
 事情を詳しく説明しようと、リュクセルはアルシラを見つめたが、アルシラの凍りついた表情を目にし、一瞬うろたえる。アルシラはすぐに笑顔を浮かべてくれたのだが、明らかに作り笑いで、リュクセルが抱く不安は増す一方だった。
「あの……ええと、おめでとうございます」
「い、いや、アルシラ。これには色々事情が」
「後ほど、ゆっくりお話を聞かせていただけますか。今は、急ぎの用がありますので、これで」
「待っ……」
「失礼いたします」
 引き止める間も与えてくれなかった。それどころか、深々と礼をしたアルシラは、引き止めようと伸ばしたリュクセルの腕をさりげなく避け、横を通り抜け、その場を立ち去ったのだった。
 アルシラがすぐ先にある角を曲がり、背中が見えなくなると、リュクセルはサーニアに振り返る。
「なぜ、言った」
「すまん。ああでも言わんと、追い出されてしまうと思ったのだ。お前の恋人とは思わなかった」
 サーニアは悪びれもせず、胸を張って両手を腰にあてていた。
「イルン・フォスターだ」
「彼女が?」
 サーニアはアルシラが消えた角に目を向ける。
「イルン・フォスターがお前の恋人なのか?」
「悪いか」
「いいや」
 サーニアは意味ありげに微笑んで、リュクセルの肩を優しく叩く。
 どうやら、好意的な態度のようだ。しかしどうして彼女がそのような態度を取るのかさっぱり判らないリュクセルは、両の眉を寄せた。


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