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二章 episode2



 部屋中には、窓の向こうから降りそそぐ光が溢れていた。
 眩しい部屋だ。窓越しに見える庭に花が咲き乱れて輝いているため、余計に明るく感じる。この中で眠り続けられるのだから、部屋の主はよほど神経が図太いのだろうとアルシラは思った。
 盛大なため息をひとつ吐いたアルシラは、部屋の主が応じてくれないだろう事はあらかじめ判っていたので、勝手に部屋の中に入り、堂々と部屋を横切る。そして奥にある天蓋付きの大きな寝台の傍らで足を止めた。派手に足音を立てたつもりだが、寝台の中心で眠る青年はまったく気にならないようで、瞼を閉じたままゆるやかな寝息を立てていた。
 さて、どうしよう。腹が立つほど綺麗な寝顔を見下ろしながら、アルシラは考える。
 起こす事そのものは大した仕事ではないだろう。問題は、目覚めた後だ。アルシラを無視してもう一度眠るだろうエルローを、いかに寝台から引きずり出すか、だった。
「フィ……ナ……」
 寝返りを打ったエルローの唇から、今は亡き侯爵令嬢の名がもれる。それは一瞬にして、アルシラから冷静さを奪い去った。
 まだ追っているのか。ありもしない偶像を。
 夢の中でまで。
「エルロー様!」
 感情の乱れによって落ち着いて考える事ができなくなったアルシラは、乱暴に怒鳴る。
 するとエルローは、長い睫を揺らしながら目を開けた。紫の瞳ははじめ、夢と現実の境をさまよっていたが、アルシラを視界に捉えると同時に、はっきりと目覚める。
 すう、と細まった目に、強い感情が宿った。青年がいつもアルシラに見せるものと同じ、憎悪が。
「いつも、いつも、お前だな」
 エルローは前髪をかき上げながら、上体を起こした。
「何のお話です? さ、はやく起きてください。のんびりしていると、すぐにお昼になってしまいますよ」
「僕とフィアナランツァを引き裂くのは」
 アルシラも目を細め、エルローを見下ろした。
 もう二年半以上も、エルローはアルシラの前で、愛する侯爵令嬢を奪われた恨みごとばかりを口にする。アルシラとてそれを覚悟してセインを解放したのだが、いいかげん妄言ばかり聞かされるのは鬱陶しいと言うのが正直なところだった。
「まだそんな幻を追っているのですか?」
「幻だと?」
 エルローは突然枕を掴み、アルシラに投げつけてきた。柔らかいものだが、勢いの分だけ痛みもあり、アルシラは顔をしかめる。
「フィアナランツァはあの晩、確かに僕の腕の中に居た。それなのに次の日には消えていて――お前が、僕からフィアナランツァを奪ったんだ!」
 アルシラは否定をしなかった。セインを逃がしたのは確かにアルシラ自身であったし、目の前の青年がセインをフィアナランツァだと思い込んでいる事も知っていたからだ。
 知っていて、アルシラは堂々とした態度でエルローを見下ろした。たとえどれほど責められようとも、大事な友人をこんな男の腕の中から一刻も早く解放してやりたいと望んだ心まで含めて、自身が正しいと信じていた。
「はい、そうですね。エルロー様のおっしゃるとおりです。これで満足していただけましたか? では、早く支度をなさってくださいね。もうすぐルリア様がいらっしゃいますから」
「ルリア?」
 エルローは婚約者の名を口にすると、小馬鹿にするように鼻で笑った。
「だからどうした。あんな女が、フィアナランツァの代わりになるものか。フィアナランツァの代わりなど、誰にもできやしないんだから!」
 セインを代わりにしたくせに。
 アルシラは言いたくても言えない言葉と怒りを飲み込むため、受け止めた枕を抱く手に力を込め、自身の口に押し当てた。
「僕の心を慰められる人は、もう、居ないんだ」
 ならばいっそ、傷付いたまま苦しみ抜いて、そして消えてしまえばいい。
 抱く全ての感情を込め、アルシラがエルローを貫くように睨みつけると、エルローも睨み返してきた。強い強い、恨みを込めて。
 沈黙の中で睨みあっていると、やがてエルローは視線を緩めた。突然、何かに気が付いたように笑う。
 それがあまりにいやらしい笑みだったので、アルシラの背筋に悪寒が走った。反射的に逃げようとしたが、アルシラが動くよりも早く、エルローの腕が伸びる。
 アルシラは二の腕を掴まれ、そのまま引き寄せられた。抱いていた枕が床に転がると同時に、アルシラの背が柔らかな感触を知る。気付いた時には、寝台の上に組み伏せられていた。
 予想だにしていなかった突然の事に、アルシラは内心焦りを覚えたが、それをエルローには絶対に悟られないよう、無表情を保つ。
「何のおつもりです」
「ふと思いついたんだ。お前なら、僕を慰められるかもしれないってね」
 美麗な顔が近付く。紫色の双眸が、ごく近くでアルシラの目を覗き込む。
 恐怖や屈辱感をかき立てようとしているのだろう。だがアルシラは、気丈に笑ってみせた。
「貴方を傷付けた私なら、ですか? そうですね。私が泣き喚けば、貴方の気分は少なからず晴れるかもしれません」
「だろう? 試して見る価値はあると思うんだが」
「その価値は私には計りかねますが――とりあえず今は、お放しください」
 アルシラが強気で言い切ると、驚いたエルローの腕にこもる力が緩まる。
 それを見逃さず、アルシラはエルローの体を押しのけ、体を起こした。少しだけ乱れた着衣を直し、自分の両足で立つと、再びエルローに向き直る。
「エルロー様もご存知かと思いますが、私がガーフェルート家にお仕えしているのは、私がガーフェルート家のものだからではありません。私のすべては、この世に生を受けた日から命が尽きるその日まで、リュクセル様のもの。たとえ貴方がどなたであろうと、リュクセル様のご許可がない限り、私に触れる事は許されないのです」
 無礼とも言えるアルシラの発言だが、エルローは怒りを見せなかった。それどころか、微笑んだのだ――けして優しくない、勝ち誇った笑みだったけれど。
「ずいぶん余裕だけれど、お前はひとつ重要な事を忘れているよ。リュクセルは事実上ガーフェルートのもので、僕の言う事なら何でも聞いてくれる優しい男だって事」
「忘れておりませんよ。それが、何だと言うのです?」
「馬鹿だな、判らないのか? リュクセルは今日にも帰ってくる。つまり、今夜のお前の居場所はここなんだ」
 陰湿な笑みを浮かべたエルローは、自身の寝台の上に手を置くと、その一点に体重をかける。
 ぎしり、と軋む音が鳴った。
「今夜お前は、最愛の男にさし出されて、僕の腕の中で泣くって事さ」
 アルシラはエルローの言葉に怯む事なく、真っ直ぐに背筋を伸ばして返した。
「泣きません、絶対に」
 それは、確信。
 たとえリュクセルがどんな決断を下そうと、どんな運命が待ち構えていようと、それだけは絶対だと言う自信が、アルシラにはあった。
「ずいぶん強がるな」
「強がりではありません」
 アルシラは微笑んだ。虚勢でも、負け惜しみでもない。幸福をにじませるほどの笑みを、エルローに見せつけた。
 この男にはきっと一生判るまい。私の想いなど。
 理解してほしいとも、思わないけれど。
「先ほど言いましたでしょう。私のすべてはリュクセル様のものだと。ですから、リュクセル様の命令は私にとって絶対のものなのです。それがリュクセル様のためにならないと判断した時以外は、ですけれど」
 アルシラは自身の胸の上にそっと両手を重ねた。
「ひと晩貴方のものになれとリュクセル様がおっしゃるならば、私は黙って従うでしょう。従うと決めたなら、私は私の心を凍らせ――表情の変わる事ない人形となって、命令を完遂します」
 ここに来てようやくアルシラが言わんとしている事を理解したのか、エルローの笑みが消えた。真顔になり、アルシラを見つめる眼差しが、再び鋭く変わった。
「人形は、苦しみも悲しみもしません。まして泣くなんてありえない――そうでしょう?」
 軽く唇を噛んだエルローは、舌打ちをしてアルシラから顔を反らす。けだるげに寝台から這い出ると、わざとアルシラを避けるように立ち上がった。
 どうやら、これで役目は終わったようだ。アルシラは内心の安堵をエルローに見せないように、エルローに一礼する。
「失礼いたします」と挨拶をして部屋を出ると、エルローの身支度のため待ち構えていた使用人たちに合図を送った。


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