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二章 episode2



 東向きの窓から入り込む光に照らされた机の上には、六日前から一通の手紙が置いたままになっている。
 滅多に会わない妹セルナからの連絡は久々で、アルシラは手紙が届いたその日、できるだけ早く時間を作り、目を通した。だが一度読んでからは、机の上に置き去りにしたきりで、触れる事すらしていない。
 怖かった。いや、怖いとは少し違うかもしれない。けれどそれによく似た感情のせいで、アルシラが手紙に手を伸ばせなかったのは事実だった。
 おかげで何と書いてあったか、よく覚えていない。最初の一行がアルシラに与えた衝撃は思いのほか大きくて、その後に続いた文章は、上手く頭の中に入ってこなかったのだ。
 アルシラはゆっくりと机に歩み寄り、手紙に手を伸ばす。
 今朝になって勇気が湧き、もう一度読んでみようと思えたのは、おそらく久方ぶりにリュクセルと離れて過ごしているからだった。動揺が隠しきれなくても、一番気付かれたくない人には知られずにすむから。
 深呼吸をして多少気持ちを落ち着けてから、少し震える指で、手紙を開く。
 長々と綴られた字は、小さくまとまりすぎているが、綺麗だった。それだけで、妹の心が伝わってくるかのようだった。
『セイシェル様と結婚する事になりました』
 一行目が伝える真実は、未だにアルシラの胸を突く。また思考が止まってはいけないと、なるべく目に入れないよう、アルシラは次の行に視線をずらした。
 二行目からは、ふたりの結婚が決まるまでの経緯が書かれていた。イルギスがセイシェルに用意した別の婚約者の事、セイシェルに突然結婚を申し込まれた事、驚くほどとんとん拍子で話が進みんでしまった事――セイシェルはイルギスが連れてきた婚約から逃げるために自分との結婚を選んだのだろうと、セルナ本人にとっては嬉しくない予想まで書いてある。
『私たちが結婚する事は、全てが終わるまで、リュクセル様や姉さんに秘密にしておけと、セイシェル様にきつく言われていました。知られればきっと反対されるから、と。はじめはおとなしく従っていましたが、やはりずるすぎると思いました。そうするのは姉さんたちだと、正式には決まっていませんでしたが、暗黙の了解でみんなが知っていた事。それなのに、突然私たちが横入りして、一方的に権利を奪うなんて』
「優しい子」
 アルシラは微笑みながら、妹のはかない笑顔を思い浮かべる。
 セルナはいつも控えめで、我を出さない、出せない子だった。セイシェルの意志に逆らうこの手紙を書くだけでも、きっと大きな勇気を必要としただろう。
「私たちの事なんて気にせず、自分の事だけ考えていればいいのに。ようやく幸せになれるんだから」
 アルシラがリュクセルを慕うように、セルナがセイシェルを慕っていた事を、アルシラは知っている。
 けれど彼女はアルシラとは違い、セイシェルから想い返される事はなかった。数え切れないほどの女たちと付き合う想い人を目の前に、長く辛い想いをしてきた事だろう。その想いがようやく実るのだ。結婚までの過程はさておき、結婚後の苦労は目に見えるようであっても――そんな時に姉の心配をするなどと、まったく損な性分だ。
『今の状況を、姉さんからリュクセル様に伝えてください。そして、セイシェル様と話し合ってください。今ならまだ間に合います。止められます。私は、おふたりが決められた事に従うつもりです』
 セルナはどんな想いでこの手紙を書いたのだろう。
 自分が同じ立場なら、この手紙を書いただろうか。そう考えて、アルシラは即座に首を振る。
 きっと書かない。書けない。セルナの気持ちを知っていながら、それでも「セイシェルと結ばれる事はセルナの幸せにならない」などと言い訳をして、何もせずに結婚当日を迎えただろう。
「ありがとう、セルナ」
 それだけで充分だと思えるほど、妹の気持ちが嬉しかった。だからアルシラは、手紙の内容をリュクセルには伝えず、自分の胸に秘め、結婚の日が過ぎるのを待った。
「だって私は、このままで幸せだもの」
 アルシラは手紙を胸に押し抱き、目を伏せる。
 今までの関係では、セルナはセイシェルの手駒のひとつにしかなれなかった。けれど妻になれば、たとえセイシェルが不実な行いを続けても、確固たる絆がセルナの元に残るだろう。それはきっとセルナの支えになる。ただそばに居続けるよりも、ずっとましで――きっとセルナは、セイシェルの従者になる事が決まった時、生まれた瞬間から、他の形の幸福を失ってしまったのだ。ならばせめて、このくらいの安らぎは手に入れてほしい。
 私は違うから。大丈夫だから。
 周りの目に自分たちの関係が主従としか映らなくても、アルシラには判ってる。リュクセルに一番近い人間は、アルシラ自身でしかありえないのだと。だから結婚と言う形で周囲に証明する必要はない。今のままで、充分以上に幸せなのだ。
「それで、いいんですよね」
 声が届く場所には誰ひとり居ないのに、アルシラは確認するように言った。それはもしかすると、自分に言い聞かせるためだったのかもしれなかった。
「アルシラ様!」
 自分の思考の中に閉じこもっていたアルシラは、突然の扉を叩く音と名を呼ぶ声に驚いて、一瞬だけ体を緊張させる。すぐに気を取り直すと、手紙を机上に戻し、扉に近付いた。
 扉を開けると、慌てた様子の使用人がひとり立っていた。この屋敷で働きはじめてからまだ二年もたっていない若い娘は、アルシラの顔を見て安堵したようで、強張っていた顔が少し緩んだ。
「どうしたの?」
「ええと、その……今日は、来客のご予定がありまして。その、ゼフィール伯爵令嬢ルリア様が……いらっしゃる予定なのですが」
 何度も言葉を途切れさせ、あるいは間を開けながら、少女はゆっくりと語る。今日の予定くらいは当然把握しているアルシラにとって、なかなか内容のある話にならなかったが、本題に入る事を恐れているかのような言い回しと、わざわざエルローの婚約者の名前を出した事から、ある程度用件を察した。
 アルシラは苦笑しながら派手にため息を吐く。
「エルロー様は今どうなさっているの?」
「あ、あの、まだお休みになってます。その……先ほど何人かで起こしに行ったのですが、追い出されてしまいまして」
「あまり時間に余裕はないのよね。予定ではルリア様は昼よりも前にいらっしゃるはずだから」
「はい。普段ならばこのような場合、リュクセル様にお願いするのですが、本日は外出なさってまして、それで……」
 上目遣いの縋るような視線を向けられ、アルシラはもう一度ため息を吐いた。
「これから長いお付き合いになるんだもの。ルリア様への礼儀を欠いてはいけないわよね。判りました、私が行きます。リュクセル様のように上手く行くとは限らないけれど、何とか頑張ってみるから、みんなは準備をして待ってて」
「はい、ありがとうございます!」
 少女はぱっと表情を明るくして、床に頭が付いてしまうのではと疑うほど、深々と頭を下げる。
 些細だが嫌な役割で、アルシラはいきなり気が重くなった。だがこれこそが、ひとり残った意味でもある。何はともあれ全力で頑張るしかないと、アルシラは覚悟を決めた。


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