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二章 episode2



 一刻も早く兄のそばから離れようと通路を突き進むリュクセルの隣には、同じように歩くサーニアが居た。並んで歩けているのは、リュクセルが気を使ってゆっくり歩いているからではない。サーニアが女性にしては高い身長に比例して長い足で、素早く歩いているからだ。
 認めたくないが、兄イルギスの言葉のうちのひとつは、的を射ていたのかもしれない。「イルギスとうまが合わない」と言う点では、確かにふたりは気が合っていた。もっとも、あの男とうまが合う者は、そうそう居ないだろうが。
「ひとつ訊いていいだろうか」
 ふたり分の靴の音だけが響く状況もおかしいかと、リュクセルはサーニアを見下ろし、話しかけてみた。
「構わんぞ。だが、くだらんと判断したら無視するからな」
「ならば遠慮なく訊ける。フォレスト家とは、いったいどちらの家だろうか? 失礼ながら、その名に心当たりがないのだ」
 正直に言えば、リュクセルはそのような名の貴族の話を、まったく聞いた事がなかった。知識がないほうでも、情報収集をおろそかにするほうでもないので、古くからある家系ではないだろうとは思うのだが――よほどの新興貴族か、他国の家系なのだろうか?
 無視する気がないらしいサーニアの様子を見守りながら、リュクセルは答えを待った。
「知らなくて当然だろう。私の家は貴族ではない。商人たちの間では、そこそこ有名なのだが」
「商人と言うと、もしかしてフォレスト商会と関わりあるのか?」
 サーニアは顔を上げた。切れ長の目が、少し見開かれている。驚いているようだ。
「知っているのか。フォレスト商会は、我が父が興したものだ」
「知らないわけがないだろう。ここ数年で急激に力を伸ばしていると聞いている」
 ただ、一応は貴族である自分の婚約者が、商家の娘だと思わなかっただけだった。貴族である事に驕っているつもりはないのだが、歴史を鑑みて、常識で考えれば、普通考え付かない。
「ああ、そうだ。ちょうど私が父の手伝いをはじめた頃から、な」
 ふと、サーニアの口元が緩んだ。得意げに笑う表情は、相変わらず凛々しいが、今まで見た中では一番柔らかく見える。
 リュクセルは少しだけサーニアの事が判った気がした。商売人としてはっきりとした結果を出した彼女は、自らの商才に自信と誇りを持っている。けれど商売の世界は男世界であるから、過去、もしかしたら今現在も、女と言うだけで実力が認められず、時には相手にされない事があったのだろう。なまじ美人に生まれてしまったがために、揶揄される事もあったかもしれない。明らかに実力で劣る男たちに。
 それは予想でしかないが、おそらく真実と大きくは離れていないだろうとリュクセルは思った。同時に、サーニアの硬い口調や苛烈な思考や堂々とした態度が、偏見や雑音と戦いながらそれでも真っ直ぐに生きてきた証に見えて、ひどく格好良いものに思えてきた。
「判りやすいだろう。ラシード家は金がほしい。フォレスト家は身分がほしい。ついでに、父親を差し置いてでしゃばる目障りな娘を片付けたい――お前の兄と私の父の利害が一致した、と言うわけだ」
「酷い話だな」
「お前の兄も私の父も馬鹿だから、目先の事しか見えないのさ」
 サーニアは皮肉だけを秘めた笑みを浮かべながら、話題に上がっている人物が聞いたら暴れだしそうな言葉を吐く。
「君の父親の事は知らないが、兄上に関しては同感だ」
 リュクセルは肩をすくめながら言った。
「ああ……でも、お前の弟は多少賢かったぞ。セイシェル・アイン・ラシードだったか」
 リュクセルは目を丸くした。自分にも他人にも、特に男性に対して厳しい目を持っていそうなサーニアの口から、弟への褒め言葉が飛び出すとは思ってもみなかった。
 セイシェルの女性にだらしない点は、サーニアの基準ではそうとう評価が低いと思われる。それを補って余りあるほどのものを、セイシェルは持っていたのだろうか。
 知らないうちにずいぶん成長していたのだなと、リュクセルはひとり感心した。
「セイシェルが気に入っていたのか? ならばもう少し早く話が出て、弟と婚約できればよかったな」
「冗談でもやめてくれ。あんなに可愛いアイン・フォスターに健気に想われていながら、複数の女と同時に付き合うような男など、初めて会った日に殴り飛ばしてやったさ」
「それは――私の代わりに、どうもありがとう」
 素直な気持ちで礼を言うと、サーニアはリュクセルを見上げる目を細めた。
「セルナはおとなしい子だったからな。何も求めずにセイシェルを想い、仕えていた。セイシェルの不実な振る舞いに、心は大きく傷付いていただろうに」
「それを知っていて、なぜお前はアイン・ラシードを殴ってやらなかった」
「顔を合わす機会がなかった、としか言いようがない」
「機会は作るものだ。無理やり目の前に連れてきて、殴れ。親が死んでいるなら、しつけは上の兄弟の役目だろう」
 反論の余地がない正論であったので、リュクセルは黙り込んだ。本来ならばその役目は、家の都合で家を離れたリュクセルではなく、長男かつセイシェルと同居しているイルギスが負うべきだと思ったが、あの男に任せようと一瞬でも考えた事が間違っている気がした。
「しかし、そんなセイシェルがセルナと結婚するとは、驚いたな。殴られた事で心境が変化したのか、セルナの想いがようやく通じたのか……」
「心境の変化だろうな。私に殴られて、私と結婚するなんて冗談じゃないと思ったんだろう。それならばアイン・フォスターと結婚したほうがましだと考えたのではないか?」
「まさか」
「だが、やつが突然アイン・フォスターと婚約したのは、私と会った翌日だぞ? 逃げの手際のあまりの良さに、こいつ賢いのかもしれんと、思わず感心してしまった」
 リュクセルは頭を抱える。
 サーニアの言が確かならば、セルナは結局、想いを利用されただけなのだろう。それは哀れな事なのだろうか。それとも、幸せな事なのだろうか。リュクセルには簡単に判断できない事だった。
「アイン・ラシードが片付いた時、婚約話からようやく解放されると思ったのだがな。まさか他にも兄弟が居るとは思わなかった。愚か者とは言え、家長である父やお前の兄を振り切るのは厄介な事だ。判りやすい口実があれば断りやすいのだが――この屋敷に勤める者や、あてにはならないがアレン・ラシードやアイン・ラシードの話によると、お前はまともらしいではないか。兄があれで、弟は女癖が悪い。お前にも何かたちの悪い癖がないのか?」
「あいにく、私は並の人間だ。しいて言うなら、隻眼である事だが……」
「そんな事が理由になるか。それともお前の目には、私がそんなくだらん事で人を判別するような小さな女に映っていると言うのか?」
「いや、まったく」
「だろう。冗談でも、二度とそんな事を言うな。不愉快だ」
 リュクセルが頷くと、サーニアはしばらく胸を張って満足そうにしていたが、すぐに現実に気付き、肩を落とす。
 肩を落としたのはリュクセルも同じだった。判りやすい口実が見つからないとなると、なかなか面倒な事になりそうである。
「恋人はいないのか?」
「残念ながら、私の目にかなう男がなかなかいないものでな。そう言うお前こそどうなんだ。いるならとっとと結婚してしまえ」
 サーニアの素早い切り返しによって、リュクセルの脳裏には、ひとりの女性の姿が浮かぶ。胸の中には、静かだが確かな愛しさが。
 けれど彼女の存在は、婚約をいやがる理由にはなっても、断る理由にはけしてならない事を、リュクセルは思い知っていた。
「君の言った通りだ。セイシェルは賢い。あざといとも言えるな」
「突然どうした」
 リュクセルは複雑な笑みを浮かべた。
「あいつは婚約から逃げだすと同時に、私から逃げる権利を奪ったんだ」


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