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二章 episode2



 ラシード家当主、イルギス・アレンの部屋に続く通路を、リュクセルは突き進んでいた。
 誰と、誰が、婚約しているだと?
 兄が突然自分を呼び寄せた理由と、ティアの口から突然語られた新事実は同じだろうと察したリュクセルは、珍しく腸が煮えくり返るほど腹を立てていた。もはや礼儀だのなんだの言っていられない。すぐにでも兄の部屋に突入し、怒りを叩きつけてやろうと決めていた。自然に歩幅と足音は大きくなった。
 通路を真っ直ぐに進み、階段を上って右手に進み、奥の角を曲がる。すると、兄の部屋の扉が視界に入った。なぜか豪快に開いている扉から漏れ出す灯りは、部屋の中に居る人の影を、通路まで伸ばしていた。
「何が気に入らないか、だと?」
 鋭い声と、机か何かを乱暴に叩く音が、部屋の中から響いた。声に潜む感情は、リュクセルが抱えるものを凌駕するほど強く、リュクセルは思わず足を止めた。
「そうだったな。貴様は何もかもいちいち説明されなければ判らないほどの愚か者なのだった。仕方ない、この私が直々に教えてやろう!」
 口調は苛烈で、声はやや低めだったが、明らかに女性のものと判る声だった。リュクセルにとってははじめて聞く声だ。
「私はな、欲望を理性で抑える事ができない男と言う生き物が大嫌いでな。それと結婚させられると言うだけで、充分すぎるほど不満なのだよ。その上、男どもの中でも最も馬鹿と言える貴様の血縁者だと? 気にいる要素を捜せと言う方に無理があると思わないか? ん?」
 会話の内容から、声の主が自分の婚約者――とされている――女性だと判断したリュクセルは、再び歩みを進め、部屋に近付いた。
「あ、で、でもね」
 ようやく、イルギスの弱々しい声が聞こえた。どうやら場の雰囲気を和ませようとしているようだが、逆に神経をさかなでるだけだろうとリュクセルは思った。
「イルンは本当にいい子なんだよ。真面目だし、優しいし。僕の弟とは思えないって、みんな言ってるんだから」
「ほう、ほう。ここまではっきり言っても、私が貴様を信用していないと言う事が伝わってないらしい。貴様の阿呆さ加減は、呆れるを通り越してもはや感動的だな」
「いやー、どうもありがとう」
 照れながら頭を掻く兄に呆れたリュクセルがため息を吐く前に、女性が鼻で笑った。
「私も愚かだな。貴様に言葉が通じると思っていたなんて……」
「あ、イルン!」
 椅子に座っていたイルギスは、解放された扉の前に立つリュクセルに気付くと立ち上がり、リュクセルを指差した。
 女性は頭を抱えながら振り返り、リュクセルを睨むように見つめた。
 ティアの言ったとおり、なかなか整った顔立ちの女性だった。だが切れ長の目や通った鼻筋、引き締まった口元は、綺麗と言うより凛々しいとの言葉の方が似合いそうだ。
 この顔と声と口調で凄まれたら、迫力と言う言葉とは無縁の兄では太刀打ちできまい。納得しながらリュクセルは、救いを求めて縋るような視線で見つめてくる兄を、わざとらしく無視した。
「お前がリュクセル・イルン・ラシードか?」
 訊ねられ、リュクセルはまず一礼して返す。
「はじめまして。失礼だが、まず名前を聞いても?」
「本当に失礼だな。一応は婚約者である相手の名も知らないのか」
「申し訳ない。自分に婚約者が居る事を、つい先ほど知ったもので」
「……ほう」
 女性は口にだけ笑みを張り付かせて振り返り、イルギスを一瞥した後、リュクセルに向き直った。
「では名乗ろう。私はサーニア・フォレストだ」
「ありがとう。では、サーニア。まずひとつ言わせてほしい。この結婚話に反対し、取り消そうとする貴方の言動はとてもありがたいと思うが、たまたまあの男」
 リュクセルはサーニアの肩の向こうでうろたえるイルギスを指差した。
「――と同じ家、同じ性別に生まれてきただけで、同じものにしないでいただきたい」
「え、イルン、僕、一応君の兄なんだけど……言い方酷くない?」
 さすがに今回はリュクセルが言わんとしている意味を理解したイルギスは、弱々しい抗議をしたが、リュクセルは受け入れなかったし、サーニアはそもそも聞いてもいないようだった。
「私は自分の事を立派だと思っていないが、さすがに兄上ほど愚かでは」
「同じだろう?」
 サーニアは強い口調できっぱりと言い切り、リュクセルの言葉を遮る。そしてすらりと長い指を伸ばし、リュクセルの眼前に突きつける。
 無礼だと怒っていい所かもしれない。しかしサーニアの立ち振る舞いはあまりに堂々としており、怒るどころか逆に見惚れてしまった。
「大した人間でもないくせに、女を道具のように使っているのだろう? イルン・フォスターを!」
 強い眼差しだった。同じだけの強さで返す事ができず、けれど強すぎて目を反らす事もできない。リュクセルはただサーニアを見つめるしかなかった。
 イルギスとの会話を聞く限り、サーニアはどうやら、ずいぶんと女尊男卑に偏った思想の持ち主のようである。これまでろくでもない男とばかり出会ってきたのか、素晴らしい女性とばかり出会ってきたのか、それとも他に理由があるのか判らないが――そんな彼女にしてみれば、女性に生まれただけで明らかに下に扱われるラシード家とフォスター家の義務は、気に入らないのだろう。リュクセルですら疑問に思う制度なのだから、当然かもしれない。
「私は彼女を道具だと思った事など一度もない」
 真っ直ぐに見つめてくるサーニアをごまかす気にはなれず、リュクセルは素直に本心で答えた。
「ほう」
「だが、大した人間でもないくせに無条件で彼女の上に立っている事に関しては、否定できない。君の怒りはもっともだ」
「なるほど」
 サーニアは何度か頷いてから、笑みを浮かべた。それは先ほどイルギスに対して見せたものと雰囲気が違っており、迫力で相手を追い詰めるためのものではないと判った。
「謝っておこう。確かにお前は、アレン・ラシードほど愚かではなかった」
「ありがとう。今は何より嬉しい言葉だ」
「やっぱり、思った通りだ!」
 自分がけなされている事実に気付いているのかいないのか、イルギスは能天気な声を上げる。
「気が合うみたいだね! 僕、ふたりは絶対お似合いだと思ってたんだよ!」
 本当に、感動的なほど、無神経な男だ。
 サーニアが振り返り、リュクセルが目線を上げ、イルギスに視線を移したのは、ほぼ同時だった。
 向けられたふたりぶんの睨みがよほど怖かったようで、イルギスは机の下に隠れんばかりの勢いで身を縮める。
「兄上」
「な、何かな?」
「どのような理由で私の結婚を急ぐのか、聞かないでおいてさしあげます」
「え? ほんと?」
 あっさりと恐怖心を捨て去ったイルギスは、明るい表情を見せた。
「聞かずともどうせ金目当てだと判りますし、判らずとも聞く必要がありませんからね。理由が何であれ、私は兄上の思い通りになりませんから」
「えー……」
「父の借金のせいでガーフェルート家に売られた私が、また別の場所に売り飛ばされるのを黙って受け入れると思えるそのおめでたさ、けして美点ではありませんから、いいかげんどうにかなさってください。では失礼」
 それ以上兄の声を聞く事に耐えられないと判断したリュクセルは、辛辣な言葉を吐き捨てると、サーニアの腕を引いて部屋を出る。
 力いっぱい扉を閉めた。大きく響く音を聞きながら、「どうせ兄上は扉の向こうでまだへらへら笑っているのだろう」と思うと、苛立ちは余計に増した。


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