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二章 episode2



 早朝にガーフェルート邸を発てば、夕刻前にはラシード領内に入り、空が橙色一色に染まる頃には、生まれ育った屋敷に辿りつく。
 懐かしの我が家を目の前にしたリュクセルだが、予想通り、何の感慨も湧き上がらなかった。それどころか、早く帰りたいとさえ思う。そして、ガーフェルート邸に戻る事を「帰る」と認識するようになっている自分に気付き、僅かに苦笑した。
 それほど寄り付いていないのだから当然かもしれないが、迎え入れてくれた使用人のうち半分ほどは、リュクセルの記憶にない者たちだった。当然彼らはリュクセルの顔を知らず、誰だか判らないと言った様子でリュクセルに応対していた。当主イルギスの実弟だと知った時の慌てぶりは、微笑ましいほどだ。
「すまないが、兄上に私が戻った事を伝えてくれるか」
「かしこまりました」
 本当はすぐにでも兄の部屋に突入して用件を済ませたかったリュクセルだが、いくら兄相手とは言え、そこまで礼儀を欠きたくない。使用人に上着を預けながら言付けを頼み、兄の反応を待つ事にした。
「イルン兄さん!」
 一応まだ残されている自室でくつろぐ気にはなれず、客間で兄を待っていたリュクセルを、最初に迎えてくれた血族は、妹のティア・ラシードだった。今の代のフォスター家に男児が産まれなかったため、ふたつ目の名を持たないティアは、今もラシード邸内でのびのびと暮らしているようである。
 ふたつ目の名で呼ばれる違和感に、リュクセルは微笑で返した。個人の名より短くて呼びやすいとの理由で、ふたつ目の名で呼ぶ一族の者は多いのだが、一族と離れて暮らすリュクセルは、未だに慣れていないのだ。
「お帰りなさい。久しぶりね」
「久しぶりだな。元気そうで何よりだ」
 ティアはソファに腰を下ろし、使用人に運ばせた茶を口に運ぶ。居心地悪く部屋の中をうろつくリュクセルを、しばらくは上目遣いで見守っていたが、やがて「座ってゆっくりお茶でもすれば?」と勧めてくれた。
 せっかくだが、どうしても座って落ち着く気にはなれなかった。壁に寄りかかったリュクセルは、きょろきょろと辺りを見回す。そうして記憶に残る部屋との違いを捜しながら、気を紛らわせた。
「ところでお前はいつまでここに居るつもりなんだ?」
 ふと思いついて、リュクセルは訊ねる。
 悪意のない疑問のつもりだったが、気にするものがあるのか、ティアは嫌味として受け取ったようだった。
「何? さっさと嫁にでも行けって言いたいの? そーゆーのは、自分が結婚してから言ってくれる? イルン兄さん、今いくつだっけ? えーっと、私より七つ年上よね。で、私が二十二歳だから?」
 ティアが笑いながら軽い嫌味を返してきたので、リュクセルは小さく笑って肩を竦めた。
「悪かった。そのくらいで勘弁してくれ。悪気はなかったんだ」
「悪気なくてもちょっと傷付いたわよ。って言っても、悪気なく人を傷付ける天才がうちには居るから、イルン兄さんなんて可愛いものだけど」
「兄上の事か?」
 訊かなくとも確信していたが、それでも一応質問して見ると、ティアは大きく頷いた。
「もちろん。アレン兄さん以外に誰が居るっての。って言うかイルン兄さん、本当に座って。で、ゆっくりお茶しよう。たまには私の話に付き合ってよ。アレン兄さんの愚痴を遠慮なくできる相手、私にはイルン兄さんしか居ないんだから。アレン・フォスターと話すとね、私が負けちゃうの。あっちのがアレン兄さんに近くて、色々ためてるみたいだから、しょうがないけどさ」
 先ほどよりもずっと強制力のある勧めに、リュクセルはおとなしく従う事に決め、ティアの正面に腰かけた。
 リュクセルは基本的に実家を苦手としているが、ティアの事はそれなりにかわいい妹だと思っている。リュクセルはティアが五歳の時にガーフェルートに行ってしまったので、あまり顔を会わせる機会がなかったのたが、それでも血族の中では一番気が合う相手だと断言できた。
 ティアの方も、愚痴の相手に同居している兄弟よりもリュクセルを選ぶあたり、それなりに心を開いてくれていると思っていいのだろう。
「最後にイルン兄さんが帰ってきたのっていつだっけ?」
「兄上の婚礼祝いの時だ。六年前だな」
「あらそ。じゃあ、六年分の愚痴がたまってるから覚悟してね。って言っても、いちいち覚えていたらとてもじゃないけど耐えられないから、忘れてる事いっぱいあるんだけど。とりあえず直近のからにしようか。あのね、この間突然、『嫁の貰い手がないお前のために結婚相手を見つけてきたよ!』とか言い出してね。この言い方からしてもう無神経じゃない? ってか、私がこの歳になって求婚者のひとりも居ないのは、返せない借金抱えた先代当主と、頼りない現当主のせいじゃないの? あんなのが当主になる一族の娘、誰が欲しがるって言うのよ!」
「確かに……と言っていいのか、ここは」
「しかもそこまでなら、アレン兄さんは相変わらず、ですんだのに、その見つけてきた結婚相手がどんな人だったと思う!? 五十歳よ! しかもこーんなにでっぷりして、油ぎった」
 ティアは顔をしかめながら両腕を広げ、ティア自身の腰周りの三倍はありそうな幅を表現した。
「金持ちだったのか?」
「うん、まあね。その辺はアレン兄さん、抜かりないから。だから、そこまでなら、アレン兄さん馬鹿じゃないの、ですんだんだけど」
「まだ、あるのか」
「あるわよ! そりゃ私だってね、私のためにもラシード家のためにも、相手は貧乏より金持ちのがいいと思ってるの。それで、まあ相手の年齢とか体格の件は、私が心を広く持てばどうにかなるかもしれないって思ったから、一度会ってみたのよ。そしたらそのおっさん、うちに来る時に、若い女の子連れて来たのよ。明らかに、金にものを言わせて作った愛人。しかも三人。それを婚約者になるかもしれない女の前に連れて来ってどう言う事? あ、違うの待って。私が怒っているのはここじゃないの。即効断ったから、この件はもういいの。問題は次。断った私に、アレン兄さんは言ったのよ。『お前が幸せになれると思ったのに……』って。それがどう見ても本気の顔なのよ。本当に、どう言う神経しているのかしら、あの人!」
 ろくに息つぎもせずに長々と語ったティアは、しばらく肩で息をしてから、温くなった紅茶を一気に飲み干した。ひと息つくと、眉間に指を置き、深く刻まれた皺を伸ばそうともみほぐしはじめる。
「あとで兄上と話をする予定だが、ついでに一発殴っておこうか?」
「それはいいわ。自分でやったから。一発と言わずに」
 ティアがそう言うのだから、本当に思うぞんぶん殴ったのだろう。新たに紅茶を注ぎながら明るく笑うティアに、リュクセルは微笑みながら「そうか」と返す。他に言葉が見つからない事をごまかそうと口に含んだ紅茶は、少し苦みが強かった。
「あーでも、しゃべったらスッキリした。ありがとね、イルン兄さん。帰ってきた早々疲れさせてごめんね」
「いや、気にするな。兄として、多少は妹のために役立たないとな。とは言え、今の話はセイシェルでも聞いてくれたのではないかと思うが」
 ティアは力強く手を振った。
「アインは駄目でしょ。『男の価値は愛人の数で決まるんだから仕方ないだろ』とか言って、私を余計に怒らせるのが関の山」
 言われてみれば確かにそうかもしれないと、リュクセルは無言で頷く。
「それに、今はもう話相手にしにくいしね。ここを出てっちゃったから」
「出てった? セイシェルが?」
「あいつはラシード家を出て何をしているんだ」とリュクセルが訊ねる前に、がちゃん、と食器がこすれ合う音が部屋の中に大きく響き、その後の沈黙を呼び込んだ。
 注いだ紅茶を飲もうとして手を滑らせたティアは、わざとらしいほど大げさに、リュクセルから視線を反らす。体もできるだけ横に向け、リュクセルの視線から逃れようとしているようだった。その上でぶつぶつと、リュクセルに聞こえないくらいの小さな声で、何か言い続けている。
 明らかに、怪しい。
「どうかしたのか?」
 ティアの態度が気になったリュクセルが質問を重ねると、ティアは目線だけをリュクセルに戻す。
「アインが出てった事、本当に知らないの?」
「よっぽどの事がない限り、ラシードとは連絡を取らないからな」
 覗き込むように数秒リュクセルを見つめたティアは、両手で顔を覆い、再びリュクセルの眼差しから逃れた。
「けっこう、よっぽどの事、よ。って言うか私、アインにしつこいくらい言ったのよ。イルン兄さんとちゃんと話し合いなさいって。でもイルン兄さんが知らないって事は……あの子、勝手にやったのね。おかしいとは思った。思ったけど……」
「すまないが、話が見えない。はじめから説明してくれないか」
 びくりと、ティアの体が一度だけ大きく揺れた。大きくため息を吐きながら、顔から手を剥ぎ取る。やがて意を決したのか、体ごとリュクセルに向き直り。大きく息を吸った。
「結婚したの。お婿に行って、ラシード家の人間じゃなくなったの」
 リュクセルは驚きのあまり声を失った。
 弟セイシェルの事を、リュクセルはあまりよく知らない。セイシェルはティアより更にふたつ年下だから、このラシード邸で共に暮らした時間があまりにも短いのだ。下手をすると、セイシェルの方には、リュクセルと共に暮らした時期の記憶がないかもしれない。
 だからリュクセルは、大きくなってから何度か顔を会わせた時の印象や、人伝に聞いた話でしか、セイシェルを知らない。とりあえず軽薄で女癖が悪いのは間違いないようなので、二十歳そこそこで身を固めたと言う事実の不似合いさに、驚いてしまったのだ。
 何より驚いたのは、弟の結婚を、自分が知らない事だった。ほとんど家に帰ってこないとは言え、縁を切っているわけではない。さすがに手紙のひとつくらいはよこすべきではなかろうか。
「いつだ」
「正式に結婚したのは、三日前、かな」
「ずいぶん最近だな。相手は?」
「セ……セルナ・アイン・フォスター」
「セルナと?」
 驚きが重なって、声音が鋭くなったせいか、ティアは両手を合わせてリュクセルに頭を下げた。
「ごめん。イルン兄さん」
「いや、お前が謝る事では……」
「ううん。ちょっと考えれば、イルン兄さんと話し合うなんて、アインに都合の悪い事だって判るのに。あの子が、自分に都合の悪い事をするわけないのに。私がちゃんと、兄さんに確認をとっとくべきだった。おかしいとは思ったの。私はずっと、フォスター家に入るのはイルン兄さんだって思ってたし、イルン兄さんもそれを望んでるって思ってたから、けっこうあっさりアインに譲っちゃうんだなぁ、って驚きはしたの。でも、イルン兄さんには綺麗な婚約者が居るから、じゃあそれほど変でもないのかなって……」
「いや、待て、ティア」
 妹の口から飛び出した、聞き捨てならない単語を耳に止め、リュクセルは身を乗り出した。
「誰に、どんな婚約者が居るって?」


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