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二章 episode2



 主を選ぶ権利を持たないとは言え、主を金銭によって定められたリュクセルやセインは、まだましなのかもしれない。裏庭を抜け、華やかな表の庭を横切りながら、リュクセルはふと考える。
 何の見返りもなく自由を奪われた人物が、リュクセルのごく近くにひとり居る。いつも自分のそばにあり、自分に尽くしてくれる、ひとりの女性だ。
 彼女は女として生まれた瞬間、親からアルシラと言う名を授かるよりも早くイルンと言うふたつ目の名を定められ、同じ名を持つラシード家の男が生涯の主となった。フォスターの女はラシードの男に、ラシードの女はフォスターの男に――それが、古くからラシード家とフォスター家に伝わる決まりごとだからだ。
 ひどい話だとリュクセルは思う。だが、古い盟約は、リュクセルひとりの力で変えられるものではなかった。リュクセルがラシード家の当主となればあるいは可能だったかもしれないが、残念な事に、「イルン」はラシード家の第二子が受け継ぐ名である。ラシードの頂点に立つためには、何らかの形で兄やその子供たちを排除しなければ不可能な話で、そこまでの野心をリュクセルは抱けないでいた。
 ならばせめて、晩年のアルシラが自身の運命を呪わなくてすむように、よい主になろう。そう誓ったのは、何年前の事だろう。
 誓いを一度も破らなかったとはけして言えない。苦しめ、泣かせてしまった事もある。けれど、普段の彼女が見せる笑顔や傾けてくれる愛情は本物で、誓いをいくらかはまっとうしている証だと、リュクセルは信じていた。
 信じるしか、なかった。
「お帰りなさいませ。お疲れ様でした」
 邸内に戻ったリュクセルを真っ先に迎えてくれたのは、やはりアルシラだった。
 アルシラはリュクセルが立てかけた二本の槍にちらりと視線を向け、「後ほど手入れをしておきますね」と言うと、椅子に腰かけたリュクセルにそそくさと歩み寄る。いつもならば、ここでリュクセルに冷たい飲み物のひとつも差し出しながら、「セインはどうでした?」と聞いてくるところだが、今日は少し違った。冷たい飲み物とほぼ同時に、一通の手紙が差し出されたのだ。
「先ほど、リュクセル様宛に届きました」
「誰からだ?」
 受け取ったリュクセルは、差出人の名を捜す。
「その……イルギス様からです」
 アルシラが言いにくそうに答えたのは、リュクセルが手紙に同じ名を見つけた瞬間だった。
 イルギス・アレン・ラシード――それはリュクセルの実の兄の名だが、久々に聞く名前であり、できる事ならあまり聞きたくない名前でもある。現在ではラシード家の当主となっているイルギスは、先代当主である父にひじょうによく似ており、よく言えばおおらかだが正直に言えばいいかげんな人物で、兄弟でもなければ絶対に関わらなかったと断言できるほど、リュクセルにとって折り合いの悪い人物だった。生まれ育った故郷を離れガーフェルート一族のそばに仕えろと命じられた、当時まだ十二歳だったリュクセルが、内心大喜びしていたのは、父と兄のせいと言っていい――おおらかなイルギスはおそらく、そんなリュクセルの本心に、未だに気付いていないだろうが。
 リュクセルはこの十七年間、ほとんどラシード家に戻っていなかった。母の葬儀と父の葬儀、それから兄の結婚祝いの、計三回だけだ。つまり最後に戻ったのは六年前であり、兄と連絡を取ったのも、六年ぶりと言う事になる。
 ため息を吐きながら、リュクセルは手紙を受け取ると、いやいやながら開いた。本人の性格をよく現した雑な字だが、その割に美しく、兄にもっと別の才能を与えてくれなかった神を、少しだけ恨みたくなった。
 帰って来い。
 中に書いてあったのは、その一文のみ。いっそう重い息を吐いて、リュクセルはうなだれた。
「お疲れのようですね」
「先ほどまでは大した事なかったのだが、たった今気疲れした」
 リュクセルは机の上に手紙を投げ捨てる。
 中身が気になったのか、アルシラはちらりと手紙に目を向けた。一瞬で短い文に目を通したようで、次にリュクセルに向ける眼差しには、同情が混じっているようだった。
「兄上が浅知恵で何か企んでいる事が丸判りで、気味が悪い」
「この一文で、そこまで判るのですか?」
「ラシード家の存亡に関わる事や、家族に何かあったなど、正当な理由で私を呼び寄せるなら、用件を書くだろう。いくら実家を避けている私とて、どうしようもない理由があれば帰るからな。それをあえて書かないと言う事は、私にとって大した用件ではないか、帰りたくなくなるほど迷惑な用件か、そのどちらかに決まっている」
 アルシラは手紙を拾い上げ、もう一度じっくりと目を通すと、苛立ちをあらわにするリュクセルの前に手紙を戻した。
「とは言え、ご当主様からの文書を無視するわけにもいきませんし、ご兄弟の再会自体もけして悪い事ではありません。一度お帰りになられてはどうです? たまの休暇くらい、エイナス様もエルロー様もお許しくださると思います」
 休暇の方が確実に疲れるなと思いつつ、リュクセルは無言で手紙を手に取った。
「お前宛の手紙は来ていないのか? フォスター家の誰かから」
「五日ほど前でしたら、来ておりますが」
「そこには今回の兄上の用事を推測できるような内容が書かれていなかったか?」
「特には……」
 アルシラは軽く首を振ってから続けた。
「イルギス様付きの姉上からでしたらともかく、セイシェル様付きの妹からの、ごくごく私的な手紙です。イルギス様のお考えに触れるような事が書いてあるはずもありません」
「そうか」
 予想だにできないとなると、気味の悪さは更に増した。またくだらない事を突拍子もなくするに違いないと、嫌な予感だけが胸を占めた。
 とうとう頭痛まで起こりはじめ、重くなった頭を抱える。
「出立はいつになさいますか?」
「どうせなら早く済ませたい。明日の朝一番に発つ。明後日には戻る」
「せっかくのご帰郷ですのに、ごゆっくりなさらないのですね」
「故郷は嫌いではないが、あの家でゆっくりする気が起きないのでな」
 アルシラは「そうでしたね」と小さく笑ってから頷いた。
「判りました。明日の朝一番に発てるよう、用意をいたしますね」
「すまない。頼んだ」
 視界の端で、アルシラが一礼をした。リュクセルのそばを離れ、部屋を出て行こうとしているのだと察したリュクセルは、顔を上げ、アルシラを呼び止める。
「お前は帰らないのか?」
 アルシラは目を丸くした。
「ええ。私は、帰って来いと言われておりませんから。突然帰ったら驚かれ……るくらいならばまだいいですが、迷惑がられるかもしれません。こちらで、微力ながらリュクセル様の代理としてエルロー様にお仕えしながら、リュクセル様をお待ちいたします」
 アルシラに対し、僅かに「羨ましい」と言う感情が湧き出たが、すぐに濃い不安が胸中を占拠した。ガーフェルート邸にひとり残るアルシラが、実家に戻る自分自身よりも、心配でならなかった。
「一緒に来るか?」
「私が、ラシード家にですか?」
 リュクセルは頷いた。
「リュクセル様のご命令でしたらそういたしますが、六年前、イルギス様のご成婚祝いにお供し戻ってきた際に、使用人たちに泣きつかれたではありませんか。ふたり一緒にエルロー様の元を離れるのはできるだけ避けてほしいと。ですから特別な理由でもない限り、私は残ったほうがよろしいかと」
「私が残って、お前が私に代わって用件を聞いてくると言うのはどうだろう」
「お言葉ですが――それは、いかがかと思います」
 アルシラは言い辛そうにしながらも、遠回しな口調で率直にリュクセルの案を却下する。
 言いながら無理な事を言っていると自覚していたリュクセルは、軽く笑いながら「そうだな」と流した。
 リュクセルが心配しているのは、アルシラとエルローの不仲だった。エルローの方は、二年半前の晩にセインを逃がした人物がアルシラだろうと気付いていて、自分とフィアナランツァを引き裂いたアルシラを深く恨んでいる。アルシラの方は、大切な友人であるセインを最低最悪の暴力によって傷付けたエルローに、強烈な怒りを抱いている。
 ふたりとも充分大人と言える年齢であり、立場を弁え公の場ではおとなしくしているのだが、ここガーフェルート邸内は、来客でもない限り、公の場として考えていないようで、間にリュクセルが立っている時ですら、険悪な雰囲気をかもしだしている。そのふたりがふたりきりになって、素直にいがみあう事になったらどうなるのか、気にするなと言う方に無理があった。
 たとえその関係が、アルシラが意図して築いたものだとしても。
「大丈夫、なのか?」
「はい。お任せください」
 胸を張って立つアルシラが、自信に満ちた声で答える。
「そうか。では、頼んだ」
 他に返す言葉を見つけられなかったリュクセルは、さっさと用件を済ませて一刻も早くここに戻ろうと、そればかりを考えていた。


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