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二章 episode2



 鋭い一撃が正面から迫る。リュクセルは咄嗟に槍を振り上げ、鼻先まで迫っていた刃を受け止めた。
 あと一瞬遅ければ流血ものだっただろう。下手をすれば、鼻がつぶれていたかもしれない。遠慮がないにもほどがあるだろうと、半ば呆れたリュクセルだが、油断していた自身にも多少の非がある事を素直に認め、正面に立つ少年に向き直った。
「本気のようだな」
「いつでもな。言っただろ。実力でお前をぶちのめすってな」
「確かに」と小さく呟いたリュクセルは、セインが再び繰り出した槍を受け止める。それは想像以上に重い一撃で、不利な体勢では力押しされるかもしれないと危惧し、素早く受け流した。そのまま後方に移動し、セインと距離を置く。
 十日に一度の訓練を再開してから、まだ半年も過ぎていないが、セインはずいぶんと強くなっていた。それはリュクセルが教える技術的な部分ももちろんあったが、半年前と比べて目に見えて成長した、身体的な部分によるものが大きそうだ。
 単純な力比べではもう勝てないかもしれないと、冷静に見極めたリュクセルは、ならば技をもって凌駕するしかないと考えた。その差は、多少の腕力の差で覆せるものではない。大人げない対応だと思わない事もないが、本気で殺しにかからんばかりの勢いで刃を向けてくる相手に対して本気で相手をしないのも、また大人げないと言えるだろう。
 リュクセルはセインが構えた槍をはじく。僅かに体勢を崩した隙を突き、自らの間合いに持ち込むと、素早い動きで槍の刃先を少年の喉に突きつけた。
 セインは体を反らして刃から距離を置いたが、それだけだった。戦い続ける事も逃げる事も諦め、盛大なため息を吐いてから、槍を地面に転がし、両手を上げて降参を示す。
「お前、何でも使いこなせるのかよ。剣や槍以外でも?」
 突きつけた槍を下ろしてからリュクセルは答えた。
「ひと通りはな。当然、得手不得手はあるが」
「何が苦手なんだよ。今度はそれで挑戦する」
「私を倒す事は最終目的で、私から習う事が優先ではないのか?」
 うるせぇな、と忌々しげに呟いたセインは、ようやく体の緊張をほぐし、自身が投げ捨てた槍を拾い上げる。
 その槍で仕掛けてこないかを警戒しながら、リュクセルは僅かに乱れた呼吸を整え、空を見上げた。薄い雲が空全体を覆っていて判りにくかったが、訓練をはじめた時と比べて、間違いなく太陽の位置は動いていた。
「今日はここまでだな」
「あ……ああ」
 リュクセルが手を伸ばすと、セインはそれまで使っていた槍をリュクセルに渡した。訓練のたびにリュクセルが何かしらの武器をセインに貸し与え、訓練が終わるたびに返却してもらっているのだ。
 ここで会う日以外にも個人的に訓練をしているだろうし、本当ならセイン用の武器を作ってやりたいところなのだが、奴隷である彼が武器を所有している事を誰かが問題視すると面倒なので、この形をとっている。セインも察しているのか、特に不満は言ってこない。
「では、また十日後」
 リュクセルが先に立ち去るそぶりを見せると、セインは「またな」と短く言う。リュクセルは頷いて応じ、セインに背中を向けて歩きはじめた。
「リュクセル」
 数歩進んだところで呼び止められ、少し驚いたリュクセルは、足を止めて振り返る。すでに訓練を切り上げて当然の時間帯になっているし、今となっては相談ごとや世間話を交わす間柄ではない。呼び止められる理由が、リュクセルには見つけられなかった。
「お前、別に暇人ってわけじゃないんだろ。今も昔も」
「そうだな」
「それなのになんで、伯爵がきまぐれで買った奴隷なんかのために、時間を使うんだ」
 リュクセルは短い沈黙で戸惑いを示してから答えた。
「まさか私に気を使ってるのか?」
「気色悪い冗談言うなよ。ただの興味本位だ。俺個人の感情では、お前が俺のために何をしてくれても当然だと思ってる。だけど感情を取っ払えば、やっぱり変だろ。貧乏で地位が低いほうとは言え一応は貴族の男が、奴隷のために、なんて」
 リュクセルはセインが抱く疑問の意味をようやく理解した。
 セインの心は今もリュクセルを恨んでいる。けれど同時に頭で理解しているのだろう。自分は奴隷で、奴隷とは単なる財産のひとつであり、持ち主が自由に扱うべきものなのだと。だからエルロー・ガーフェルートがセインを求めた以上、エルローの部下であるリュクセルがセインの心情を無視して行動するのは当然で――本来、恨む権利など自分にはないのだと。
 それが真理なのかもしれないし、真理であれば楽なのかもしれない。けれどリュクセルは、静かに首を振った。
「人によって考え方が違うだろうが、私は、奴隷がただの人と大きく違うとは思っていない。お前が金で買われたのは、主を選ぶ権利、それだけだ」
「本気でそう思ってるのか?」
「言い訳がましくなるが、私はお前に恨まれる事も、誠意を持って謝罪する事も、当然すべき事だと思っている。奴隷とは尊厳も魂も命も金で買われた存在だと思っている人間は、そうは思わないだろう」
「口では何とでも言えるよな」
「嘘は言っていない。ただ私の心が、主とお前を秤にかけた時、一方に傾いただけだ」
 少なくともあの時はな、と付け足そうとして、リュクセルは声を飲み込む。
 セインはひきつった笑顔を顔面に貼り付けた。
「そうか。お前は立派なご主人様を選べて幸せだな」
 笑顔はそのままに、痛烈な嫌味を吐き捨てる。つまらない疑問を解決するためにリュクセルを引き止めてしまった事への後悔を、震える拳に色濃く現しながら。
 リュクセルはセインの言葉に戸惑ってから、静かに首を振った。
「いいや、違うな。口にする事で、ようやく気付いた。私もお前と同じ、奴隷なのだろう」
 一瞬にして、セインの顔から笑顔が消えた。
「どう言う意味だよ」
「そのままの意味だ。主を選ぶ権利を、金で買われた――ようなものだ」
「は?」
 セインは短い言葉と強い眼差しで、なおもリュクセルを問いただす。
 答える義務はおそらくなかったし、わざわざ聞いてほしい話でもない。だが興味を引いてしまった責任はあるかと、リュクセルは話す事に決めた。静かに深く息を吐き出してから。
「アーシェリナ様が産まれるよりも前の話だ。私の愚かな父は賭け事にはまって、多額の借金を抱えた。軽くラシード家の全財産の二倍はあり、旧知の仲であるフォスター家の力を借りてもどうしようもない状況に追い込まれ、父……一族の者は途方に暮れていた。そこに現れ、助けてくださったのがガーフェルート伯だ」
「ガーフェルート伯って、エイナス様?」
「ああ」
「あの人、やっぱり優しい人なのか?」
 単純だが、難しい問いだった。
 エイナスは基本的には情のない、冷たい人だとリュクセルは思う。ガーフェルートにとって害悪だと思えば実の母すら平気で斬り捨てられるし、エルローやアーシェリナへの態度も、肉親としてけして褒められたものではない。ラシード家を救ってくれたのも、ガーフェルート家に益があると判断したからにすぎないだろう。
 だが、優しさをまったく持ち合わせていないかと言えば、それは違う気がした。エイナス・ガーフェルートが情を向けた人物を、リュクセルはひとりだけ知っている。セインの父である、アヴァディーン・ローゼンタールだ。そしてセインはもしかすると、亡きローゼンタール候に代わって情を受けたからこそ、ここにいるのかもしれなかった。
「ラシード家を救ってくださった理由は、優しさだけではないだろう。だがどんな理由であれ、援助してくださった伯爵に感謝する心に変わりはない。たとえ、今のラシード家が、資源や人材をガーフェルートに流すために残っているようなもので、私自身が流されたもののひとつでしかないとしても、な」
「そりゃ確かに、選ぶ権利はどこにもないな」
「ああ」
「つまりお前は、好き好んでガーフェルートに仕えているわけじゃないって言いたいのか?」
 まったく。いちいち悩ませる問いを投げかけるやつだ。
 リュクセルは半ば呆れ、半ば感心しながら、首を振った。
「こちらから選ぶ権利がなくとも、運が良ければ、いい主人に巡り会える。お前が、アーシェリナ様の元にいるように」
 リュクセルは「私も同じだ」とは続けなかったが、それは「言わなくても通じるだろう」と思っての事ではなかった。喉の奥で何かが詰まって、言葉にできなかったのだ。
 セインが新たな問いを紡ぐ前に、リュクセルは歩き出した。その場に曖昧な微笑みを残して、逃げるように。


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