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二章 episode1



 昼食の片付けを終えてしまえば、夕刻が近付くまでの間、セインにとって空き時間になる。普段ならばこの時間に、体を休めたり、アーシェリナに借りた本で勉強をしたり、自分の身の回りの事をしたりするのだが、今日はそれらよりも優先すべき事に思い至ったセインは、別館を出た。
 人気のまったくない裏庭をいくらか突き進むと、生い茂る草木が目の前に迫る。窓から外を覗いたアーシェリナが、森みたいだと言った場所。そこは数年前までのセインにとって、秘密の、大切な場所だった。十日に一度だけの――だからこそ、今日ここに来なければならなかった。今日を逃せば、次の機会は十日後になってしまうから。
 もしかすると、たとえ今日であっても、ここを訪れる意味はないのかもしれない。僅かに不安を抱きながら、セインは草をかきわけて進む。やがてひときわ大きな木のそばに、背の高い男の影を見つけ、嘆息した。
「やっぱり居やがった」
 忌々しいとばかりに、吐き捨てる。彼は――リュクセルはきっとここに来ているだろう、と思ったからこそ来たと言うのに、本当に待っている姿を見ると、実に不愉快だった。もっと強く大切な願望のために押し込めようとしていた、「会いたくない」との感情が、胸の中で疼きはじめたからだろう。
 未だ来訪者に気付いていないのか、どこか遠くを見つめてるリュクセルを、セインは睨みつけた。
 セインがガーフェルート家にやってきた時、「十日に一度ここで会おう」と言いだしたのは、リュクセルの方だ。「何か困った事があったら、そうでなくとも誰かに伝えたい事があったら、何でも話せ。できる限り力になる」と彼は言ってくれた。言われた通り、セインは多くを彼に語った。一度だけ、強くなりたいから戦い方を教えてほしいとわがままを言ってみると、彼は快く引き受けてくれた。忙しいリュクセルにとってはきっと煩わしい時間だったのだろうが、セインにとっては大切な時間だった。
 リュクセルがセインのために交わしてくれた約束を、反故にしたのはセインの方だ。セインはもう二年もここに来ていない。いいかげん諦めて、待つのをやめればいいだろうに、それでもリュクセルは、ここで来もしないセインを待ち、無為な時間を過ごし続けていたようだ。
 それに対して、セインは特に罪悪感を持っていない。セインがここに来なくなったのは、リュクセルの裏切りのせいなのだから。むしろ、今日顔を会わせる事でこの男が楽になってしまうかもしれないと思うと、悔しいくらいだった。
 感情を叩きつけるように、セインは足元の草を踏みつける。
 風によるものとは明らかに違う音は、リュクセルの元にも届いたようで、彼はゆっくりと振り返った。驚いたのか、一瞬だけ目を見開いた後、細めた目でセインのつま先から頭のてっぺんまで視線を移動させる。
「ずいぶん背が伸びたな。それに、逞しくなった」
 ようやく口を開いたリュクセルは、昨日のアルシラとほぼ同様の感想を述べた。
「まあな。俺は若いから、日々成長するんだ。成長しないのは、お前みたいなおっさんだけだろ」
「……そうだな」
 リュクセルは小さな笑みを浮かべながら言った。それが子供扱いされているような気がして、セインの心はいっそうささくれ立った。
「どうして来た」
「そんな質問、待ち続けたお前が言うな。待たせた俺が悪いみたいに聞こえるだろう」
「それは違う」
「判ってるよ。俺はな。ただ、お前が可哀想に見えるのがむかつくって言ってるんだ」
 なげやりに返したセインは、ゆっくりとリュクセルに近付くと、唐突に動きを素早くし、リュクセルに蹴りを入れる。ふいを突いたつもりだが、リュクセルは涼しい顔でしっかりと反応したので、軽く受け流されてしまった。
「力は強くなったようだが、それだけだな。鈍ったか」
 セインは行き場のなくなった足を地面に下ろし、しっかりと大地を踏みしめる。
「当然だろ。この二年間、何もしてないんだから」
「私と会わない日も鍛錬を怠るなと言っておいたはずだが」
「お前の言葉に従いたくない気分だったんだ。昨日までは――本当は、今もだけど」
 セインは大きく息を吸う。叫びだしたい気分だった。しかし口から飛び出した声は、いやに落ち着いていた。
「強くなりたい」
 短い言葉の中に、想いを込める。
 アーシェリナを守りたい。それは贖罪であり、セイン個人の願望でもある。だからセインは一刻も早く強くならねばならず、強くなるための近道は、リュクセルのそば以外考えられなかった。
「強くならなければいけないんだ。だから、また俺に戦い方を教えろ」
 胸を張って堂々と、自分の方が背が低いのに見下すような視線で、セインは言った。
 リュクセルはしばらく唖然としていたが、やがて低い笑い声をもらす。しまいには腹を抱えるほど笑いはじめたので、今度はセインが唖然とするはめになった。リュクセルがこんな風に笑える人間だと、セインはこの時はじめて知ったのだ。
「とても、人にものを頼む態度には、見えないな」
 こみ上げてくる笑いで言葉を何度か切りながら、リュクセルは言う。
「お前相手ならこれで充分だろう。頼んでやるだけありがたく思えよ」
「ああ――そうだな」
 強気でセインが返すと、ひとしきり笑ったリュクセルは、急に真顔になった。眼帯に隠されていない片側の目で、セインを真っ直ぐに見下ろす。
「なぜ、強くなりたい」
 その問いに対する明確な答えは、セインの中にある。
 だがセインは、リュクセルに本当の事を言う気にはなれなかった。セインはまだ、本当の意味でリュクセルを許していない。自分の目的のために、許したふりをしているだけだ。そんな相手に、本音を伝えたくなかったし、伝える義理もないと判断した。
「実力でお前をぶちのめすためだよ」
 だからそう言った。するとリュクセルは薄く微笑んだ。まったくの嘘ではないが本音でもない事を見透かすような眼差しに、セインはどきりとした。
「いい答えだな」
 リュクセルは大きな手でセインの肩を叩くと、腰に吊るしていた剣のうち一本を、鞘ごとセインに投げてよこす。
 すぐさまセインは剣を抜いた。ほぼ同時に、リュクセルも剣を抜いていた。
 セインは二年前までの記憶を頼りに剣を構えると、ためらう事なく、リュクセルに立ち向かった。


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