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二章 episode1



 アルシラと過ごした時間は、思っていたよりも長かったようだ。セインが外に出た時と比べて太陽の位置はずいぶん移動しており、別館にはほとんど光が届かなくなっていた。
 扉を開けると、入り口から真っ直ぐにのびる通路が、すでに暗くなっているのが判った。ならばきっと、比較的日当たりがいいアーシェリナの部屋でも、かなりの暗さになっているだろう。
 灯りをつけなければと、セインは己の仕事のひとつを思い出した。だが体は正直なもので、まるで重い足枷がかかっているかのように動こうとせず、なかなか一歩目を踏み出せなかった。
 とりあえず扉を閉めてみた。戻った事をアーシェリナに悟られないよう、可能な限り静かに。そうしてセインは、暗闇の中にひとり立ちつくした。
 今更、どうしていいか判らない。何と言って謝ればいいのか。
 謝ったとして、信じてもらえるのだろうか。セインが凶行に及び、アーシェリナの心身を傷付けたのは、今日の朝の事だ。しかも昼間に顔を会わせた時には、ひどく冷たい対応をしてしまった。そんな人間が夕刻前に突然謝罪して、口先だけの事と思わないだろうか? 人の心がそんなにも簡単に動くわけがないと――セインとて、自身の心の変化に驚いているのだ。厳密には変化ではなく、真実に気付いただけだと判っていて、それでも。
 信用できないと拒絶されても、黙って受け止めよう。奇妙なほど落ち着いた思考は、そう判断した。さっきまで自分がアーシェリナにしていた事を、そのまま返されるだけ。セインがアーシェリナに刻み付けた傷への罰と考えれば、受けて当然、むしろ軽すぎるほどの罰ではないか。詰られ、切り刻まれ、命を抉られたとしても、仕方がないだけの事をしたのだから。
 覚悟を決め、ゆっくりと歩き出す。ほとんど立たない足音に、近い未来に無意識に怯える自身を見つけ、セインはひとり失笑した。
 アーシェリナの部屋まであと数歩と言うところまで近付くと、部屋の中で何かが動く気配がした。間を空けず、たどたどしい足音が聞こえてくる。
 元より他の人物とは考えにくかったが、特徴的な足音は、間違いなくアーシェリナのものだった。長い軟禁生活で衰えたアーシェリナの足は、普通の少女に比べてかなり弱っていて、歩き方が少し独特なのだ。
 扉が開く。通路が少しだけ明るくなった。アーシェリナが飛び出してきた。まるで、セインの帰りを待ちわびていたかのように――もしかすると本当に、待ちわびていてくれたのだろうか?
 泣き腫らした目がセインを捉えると、不安に彩られ半ば硬直した表情が、ゆっくりとほころんでいく。一瞬、昨日までのように柔らかく微笑みそうになった。しかしアーシェリナは、はっと気付いて小さく息をのみ、慌てて無表情を作った。
 明らかに無理をしている。酷い事だ。その酷い事を強いたのは、自分だ。些細な事から罪の重さを思い知ったセインは、どんどんと胸の痛みを増していく。
『そうだ、セイン。最後に言っておくわ。貴方、大きな勘違いをしてるわよ』
 去り際に、振り返ったアルシラが残した言葉を思い出すと、重みは更に増幅した。
『アーシェリナ様が落ちぶれた自分を見下していたって貴方は言っていたけど、そんなはずないわよ。だって、貴方がローゼンタール家の人間だったなんて、アーシェリナ様が知るわけないもの。アーシェリナ様は貴方と出会うまで孤独で、貴方にしか心を開いていない。貴方以外と会話する事なんてない。貴方が教えでもしない限り、知る方法なんてないんだから』
 羞恥と自身への苛立ちで、頬が赤みを増す。
 後悔ばかりが胸を占めた。勝手な思い込みで歪んだアーシェリナ像を作り出し、それに対して深めた憎悪を、現実のアーシェリナに叩き付けたなどと、ただの大馬鹿ではないか。
 それでセインが苦しむのは、自業自得だ。当然の事だ。だからいい。けれどアーシェリナだけは、心安らかであってほしかった。アーシェリナには何の罪もない。仮に何かあったとしても、その罰はすべて自分に与えてほしいと、セインは願った。
「ごめんなさい、アーシェリナ様。もう、いいんです」
 勇気を出してひねり出した声は掠れて小さかったが、アーシェリナの耳に届いたようだった。アーシェリナは明らかに反応し、大きな目を更に大きく見開いて、セインを凝視する。
 やっぱり、信じられないか。
 鋭い刃で心を貫かれたような感覚。苦しかったが、それでもいいと思った。それでも、以前のアーシェリナに戻ってくれるなら。腕の傷がいつか癒えるように、心の傷も癒して、以前のように笑ってくれるなら。
「俺が間違ってました。俺が、悪かったんです。俺なんかのために、俺のせいなんかで、傷付かないでください。泣かないでください。いつものように、笑ってください」
 照れくささをかなぐり捨てて言ってみたが、アーシェリナの表情は変わらない。
 セインは静かに深呼吸し、もっと意味のある言葉を探した。
「笑って……ほしいんです」
 やはり、アーシェリナの表情は変わらない。けれどその奥にあるものに、変化が生まれた。
 長い沈黙の中で、変化は少しずつ表に現れる。紫の瞳が、潤みはじめた。引き締まった口の両端が、上がりはじめる。やがてそれは確かな微笑みとなった。昨日までと同じ――いや、昨日までよりももっと、過去になかったほど、喜びが溢れて、美しい。
 貴方はまだ、こんな俺を信じてくれるのか。
 喜びに胸が熱くなった。再び涙しそうになる自分に気付き、セインは必死に堪えた。
 そして強く誓う。今度こそ、守ろうと。アーシェリナを傷付けるすべてのものから、彼女の身を、心を、優しい笑顔を。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.