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二章 episode1



 おそるおそるセインが顔を上げると、アルシラは穏やかに微笑んでいた。母親が子をあやすような優しい手つきで、セインの背を撫でながら。
「この裏庭ではじめて出会った時も、ちょくちょく会うようになってからも、貴方はいつも、アーシェリナ様の話をしてたわよね。いつも嬉しそうに、幸福そうに微笑んでいて、貴方が何かをしてあげると、とびきり綺麗に微笑むんだって。私、貴方からアーシェリナ様の話を聞くの好きだったのよ。話している貴方も楽しそうで、嬉しかったから」
「昔の事を、今更なんだって……」
「でもね、はじめてアーシェリナ様の話を聞いた時は、喜ぶどころじゃなかったのよ。すっごく驚いたんだもの。だって、私が噂に聞く別館の主は、けして笑わなかった。あの暗い館で、誰からも愛されない毎日を生きる事が辛かったのか、表情の作り方を忘れてしまったんじゃないかって、よく言われてた」
 セインの表情が固まった。
 何を、言っているのだろう。アルシラは。
 そんな話、今はどうでもいいし、何よりセインは今、アーシェリナの話など聞きたくなかった。アルシラはそんなセインの想いを理解できないような鈍感な人間ではなかったはずなのに。
 黙ってくれと言おうとした。だが、アルシラが語る内容が心のどこかにひっかかり、飛び出してきたのは別の言葉だった。
「違う……」
 なぜそう言ってしまったのか、判らない。
 戸惑うセインに気付いているのかいないのか、アルシラは一度立ち上がり、セインの前に移動してから両膝をつく。真正面から見つめられる形になり、少し息苦しかった。
「本当よ」
「違う!」
「どうして否定するの?」
 セインは反論できず、自分の口元を抑え、アルシラから顔を反らす。再び体が強く震えだした。
「アーシェリナ様は貴方以外の人のそばでは笑わなくて、貴方のそばではずっと笑ってた。それは単なる事実よ。どうしてそれをむきになって否定するの?」
「違う……」
 セインはゆっくりと口から手を離し、てのひらを見つめる。
『否定しないで』
 どくんと、ひときわ大きく心臓が鳴る。胸が痛かった。ぎりぎりと、抗えない強い力に締め付けられるような感覚がした。
 嫌だ。気付きたくない。アーシェリナが紡いだあの言葉が、なぜ脳裏で繰り返されたのか。なぜあの言葉だけが、心に強く留まったのか。
「俺が、否定したかったものは」
 気付きたくない。
「もう気付いているんでしょう? 貴方は、否定するべきものを間違えてしまったんだって」
「違う」と言いたいけれど言えなくて、代わりにセインはアルシラの瞳を見つめた。
 労わりの中にある厳しさが、言葉を交わさずとも伝わってくる。すると、涙を浮かべたアーシェリナが、寂しげに恨めしげに見つめてくる錯覚が見えた。セインは頭をかきむしり、固く目を閉じた。
「だって……」
 みんな、知っていたんだろ? 俺が、ローゼンタール侯爵家の人間だったって。落ちぶれて、こんな立場になったんだって、エルロー・ガーフェルートも、リュクセルも、アルシラも、みんな――アーシェリナ様だって、知っていたんだろう?
 知っていて、毎日毎日平然と、笑いかけてきた。
 それがどんなに惨めで辛いか、判らないわけがないだろう? すべては無理でも、少しくらいは、想像できるだろう?
 だから、嫌だったんだ。
 消し去ってしまいたかった。
「貴方はしてはいけない事をしてしまった。アーシェリナ様の笑顔は、絶対に否定してはいけないもの。だって」
「やめろ。やめてくれ」
「ここに来た時の貴方には、もう何も残ってなかったんだもの」
「やめろ!」
 何も聞きたくなくて、セインは耳を塞ぐ。
 しかしアルシラはなおも話し続けようとするので、彼女の声を完全に掻き消そうと、セインは叫んだ。
「判らないだろ。俺の気持ちなんて……お前に、判ってたまるか!」
 六歳の時から、セインは誰よりもアーシェリナのそばに居た。だから、知っているつもりだった。何にも負けない、アーシェリナの美しさを。
 だが本当は、醜く歪んでいた。
 アーシェリナの美しさこそが、奴隷にまで身を落としたセインの心の拠り所だった。救いだった。それが醜いものだと判った時、どれほどの悲しみと怒りが生まれたか――他人に理解できるわけがない。
「判る事だってあるわよ。たとえば貴方が、アーシェリナ様が笑ってくれる事に、何よりも喜びを感じていたんでいた事とかね」
 アルシラの手は、怯える子供のように縮こまるセインの手に重なり、セインから力を奪う。強く耳を抑えていた手が、ゆっくりとはがれていった。
「だから恥ずかしいとか言いながら恋の歌を覚えて歌ったり、棘で傷付く事も気にせず花を摘んだり、仕事で疲れた体を更に酷使して戦い方を覚えたりしたんでしょう?」
「ちが……」
「そうやって貴方は、笑う事を忘れてしまったアーシェリナ様に、笑顔を取り戻した。それだけの事をできる力が、何もないはずの貴方の中にあったのよ」
「違う」
「いいえ」
 はっきり言い切られた短い言葉には、張りつめた威厳がこもっていた。
「それだけしか貴方にはなかったのよ」
 もう、否定の言葉を口にする事はできなかった。
 代わりに、氷色の瞳から、涙をこぼす。熱かった。閉ざした思考や心、すべてを溶かしていくほどに。
「それは、すべてを失った貴方の、唯一の誇り――生き抜いた、証」
 セインはアルシラの腕を振りほどくと、顔を覆った。アルシラにみっともない泣き顔を見られたくないとの気持ちが働いたからだった。すでにアルシラには心の奥まで読み取られ、それ以上みっともない部分はないだろうと思っても、それでも。
 ああ、そうだったのか。
 馬鹿だな、俺は。
 自分の存在自体を消してしまったんだ。もう俺には何ひとつ残ってない。ここで生きてきた九年間も、きっと、これからも――
 情けなくてしかたがなかった。アーシェリナを傷付けて、勝利を治めたつもりになって、けれど喜ぶ事もできなかった本心に、気付けなかった事が。自分にとって大切なものが何なのか、それすらも判らない愚かさが。
「ねぇ、セイン。アーシェリナ様も、きっと同じなんじゃないかしら」
 セインは乱暴に涙を拭い、アルシラの声に耳を傾けた。
「こんな狭い世界に押し込められて、貴方以外に心を許せる人もいないアーシェリナ様の、誇りや証になるものは何かしら?」
「それ、は……」
 涙でぼやけた頭の中が、一瞬にして冴えた。
 アルシラの言葉はいちいち、自分自身の中に浸透する。気付きたくない、けれど気付かなければならない事実が、嫌がおうにも導かれてきて、セインは泣く気力すら失った。
『否定しないで』
 激痛を恐れず、意識を失うまで、アーシェリナが何かを伝えようとした理由。それはきっと、セインが耳を塞ぎ、アルシラの言葉から逃げようとしたのと同じなのだろう。
「ごめんなさい。私は今、貴方を傷付けてるわね」
「いい。傷付いてなんかいない――本当に傷付けられたって構わない」
「セイン」
「傷付けられた方が、きっと楽だ」
 幼い子供を慰めるように、アルシラはセインの髪を撫でる。子供扱いするなと、普段のセインならば怒っていたかもしれないが、今はただ、その温もりに酔っていた。
「貴方は不器用ね、セイン。大切なものを守るために、自分も、大切なものも、否定してしまうなんて。誰かが貴方に器用な立ち回りを教えてあげられればいいのだけれど、私も人に何か言えるほど器用な人間じゃなくて」
 照れくさそうに笑うアルシラを、セインは黙って見つめた。雫を含んで重い睫が、少しだけ軽くなるまでの、短くて長い時間。
「判らないんだ、アルシラ。教えてくれ」
「何を?」
「アーシェリナ様は、誰よりも綺麗に微笑んでる。その下には、誰よりも綺麗な心があったはずなんだ。なのに、アーシェリナ様は笑う。俺を見下して……汚い心で」
「それは」
「違う、それよりも、何よりも醜い存在を――俺を好きだと言うアーシェリナ様の心は、醜いものなんじゃないか?」
 アルシラは両手でセインの顔を包む。そして身を乗り出し、ごく近い場所で、セインと目を合わせた。
「何よ、私に聞かなくても、貴方はもう判っているんじゃない。そうよ。貴方はアーシェリナ様が微笑むのが嫌だったんじゃない。汚い心で笑って欲しくなかっただけ。アーシェリナ様に好かれているのが嫌だったんじゃない。アーシェリナ様が醜いと思いたくなかっただけ。それに自力で気付けたなら、もう、あの扉の中に戻れるんじゃない?」
 アルシラが指し示す扉は、セインの心を映したのか、重く厚く見えた。はじめてここにやってきた幼子の頃でさえ、簡単に開けたはずなのに。
 涙はすでに乾いていた。しかしセインは、跡すらも消し去ろうと、もう一度目元をこすった。
「セイン、こう言ったら貴方は怒るかもしれないけれど」
「何だ?」
「私はね、貴方をとても純粋で、綺麗だと思うの」
 怒りはしなかったが、喜ぶ気にもなれず、複雑な思いがセインを支配した。なぜかおかしくなったので、口の端が吊り上がった。
「だから、貴方が自分を醜いと主張する事は凄く腹が立つ。でも責めたりしないわ。その気持ちも凄く判るもの。私も、自分の嫌な所ばかり見えてきて、自分が醜い人間だと思う事はしょっちゅうだから」
「そうなのか?」
 セインは目を見開いた。セインの目には、アルシラは迷いのない綺麗な人間に映っていた。そんな彼女でも、自分が醜いと思い悩む日があるのか――
「そうよ。だから、貴方が貴方自身を醜いと言うのなら、そう思っていてもいい。その代わり私がこれから言う事を信じて。醜いものを受け入れる事ができるのは、綺麗な人だけなんだって」
 それが慰めなのか本心なのか、セインには判らず、ただからかうように返すしかできなかった。
「じゃあ、俺が開き直って、俺が綺麗な人間だと思ったら?」
「綺麗なものにつりあうのは、やっぱり綺麗なものだと思うから、いいんじゃない?」
 アルシラは腰に手を当て、胸を張って言い切った。
 見事な屁理屈だ。おかしくて、セインは小さく吹き出した。
 つい先ほどまで自分を苦しめていた淀んだものを、忘れたわけではない。だが、心がずいぶんと軽くなったのは確かだった。
 これからずっと、何を悩んでいたのだろう、なんと愚かな真似をしてしまったのだろうと、自分を苛み続けるだろう。だが、そうできるだけで少しは進歩したと、セインは思う。それはすべて、アルシラのおかげだった。
 二年近く会わなかった事で、あの晩の事件のせいで、セインの中に眠っていたアルシラへの感情は今、増幅の一途を辿った。それに気付きながら、セインは気付かないふりをした。せめて、今は。
 感謝の言葉を返すより先に、セインは立ち上がる事に決めた。ありがとうと伝えるのは、すべてが終わってからにしようと。


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