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二章 episode1



 セインに会って、できる限りの謝罪をすべきなのだろうか。それとも、悪い記憶を思い出させないようにけして会わずにいる事が、精一杯の誠意なのだろうか。
 その難しい問題の答えを導き出すため、アルシラは二年間考え続け、何度も別館を訪れては、扉を叩く事すらできずに入り口の前で引き返す、をくり返していた。
 正解は未だに判らないままだ。だが、無為なくり返しは、今日突然終わりを告げた。いつものように扉の前で迷っていたアルシラの前に、セインが現れる事で。
 セインはずいぶん驚いていたようだが、アルシラは自分の方がよほど驚いている自信があった。セインの驚きはせいぜい、突然の再会によるものだろうが、アルシラはそれに、見せつけられた成長ぶりが加わるのだから。
 二年前までは、少し見下ろせるくらいだったのに、今は見上げるほど大きくなっている。痩せているが、それでも触れる肩幅は広いし、声もだいぶ低くなっていた。顔立ちの繊細な雰囲気は相変わらずだが、男らしいと言える骨格に変化しており、少女と見間違える事はもうできそうにない。
 だから思ってしまった。今ならば、と。今はじめて会ったならば、いくら狂気に飲まれた男でも、セインとフィアナランツァを間違える事などできないだろうと。セインの手首に巻きつけられた布を見つけて、なお強く思う。布の下には、まだあの晩の傷痕が残っているのだろうか?
 いきなり座り込んだセインに並んで座ったアルシラは、おそるおそる震えるセインの手に手を伸ばし、重ねる。セインはしばらく動かなかったが、急にアルシラの手を強く掴んだ。すると、震えはゆるやかにアルシラへ伝わり、治まっていった。
 妙な気分だった。アルシラの記憶の中に残るセインは、健やかな強さの持ち主だった。幼い頃から不遇な運命の渦中にありながら、彼はけしてアルシラの前で泣いたりしなかったのだ。
 そんなセインが、今、アルシラの前で泣いている。涙こそ見せていないが、だからこそ余計に、縋りついてくる手が切なかった。
 たった二年で、人はこうも変わる。あの晩のできごとが、誰にも語れずひとり傷を抱え続けた二年間が、セインにとってどれほど重かったのか、アルシラはいやと言うほど知る事になった。
 この少年を少しでも楽にしてやりたいと思うのは、自己満足だろうか。だがアルシラは、嘘偽りなく、大切だと思うのだ。この少年が。まるで息子のように――そう伝えたら、セインは怒るだろうか。せめて弟にしてくれなんて言いながら、笑ってくれるだろうか。
「こんなところより、落ち着いてゆっくり話せる場所にに移動したほうがいい? 貴方の部屋とか……」
 アルシラの手を包むセインの手に力がこもった。遠慮がない。いやもしかすると、遠慮する余裕がないのかもしれない。握りつぶされるのではないかと疑うほどに、強い力だった。
 ちょっとした提案のつもりで言ったのだが、どうやらセインには触れてほしくない事らしい。アルシラは「ごめんなさい」と小声で誤って、言葉を選び直した。
「さっき、勝ったって言ってたわね。どう言う意味? 一体、何に?」
 セインの手の震えが増す。それは語るだけでも辛いのだと、言葉にせずともアルシラに伝えてきた。
 だがセインは話してくれた。言葉を探るようにゆっくりと、語った。はじめは、アルシラが想像していた通りの内容だった。二年前の悪夢が今も続き、ろくに眠れず、安らぐ日が一日もなかったのだと。
 だが話は徐々に、アルシラが予想もしていなかった方向に話が進みはじめた。二年前の晩からアーシェリナに対して抱くようになった感情、そこから生まれる闇を日々蓄積し続けた事、今朝になってその闇が破裂し、アーシェリナにどんな言葉をぶつけ、どんな行いをしたか。アーシェリナが、制約の痛みと戦いながら、何を語ったか。
 驚かずにはいられなかった。以前のセインは、アーシェリナについて語る時、いつも明るい顔をしていたからだ。
 寂しい境遇のアーシェリナを少しでも楽しませたいと、セインはアルシラに「歌を教えてくれ」と言い出した。歌うと、アーシェリナはいつも以上に嬉しそうに、綺麗に微笑むのだと言っていた。セインが花を摘んで持っていった時も、狭い世界で見つけたものの話をした時も、笑ってくれたと――主の喜びが自分の喜びだとばかりに、主が大好きなのだと、全身で訴えていたではないか。
 アーシェリナもだ。以前のセインの話を聞くたびに、アルシラは感じていた。アーシェリナも、セインを大好きなのだろうと。セインの話に登場するアーシェリナは、絶え間なく微笑んでいたが、本館で働きながらいくらかアーシェリナの世話をしている女中たちの噂話に上がるアーシェリナはまったく逆で、常に表情が凍りついていた。その差こそが、アーシェリナの幸福や想いの証だと思っていた。
 だが、どうだ。今のセインの話からは、幸せも微笑みも伝わってこない。伝わってくるのは、ふたりの悲しみだけではないか。
 悔しさを必死に押し込めるため、アルシラは唇を噛んだ。
 エルローさえ、あんな事をしなければ。あるいはアルシラ自身が、エルローやリュクセルの愚行を、止める事ができていれば。
 そうであれば、セインが、心の中心にある想いを幾重にも覆い、本心を見失うような事には、ならなかっただろう。
 悔しさが抑えきれなくなり、アルシラは泣きたい気持ちになった。だが、自分の気持ちの整理は後回しにする事にした。今優先すべきは、セインの事だ。
 救いを求めるセインに対し、アルシラがしてやれる事はほとんどない。アルシラの位置からならばいくらか見えやすいのに、本人が見失ってしまう心を、剥き出しにしてやる事くらいだ。
 難しいかもしれない。だが成功すれば、セインや、その向こうにいるアーシェリナを、きっと救えるだろうとの確信が、アルシラにはあった。
「あの人はもう笑わなくなった。それで俺は、救われると思ったのに」
 セインはため息まじりにそう言ったきり、口を閉じた。アルシラの手を離した両手は、彼自身の顔を覆う。
 語るだけ語りきり、またひとりきりの戦いをはじめたのだろう。今のセイン自身には理解できない、不可思議な感情と――アルシラにとっては、不思議でも何でもない感情だけれど。
 アルシラは決意を固めると、慰めるようにセインの背を撫でた。
「少し、私の話も聞いてくれる?」


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