二章 episode1
3
閉じた扉に背中を預けたセインは、じっと自身の足元を見つめていた。特に足元に何かがあるからではなく、どこか一点を見ていない事には、ざわついた胸の中を抑えきれないと思ったからだったが、そうしたところで、心は少しも落ち着きを取り戻さなかった。
朝からずっと、何をしていても、セインの中にアーシェリナの声が響く。苦痛をこらえて震える声が紡いだ、『否定しないで』のひと言が――それは、長い間纏わりついていたエルローの声を思い出す余地がないほどに、延々と繰り返された。
アーシェリナの声が聞こえるたびにセインは、どうしてもアーシェリナを思い出し、アーシェリナの事を考えてしまう。憎悪の対象である人物に思考を支配されては、落ち着けるはずもない。
それに、判らない。もっと印象的な言葉が他にあったはずなのに、どうしてその言葉だけが、こんなにも自分の中に残るのか。疑問を抱えたままでは気持ち悪かった。けれど疑問を解決するには、アーシェリナの事を考えねばならず、どちらを選んだところで、胸騒ぎは激しくなる一方だった。
「くそ……」
扉の向こうに居るアーシェリナに声が届かないよう小さく吐き捨てると、セインは歩き出す。アーシェリナから距離を置けば、少しはましになるかもしれないと考えたからだ。
だが歩きながら、別の部屋に移動した程度では何も変わらないだろうと、セインは気付いてしまった。ついさっきまでのセインは、アーシェリナとの間にいくつかの壁を挟んでいたのだが、それでもやはりアーシェリナの事ばかりを考えていたのだから。
この館の主は、アーシェリナだ。だから、建物中にアーシェリナの気配が漂っていて当然だ。そう考えたセインは、俯きがちの顔を上げ、振り返ってから、前方にある扉を見つめた。そこには外に、裏庭に続く扉があった。
外気に触れれば、少しは解放されるのだろうか?
悩む時間すら疎ましく、セインは早足で扉に近付く。扉を開けば、土や緑が広がっているだろう。少し離れたところには、立ち並ぶ木々が。それらを前にして、冬の冷ややかな空気を吸い込めば、気持ちいいかもしれない――
気が逸ったセインは、乱暴に扉を押し開けた。
想像していた通りの色が、視界に広がる。だがその中に、想像していなかった人物が立っていて、セインは思わず口を開けたまま硬直した。
相手も驚いたのだろう、目を大きく見開いて、セインを凝視している。
「セイン?」
確認の意味を込めた、疑問がこもる呼び声。
髪がだいぶ伸びていた。少し痩せたのか、必要以上に輪郭がすっきりして見えた。そんな小さな違いはいくつかあったが、ほとんどは、二年前の記憶の中にある彼女と変わらない。
「そうだ」と答える代わりに、セインは迷いなく、彼女の名を呼んだ。
「アルシラ」
どうしてここに居るんだ。
どうして今ここに、居てくれるんだ。
「びっくりした! ずいぶん背が伸びたのね」
アルシラは小走りでふたりの間にあった距離を詰め、セインを見上げる。
頼もしさを内包する、優しい微笑みと眼差しが、セインのすぐ目の前に迫った。同時に、胸の中に光が染み入り、淀む穢れがわずかに溶け出す感覚が生まれる。
この感覚は一体なんだろう。もしかすると、安堵なのだろうか。
「以前はこうしてセインを見上げる日がくるなんて考えてもみなかったけど、そうよね。セインもあと五ヶ月足らずで十五歳だもの。大きくなるわよ……」
セインの体から、急速に力が抜けていく。立つために自身の体を支える事すら辛くなったセインは、アルシラに頼った。彼女の肩に手を置き、その上に頭を預ける。
少し興奮気味なアルシラの語りを、遮るつもりなどなかった。だが、結果的にそうなってしまった事を、セインは少し後悔した。
もっと声を聞きたい。温かくて、優しい声を。
「セイン……?」
名を呼ぶ声には疑問がこもっていた。だがそれは先ほどのものと違い、セインがセインであるかを確認するためのものではない。突然の行動の意味を問う、そんな意味がこもった呼び声だった。
「すごく、久しぶりだ」
「そうね。久しぶりね」
「こうして、他人と会話するのは」
「えっ……」
触れた一部分から、アルシラの動揺が伝わってきた。
当然だろう。彼女の日常は、セインと会わなくなった事を除けば、以前とそう変わらず、いつもエルローやリュクセルと共にあり、他のガーフェルート一族の者や、ガーフェルートに仕える者たちと、関わって生きてきただろう。誰とも会話ができない状態など、セインがこうして語らなければ、想像すらすまい。その想像も、セインが知る現実ほど、寂しいものではないはずだ。
アルシラの手が、腫れものに触るように、そっとセインの肩に触れた。伝わってくるものは温もりだけではなく、いたわりの心もだった。どうしてか、それが泣きたいほど嬉しかった。
「ごめんなさい。もっと早くに会いに来るべきだった?」
セインは小さく首を振った。否定ではなく、別の意味を込めて。
「判らない」
呟いた。アルシラに聞かせるためでなく、自分の脳内を整理するために。
会いたくなかったはずだ。それなのにどうして、いざ声を聞くと、こんなにも嬉しいのだろう。
「判らない……」
「セイン、どうしたの。何があったの」
アルシラの手に力がこもる。
アルシラはセインの体を引き剥がし、セインの顔を覗きこんだ。そうして、心配そうに見つめる瞳に、悲痛を混ぜ込んだ。
アルシラにそんな想いをさせてしまうほど、自分は酷い顔をしているのだろうかと、セインはぼんやり考える。
「辛い事があったなら、それが誰かに話して楽になるような事なら、話して。私でよければ、だけど」
セインは無言でアルシラの瞳を見つめてから、ふいに目を反らし、倒れこむようにその場に座り込む。勝手に震え出す両手で、頭を抱える。
アルシラには言いたくなかった。ただでさえ彼女は、セインの一番無様なところを見ているのだ。更に醜い部分を知られるのは恥ずかしいし、今度こそ呆れられ見放されるのではないかと言う恐怖がある。
けれどそれ以上に、ひとりで抱えるのは苦しかったし、アルシラの他に縋れる相手など、セインには考え付かなかった。
「判らないんだ」
かれた喉の奥から搾り出す掠れた声で、セインは静かに叫んだ。
「俺は勝ったんだ。それなのにどうして、こんな想いをするんだ。教えてくれよ、アルシラ」
すぐそばで、アルシラが動く気配がした。彼女はセインの隣に腰を下ろし、真摯な眼差しをセインに向け、セインの言葉に耳を傾けてくれた。
「聞かせて。貴方が抱えているものを、できるだけたくさん」
セインはためらった。
だが優しい誘惑の前に、意地や自尊心は何の力も持たなかった。しばし迷った後、アルシラの言葉に促されるように、黙って頷いた。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.