二章 episode1
2
アーシェリナはゆっくりと目を開いた。
見慣れた、寝台の天蓋部が目に入る。不思議に思って、少し首を傾けてみた。やはり、見慣れた調度品が並んでいる。どうやらここは、自分の寝室で間違いないようだ。
どうして寝台に横になっているのだろう。確か、いつもどおり朝を迎え、一度起き、本館からやってくる女中たちに着替えさせてもらい、髪もまとめてもらった気がする。もしかすると夢か記憶違いだろうかと、アーシェリナは一瞬だけ考えたが、すぐに違うと判った。ドレスを着たまま眠っているせいでとても寝苦しかったし、窓の外に太陽が見えたからだ。アーシェリナが暮らす別館は、さほど日当たりがよくないので、真昼の高く上がった太陽しか見えないのだ。
不思議な状態だ。しかし、現状の不自然さについてそれ以上考える気力は、まったく湧いてこなかった。まるで目の前に靄がかかっているように、頭がひどく重いのだ。じっとしているだけでも体力が大幅に殺がれていく気がするのに、深く考える事などできそうにない。
だからと言って、眠って楽になる事も、またできそうになかった。アーシェリナはしばらくぼんやりとした後、とりあえず体を起こそうと決めた。
体を支えようとした腕から、鋭い痛みが走る。痛みには、アーシェリナを混乱させる靄を掃い飛ばす力があり、鮮明になった記憶は、全ての疑問を解決してくれた。
咄嗟に自身の腕を見下ろしたのは、記憶違いであると信じたかったからかもしれない。痛みがある以上、そこに傷があるのは間違いないと言うのに、それでも。
腕には綺麗に包帯が巻いてあった。やってくれたのは、おそらくセインだ。彼はけして器用なほうではないが、幼い頃から自分の事は自分でやる生活を続けているから、このていどの事なら簡単にこなす。それに今日のこの時間帯、セイン以外にアーシェリナに近付く者が居たとは、少し考えにくかった。朝晩の身支度を手伝ってくれる女中と、夕刻近くから夜にかけてやってくる教育係以外に、館に入ってくる者はまず居ないからだ。
『同情のつもりですか』
セインの事を考えると、同時に冷たい言葉が蘇ってきた。それがあまりにも悲しくて、アーシェリナの双眸に再び涙が浮かんだ。
包帯は、セインが以前と変わらず優しくて、アーシェリナを労わってくれている証に見える。けれどその下には、先ほど――どれほど時間が過ぎているか判らないが、気を失っていたアーシェリナにとっては先ほどだ――のセインの冷たい態度を肯定する証が残っている。
判らない。何か、セインを怒らせるような事をしてしまったのだろうか。
思い出してみたが、心当たりはなかった。今朝は、いつもと同じ朝のはずだった。
セインの様子がおかしくなったのは、どこからだっただろうか。確か、食卓に着くまでは普通だった。自然な動作で、椅子を引いて、飲み物をついでくれた。ありがとうと言葉にできないから、代わりに微笑みかけて――
『そんなに、笑えますか』
そう、確かそこからだ。いつもの朝でなくなったのは。
笑ったのが気に食わなかったのだろうか。だからセインはあんなにも、憎しみをぶつけてきたのだろうか。
アーシェリナは顔を覆った。それ以上思い出す事が、怖くなった。
ここまで思い出しただけでも、はっきりと判る事がひとつある。セインが、アーシェリナを嫌っている事だ。そうでなければ、ただいつも通りにしているだけで、あれほど怒ったりしないだろう。
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。無性に悲しかった。セインの心はセインが自由にすべきだと判っていても、叶うならば彼にも自分の事を好いてほしかった。それが無理だとしても、まさか嫌われてしまうとは思わなかった。
だから、なのだろうか。ふと、アーシェリナは思う。
セインが常にそばにいてくれる環境に満足し、自分は幸せ者だと、能天気に生きてきたから。彼が長い間抱えてきた苦しみを、少しも理解しようとしない、無神経な人間だから――
アーシェリナはひとり泣き続けた。本当は声を上げて泣きたかったが、それができない自分の体が呪わしかった。
なぜ枯れないのか不思議なくらい、涙はあとからあとから溢れ出る。このまま干からびて死んでしまえばセインは喜ぶのだろうかと、余計な事を考えてしまうと、涙は更に溢れた。
ひたすら泣き続けて、ようやく落ち着きを取り戻しはじめた頃だろうか。扉の向こうから静かな足音が聞こえてきたのは。
足音は徐々に近付いてきて、扉の前で止まると、扉を叩く。静かだが力強い音は、セインによるものだとすぐに判った。
みっともない泣き顔を見られたくなかったアーシェリナは、慌てて枕元にあるはずの鈴を捜した。外からの確認に対して鈴の音で答えるのは、入室拒否の合図。アーシェリナが自由に声を出せなくなった直後に、ふたりで決めた事だ。
アーシェリナは鈴を手に取った。だが、それを鳴らさず、胸に抱いた。鳴らしてどうなるのだろうと思ったのだ。アーシェリナの方からセインを拒絶して――セインが腹を立てるか、喜ぶかは判らないが、どちらにせよ嬉しい事ではない。
少し間を空けてから、扉が開いた。そうして現れたセインは、驚いた顔をしていた。アーシェリナがまだ眠っていると思っていたのだろう。
「失礼します」
セインはすぐに戸惑いを隠し、部屋の中に足を踏み入れた。手にしている盆にはいくらかの食事や飲み物がのっていて、昨日の夕食以降何も口にしていないアーシェリナの空腹を刺激する香りが漂ってきた。
だが、空腹を満たすよりもずっと大切な事が、アーシェリナにはある。セインと、たくさん話をしたかった。
ひとりで考えて出した答えでは不安だから、すべて教えてほしい。アーシェリナの何に腹を立て、何が気に食わないのか。言ってくれれば全部、直す。このままはいやだ。せめて、嫌わないでほしい。
けれどセインはきっと、言葉を交わすためのてのひらを差し出してくれないだろう。アーシェリナとて、今の消耗した体力でむりやり喋ろうとしてたところで、すぐに倒れてしまうだけだ。
今のアーシェリナには、セインに言葉や気持ちを伝える手立てが、何ひとつ残されていなかった。
「今朝から一切食事を摂られておりませんので、お持ちしました。こちらに置いておきます」
視線を合わせる事すら恐ろしく、アーシェリナが俯いていると、セインは何事もなかったかのような落ち着いた口調で語り、寝台脇にある小さな机の上に食事を置いた。
「では、失礼いたします」
それだけだった。
セインは機械的に用件を済ますと、部屋を出て静かに扉を閉める。その様子は、嫌々押し付けられた仕事を手早くこなしてすぐに去っていく、本館の使用人たちとよく似ていた。
戻ってきてと声にならない叫びを抱きながら、アーシェリナはしばらく扉を見つめ続けたが、そんなささやかな願いすら叶いそうにない。悲しみに耐え切れず、アーシェリナは寝台に倒れ込み、枕を濡らした。
せっかく用意してくれた食事を口にする気には、どうしてもなれなかった。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.