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二章 episode1



「フィアナランツァ」
 耳元で姉の名を囁く声が聞こえた気がして、セインは飛び起きた。
 軋むように鳴る心臓の音と、新鮮な空気を求めて激しく息をする音が、大きく響いている。それらを抑えようとして、セインは自身の体を抱きしめた。全身から冷たい汗が吹き出しているせいか、体は小刻みに震えていた。
 身を縮ませ、意識してゆっくりと呼吸をする。響く音が静かになると共に、少しずつ落ち着きを取り戻す――けれど、再び姉の名を呼ぶ幻聴を聞くと、一瞬にして意識は激しく乱れた。
 咄嗟に耳を塞いだが、粘着質な声はけして消えなかった。それどころか、窓の外からかすかに聞こえていた風の音を遮断したせいで、よりはっきりと聞こえてくる気がした。すると、体中を這い回る嫌悪感までもが蘇り、セインは恐怖と苛立ちのあまり、低いうなり声を上げた。
 あまり騒いでは、アーシェリナに気付かれ、不審がられるかもしれない。理性を働かせたセインはそう考えたが、おとなしく耐える事は到底できそうもない。仕方なく、枕に顔をうずめる形で声を抑えた。
 くぐもった声を喉が枯れるまで出し続けたが、幻聴も悪寒はけして消えてくれなかった。叫びながら、今度は拳を周囲に叩きつけたが、腫れ上がるほど痛めつけても、結果は変わらない。
 もう、疲れた。
 休みたい、眠りたい――忘れたい。
 セインは目じりに涙をにじませ、歯を食いしばりながら安らぎを求めたが、願いはどこにも、誰にも届かなかった。失神するほど疲れきった頃、ようやく眠りにつけるかと思えば、すぐに日が昇りはじめる。そんな毎日を、悪夢の夜からこちら、二年以上も繰り返していたのだ。
 黒い息を吐く虫を、体内に飼っている感覚だった。それはセインの中に薄汚い淀みを吐き出しながら、心を目指して少しずつ体の中を這いまわる。目的地に到達すれば、心は飲み込まれ、壊れてしまうに違いない。その日がいつか判らないが、そう遠い未来ではないだろうと、セインはおぼろげに感じていた。
 ある日の朝、セインはいつものように寝台から這い出し、いつものように適当に身づくろいをしてから部屋を出て、いつものように仕事をはじめた。セインがするべき事はいくらでもある。さすがにアーシェリナの身支度は本館から来る女性の使用人たちがしてくれるが、それ以外のアーシェリナや別館にあるものの世話は、すべてセインの仕事だからだ。
 身が凍えるほどの、寒い冬の朝だった。アーシェリナが起きてくる前に部屋を暖めておこうと、暖炉に火を入れる。気付けば、薪の残りがずいぶん少なくなっていた。これでは夜までもたないかもしれない。
 セインは外に出る。白い息を吐き、冷えで赤く色を変える手を温めながら、ひたすら薪割りを続けた。もう少し幼い頃のセインにとっては辛い労働だったが、慣れ、体が成長して単純に筋力がついた今では、好きな作業のひとつだった。余計な事を考えずにすむからだろうか。
 薪が積みあがると共に、徐々に太陽の位置が高くなり、空が明るくなっていった。やがて本館から朝食の香りが漂ってきたので、もうすぐアーシェリナが起きる時間だとセインは知った。
 きりのいいところで作業を追えると、割った薪を束ね、別館の中に持ち込む。アーシェリナただひとりのための食卓には、すでに朝食の準備が整っていた。アーシェリナの身支度も終わっているようで、使用人たちの気配はすでになく、室内は静かだった。
 何の変わり栄えもない、いつもの朝。
 それなのにセインは、木屑にまみれた手を洗いながら、いつも考えない事をふと考えた。どうしてこれほど静かなのだろうと。どれほどの時間、自分と幻聴以外の声を聞いていないのだろうと。
 答えはすぐに判った。二年だ。もともとセインに話しかけてくれる人物は、アルシラとリュクセルしか居なかった。そのふたりに、セインはあの晩以降会っていないのだ。
 会いたくなかった。アルシラはセインを救い出してくれた恩人だが、見られたくないところを見られた気まずさがあった。リュクセルはエルローと同様、いや、それまで寄せていた信頼の分だけ余計に、許せない気持ちが強かった。正体不明の眠気に襲われはっきり判らないが、前後の状況から、エルローにセインを差し出したのはリュクセルと考えて間違いないのだから。
 リュクセルの事を考えるうちに、またも思い出したくない記憶が蘇り、セインは息を深くから吐き出した。そうする事で、胸の内に淀むものを少しは外に吐き出せる気がしたからだ――結局それは気休めでしかなく、何の意味もなさなかったのだと、セインはすぐに知る事になるのだが。
 軽い靴音と共に、アーシェリナが食堂に現れる。
 輝きを秘めた深い黒髪を高い位置でまとめ、落ち着いた紫色のドレスを身に纏っている少女は、つい先日、セインより一足早く成人を迎えていた。幼い頃から整っていた美貌はいっそう磨かれ、しなやかな肢体は滑らかな曲線を描き、匂い立つような魅力をかもしだしている。もし人目に触れる場所に出る事があれば、あらゆる男の目を惹きつけるに違いなかった。セインとて、歪んだ感情で目が曇っていなければ、彼女の魅力に惹かれていただろう。
 セインが椅子を引くと、アーシェリナは食卓に着く。飲み物を器につぐと、「ありがとう」の言葉の変わりに、微笑んだ。
 いつも通りだ。何もかも。
 それに耐えられない自身に気付いた時、セインは知った。いつか壊れると思っていたものは、すでに壊れてしまっていたのだと。
 何がそうしたのだろう。消えない記憶だろうか。積み重なった疲労だろうか。嫌悪や憎悪だろうか――原因を探る事に意味はないのかもしれない。どんな理由であれ、セインが、いつもどおり微笑むアーシェリナに対して堪えきれない怒りを抱いた事実に、変わりはないのだから。
「そんなに、笑えますか」
 問うと、アーシェリナは首を傾げる。
 無垢な瞳、素直な表情、愛らしい仕草。それらは、セインの神経を余計に逆なでるだけだった。セインは無意識に、食卓の上にあるナイフに手を伸ばしていた。
 アーシェリナの笑みの中に不安が混じる。何かをセインに伝えようとして、セインの手に手を伸ばす。
 だがセインは、アーシェリナの手を振り払うように、ナイフを振り上げた。
 歪む。セインの視界と、アーシェリナの表情が、同時に。
 白く細い腕に、赤い線が走る。アーシェリナはおそらくこの時生まれてはじめて、切り裂かれる痛みをその身に受けたはずだった。しかし、悲鳴のひとつも上げなかった。叫べば、制約が切り裂かれる以上の苦痛を呼ぶ事を、頭でも本能でも知っているからだろう。
「そうですよね。おかしいですよ。俺がもし同じ立場なら、同じように笑ってやります」
 細い傷からにじみ出た血が、白い肌を伝いはじめた。
「貴族の子供が奴隷に落ちぶれるなんて、笑えるほどに、無様で哀れですから」
 手が震えた。
 奴隷の分際で主を傷付けた罪や、怯えさせた事への罪悪からではなく、体の奥から湧き出す劣情のために。その感情は、顔中に疑問を浮かべたアーシェリナを見つめるうちに、更に増幅した。
 まだこの女は、自分を騙すつもりなのか。ごまかそうと、知らないふりを続けて――
「貴方の知る通り、俺は、ダリュスセイン・ローゼンタールですよ」
「!」
「姉は居ましたが、長男でした。侯爵家の跡継ぎですよ。ガーフェルート伯爵家の、しかもこんな風に冷遇されている貴女と比べれば、はるかに格上の立場だった。それなのに今は、俺が貴女の『物』だ」
 力を失った右手からナイフが滑り落ち、乾いた音と共に床に転がった。刃に絡んだアーシェリナの血液が、床にじわりと小さな染みを作る。
 セインはゆっくりとアーシェリナに歩み寄った。
 立ち上がったアーシェリナは、後ずさってセインから離れようとしたが、すぐに背中が壁に触れた。慌てて横に逃れようとするが、その前にセインが腕を壁に叩きつけて逃げ道を塞いでしまったので、うなだれながら息を吐くしかできないでいた。
「別に不満だったわけじゃない。ずっと、それでいいと思っていたんだ。あんなに穢れのない優しい微笑みも、暖かい手も、はじめてだったから――俺の所有者が貴女ならば、それでいいと」
 綺麗な人だと、思っていた。
 初めて出会った日も、優しく微笑みかけてくれる時も。いつでもこの少女は純粋で、綺麗だと思っていた。あの夜まで。
 あの晩から、何よりも醜いものとしてセインの目に映った。こんなにもまばゆい美貌で、美しく微笑みながら、心の中では自分を見下していたのだと判ってしまった瞬間から。
 外見だけが美しく、おぞましいもの。結局のところ、アーシェリナも同じなのだ。彼女の兄であるエルローと。
 感情が溢れる。外に吐き出そうと、目の前の少女に叩き付けてやろうと、セインは顔を上げ――アーシェリナの目に涙がにじんでいるのを目にすると、一瞬だけ言葉を失った。
「どうして」
 セインは問う。涙を頬に伝える少女に。
「俺がどんなに辛くても、苦しくても、惨めな思いと戦っていた時も、いつもいつもいつも、貴女は笑ってた。何も知らない、気付かないふりをして、俺を見下して笑って。そんな貴女に、俺がどれほど腹を立てていたか。それなのに、どうして今更、そうやって泣くんだ……!」
 腕の傷を抑えながら、嗚咽のひとつも漏らさず、セインの叫びを受け止めていたアーシェリナは、セインの叫びが途切れると、濡れた瞳でセインを見上げながら、固く閉じていた口を開いた。
「セイ……ッ」
 可憐な声がセインを呼ぼうとしたが、途中で途切れる。
 アーシェリナは身を捩り、その場に崩れ落ちた。セインにはとうてい理解できない、体を締め付けるような、抉るような激痛が、アーシェリナの全身を襲ったからだった。
 青白い肌にふつふつと汗が浮き出ている。苦痛のあまり息を詰まらせていた。それでも必死に空気を肺に送り込んで、激痛から生まれる悲鳴を飲み込んでいた。
「アーシェリナ様……?」
 アーシェリナは自身の服の裾を強く握り、弱った意志と体に力を込めた。そして言った。たったひと言。
「貴方が好き」
 セインは目の前が真っ白になる感覚を味わった。
 貴方が好き。
 アーシェリナの言葉を脳が受け入れ、ゆっくりと心に届く。そうして意味を受け止めた後、セインの中に生まれたものは、更なる怒りだった。
 言葉を自由に紡げない少女の中に眠る沢山の言葉から選ばれた、たったひとつの言葉。それほど大切な言葉の意味を、この時のセインは理解できなかったのだ。
「ははっ……!」
 嘲笑が、セインの口から飛び出す。
 同時に、アーシェリナの表情が凍りついた。
「それは同情のつもりですか。まったく、貴女は吐き気がするほどの偽善者だ。すべてを失った哀れな俺に、偽りの愛情を与えてやろう、とでも? それに何の意味があるんですか。あまり笑わせないでくだ……」
 瞬間、セインの頬に少しの痛みと熱が走る。乾いた音が鳴ると共に。
 アーシェリナがセインに手を上げるのははじめての事で、驚いたセインが見下ろすと、アーシェリナは恨めしそうにセインを睨み上げていた。先ほどまで見せていた不安や怯えや悲しみはすでになく、ただ怒りだけが瞳の奥で熱く輝いている。
 ああ、それだ。それでいいんだ。
 それが似合いだ。貴女には。
「あ……なた、が」
 アーシェリナは掠れた声で続ける。なおも溢れ出る涙は、痛みによるものか、他の理由によるものなのか、セインには判らなかった。
「私の事を……嫌い、でも」
 腕から滴る血にまみれた白い手が、縋るようにセインの手を掴んだ。
「否定しないで」
 少女の身に降りかかる苦痛の重さを、目に見えて青く変化する顔色と、触れる手から伝わる冷たさが、如実に語る。
 懸命にものを語り続ける可憐な唇が、弱々しく震えているのも、同じ理由なのだろうか。
「この気持ち……否定、され……た……ら」
 とうとう心身の苦痛に耐えきれなくなったのか、アーシェリナは意識を手放す。
 セインは少女の体を抱きとめた。思っていたよりも細く軽い少女の体は、セインの心の乱れをより複雑なものとした。


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