一章
13
外には強い風が吹き荒れていた。
日中よりも激しさを増している雨は、庭の中心でひとり立ちつくすセインの体を鋭く打ち、ずぶ濡れにする。だが不思議と、寒さや痛みを感じる事はなかった。感覚を無意識に遮断していたのかもしれない。
セインは空を見上げた。淀んだ雲に覆われていて、月も星も見えない。目の前に何があるのかすら判らないほど暗い上、方角も判らないとあっては、どちらに歩いていいのか判るはずもなかった。
見失った道をセインに教えてくれたのは、暗い空を引き裂く鋭い光だった。遠くに雷が落ちたのだ。しばらくして唸るような轟音が響く。
攻撃的な音。強烈な光。あの人は、怯えていないだろうか。
脳裏に浮かんだのは、静かに笑う、美しい少女。
「帰らないと」
次の稲光が放った輝きで周囲を把握したセインは、ぎこちない動きで一歩踏み出した。
セインはエイナスに買われ、リュクセルの導きの元ガーフェルート家にやって来た日から、これほど長い時間アーシェリナから離れていた事がない。どんな事があっても、夕方までには必ず、寂しい別館に帰っていた。
今はもう真夜中だ。アルシラが言うには、日付も変わって久しいらしい。きっとアーシェリナは心配している。いらぬ心配をして、眠りもせずにセインの帰りを待ち続けているかもしれない――いや、疑う余地はないだろう。彼女は間違いなく、起きてセインを待っている。
一刻も早く帰らないと。
セインは軋む体を引きずるように歩いた。歩く中で、ぬかるみに足を取られ、派手な水音を立てながら倒れこんだ。
水たまりにはまり、顔や体が泥水に濡れた。傷に水がしみて、痛みに顔をしかめる。それでも起き上がる気力が湧いてこず、セインはしばらく倒れたままでいた。体熱が少しずつ奪われているさまが気持ち良かったからだった。
このまま目を伏せ、眠ってしまいたいとの願望を抱くセインに力を与えてくれたのは、アーシェリナの存在だった。
「これ以上、心配させるわけには、いかない……」
立ち上がると、体は更に重く感じた。一歩一歩進むのが辛かった。それでもセインは、歩みを止めなかった。
前方に伸ばした手に、冷たい壁が触れる。方向を間違えていなければ、慣れ親しんだ建物の壁だろう。ようやく帰ってこられたのだと、セインの胸中に僅かな安堵が湧きあがった。
その時、三度目の雷鳴が轟く。壁についていた手が光に照らされ、生々しく腫れた両手首の傷が、セインの目にはっきりと映った。
悪い夢だと片付けようと思っていた事実が突きつけられると、フィアナランツァ、と繰り返し姉の名を呼ぶ幻聴が、耳の奥で響きはじめる。
「ぐっ……」
セインはその場に崩れ落ちた。耳を塞いでみたが、まとわりついてくる声は消えなかった。
奇声じみた叫び声を上げ、両手を壁に叩きつける。閉じた傷が再び開く痛みだけが、声を忘れさせてくれるような気がした。
「みんな、知ってたんだな」
侯爵令嬢フィアナランツァ・ローゼンタールの事を、エルローは知っていた。それは、セインが彼女の弟で、ダリュスセイン・ローゼンタールである事を、知っていると言う事なのだろう。
ロマールからファンドリアへの道すがら、リュクセルは言っていた。「お前の存在が知れれば、お前の命はもちろん、ガーフェルートの存亡にも関わるだろう。だからお前の正体は、誰にも秘密だ」と。だからセインは今日まで信じていた。自分の出生は、エイナスと、リュクセルと、セインだけが知る秘密なのだと。
だが実際はどうだ。リュクセルだけでなく、エルローも、アルシラも、知っていたではないか。セインが以前ローゼンタール侯爵家の人間であった事を――奴隷にまで落ちぶれた事を。
こうなる事を最終的に選んだのは自分だ。それは判ってる。けれどセインとて、人としての誇りを持っている。あまりに惨めな転落ぶりを、笑われる事からだけは逃れたかった。真の意味で奴隷として、玩具のように扱われるなら、なおさら。
「みんな……?」
自身が発した言葉に違和感を覚えたセインは、悔しさのあまり固く閉じていた目を開ける。
「そう……なのか……?」
セインは壁に爪を立てて立ち上がった。
やっとの思いで入り口にたどり着き、扉を開く。それを合図に、部屋の奥から軽い足音が鳴り響く。
アーシェリナが駆けつけてきたのだ。セインが予想した通り、眠らずに待っていたのだろう。
主の顔を見るのが恐くて、セインは俯いたまま、自身の体から滴り落ちる雫を見下ろした。そうしてつい今さっき浮かんだ不安を流し去ってしまおうとしたが、足元に残る水たまりのごとく、不安は滞留し続けた。
違う。
そうだ、アーシェリナ様だけは、違うはずだ。
確かめようと思った。アーシェリナを信じようと。だから、勇気を出してセインは顔を上げた。
アーシェリナはセインと目が合うと、張りつめた表情をほころばせて、微笑む。
その笑顔が、セインの記憶に焼きついたエルローの歪んだ微笑みと重なった。
ああ、駄目だ。
もう、戻れはしない。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.