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一章

12

 どこからか、救いを求めるセインの声が聞こえてくるような気がした。
 幻聴か、あるいは思い込みなのだろうと判ってはいた。つい先ほどリュクセルから受けた説明が確かならば、セインの声が今のアルシラのところに届くはずがないのだから。
 判っていても気が逸った。いや、逆だろうか。逸る心が、アルシラの中にセインの声を響かせるのだろうか。
 屋敷内に居る者のほとんどが寝静まる中、アルシラはランタンを片手に、暗く長い通路を走った。できるかぎり足音を殺したが、専門家ではないため、どうしても音が出てしまう。誰かの睡眠を妨害したり、のちのちうるさいと苦情を言われてしまうかもしれないが、それにかまう心の余裕はなかった。
 アルシラはやがて、前方から響いてくる別の足音が、自身の足音に重なった事に気が付いた。その足音の中に、夜中である事への遠慮が微塵も見つからなかったので、少なくともこの屋敷内ではそれなりに権力を持つ者であろうと予想しアルシラは、一度足を止め、脇にのいて道を譲った。ここで目を付けられ、引き止められようものなら、面倒だと思ったからだった。
 足音を主がランタンの光が届く距離まで近付いてくると、アルシラは予想が当たっていたのだと知った。それが良かったのか悪かったのか、まだ判らないが――端整な顔の中で輝く紫色の瞳を一瞬見つめてから、一礼をする。
 エルローだった。
 アルシラの存在に気付いているのか居ないのか、無言で通り過ぎたエルローの顔に、意味ありげな笑みが張り付いていたのを見つけたアルシラは、更なる焦りを感じた。向かおうとした方向からエルローが現れたのも、追い撃ちとなった。エルローが立ち去るのを待ってから、再び駆け出す。
 行き止まると、アルシラは迷わず正面の壁を探った。秘密の地下室に繋がるものがここに隠されていると、リュクセルは言っていたからだ。
 ランタンの灯りだけではまだ暗く、探しものを目だけでみつけるのは至難の業だったので、指先に意識を集中させ、丁寧に壁を撫でていく。やがて小さな継ぎ目を発見すると、一瞬だけためらってから、指先に力を込めた。
 壁は一部分だけがへこんだ。それを合図とばかりに、横から引きずるような音が立つ。アルシラが振り向くと、側面の壁が徐々に移動し、人ひとり入れるような隙間を生み出していた。
 アルシラは迷わず足を踏み入れ、先に続く下り階段を乱暴に駆け下りる。階段は意外に短く、すぐに石畳の部屋にたどりついた。
 ランタンを高く掲げると、部屋の四隅が確認できた。小さな部屋だ。見回したアルシラは、正面にある扉ひとつと、側面の壁にかかる鍵束を見つけたが、セインの姿は見つけられなかった。
 何かに役立ちそうだと鍵束を手に取って、アルシラは正面の扉に手をかける。ここには鍵がかかっておらず、すぐに開いた。
 扉の先にはやはり石畳の短い通路があった。すぐに行き止まっていて、左右に鉄製のぶ厚そうな扉が見える。
 適当に左の扉を選んだアルシラは、扉にある鍵穴を見てから、手元の鍵束を見下ろした。大きな鍵がふたつと、小さな鍵がひとつついている。目算で、合いそうなのは大きな鍵だと判断すると、ふたつの鍵をそれぞれ試し、扉を開けた。
 中には簡素な寝台があった。その上にはたたまれた薄い毛布が。壁に繋がる鎖と枷もある。
 秘密の独房なのだろうとアルシラは判断した。ガーフェルートに仕えるほとんどの者に知らせていない事から、後ろ暗い目的に使用するのだろうとも。最近使われた形跡がない事が、せめてもの救いだろうか。
 立ち去ろうとしたアルシラは、視界の端に映りこんだ、毛布の上に更に積まれている布に目を止めた。よく見てみるとそれは衣服で、はっきりと見覚えがあった。日中に会った時、セインが着ていたものだ。
 アルシラは無造作に服を掴む。部屋を出て、もう一方の鍵で残った扉の鍵をはずした。
 だが、恐怖かなにか、自分自身でももてあます感情に支配され、即座に扉を開ける事ができなかった。今でさえ、内蔵がすべて心臓になってしまったかのように、大きな鼓動が鳴り響いているのだ。扉を開ければどうなってしまうのだろうと、不安になる。
 だが、こうして立っていてもどうしようもない。行動するなら、早いほうがいい。アルシラは何度か深呼吸を繰り返し、少しだけ手の震えを抑えると、覚悟を決め、扉を開けた。
 ランタンの灯りが照らしだす光景を見下ろして、アルシラは数瞬呼吸を失った。
 儚げで愛らしい、少女と見紛うような容姿の少年が、そこに居た。冷たい石の床に身を倒し、空ろな目で天井を見上げて。身に付けている上等なドレスは乱れており、あらわになっている肌には、誰か――おそらくはエルローだ――に蹂躙された痕跡が、無数に残っていた。
 アルシラは咄嗟に両手で自身の口をきつく押さえる。そうする事で、こみ上げてくる悲鳴や嘆きや胃液をおさえた。
 セインの体に駆け寄り、寝台の上に置いてあった毛布をかけてやる。それから、セインの両手と片足に絡みつく枷の鍵穴を捜した。最後に残った小さな鍵をさしてみると、ぴたりと合った。
 鍵をはずそうとする金属音に反応したのだろうか。乾いたセインの目が、ゆっくりと動き、アルシラを見る。唇が開き、掠れた声がもれる。
「アルシラ……」
 どう対応すればいいか判らなくて、少しだけためらった後、アルシラはそっと微笑んだ。
「着替え、持ってきたわ」
 鍵が外れ、ひとつめの枷が石畳に落ちる。乾いた音が響くと共に、痛ましいセインの手首が、アルシラの目に映った。
 短時間でできるとは到底思えない、抉るような擦過傷から、血がにじんでいる。あざができているところもあった。叩きつけて枷を壊そうとしたのか、何とかして枷から手を引き抜こうとしたのか、鎖を千切ろうとして圧迫したのか――もしかしたら、手首を引き千切ろうとしたのかもしれない。それほどまでに逃れたかったのだ。エルローの手から。
 アルシラは、泣く事も、怒る事も、今のセインの前では耐えようと思っていた。けれど激しい感情は理性を大きく上回り、自然と涙がこぼれ落ちる。
 咄嗟に顔を反らして隠してみたが、セインは見逃さなかったようだ。せめて嗚咽くらいはこらえようとして震えるアルシラの肩を、見つめながら言った。
「どうして、お前が泣くんだよ」
 どうしてと訊かれても困ってしまう。アルシラにも、はっきりした事は判らなかった。
 リュクセルは言った。セインが一体何をしたと言うのだろう、と。どれほどの罪を犯せば、これほどの罰が下るのだろう、と。今アルシラは、同じように思っていた。家を失い、親を失い、高貴な身分も失い、人間以下の物に扱われ、それでも強く明るく生きていたセインが、どうしてこんな目にあわされるのだろうと。セインが可哀想だと。
 だがそれだけなら、彼の前で泣く事は耐えられただろう。それ以上に強いものが、アルシラの中にあるのだ――たとえば、この少年を守る事が出来なかった自分のふがいなさを情けなく思う、心とか。
「もう、真夜中だから、きっとアーシェリナ様が心配なさってるわね。早く帰らないと」
 枷を全て外し終わると、アルシラはセインに服を押し付け、部屋を出た。そうして視界は遮りつつも、けして扉は閉めず、中の気配を探り続けた。
 体を起こし服を着る動作が、ひどくゆっくりしている。部屋を出てくるまでに、ずいぶん時間がかかりそうだ。その間に涙を乾かそうとアルシラは思ったが、それほど辛いのだと思えば、なおさら涙が溢れてきた。
「こっちは上手くごまかすから、早く逃げてね。そして、もう二度と……」
 アルシラは途中で言葉を飲み込んだ。それでも充分過ぎるほど、セインに伝わるだろうと思った。
 仮に伝わらなかったとしても――彼は二度と、頼んでも、本館に姿を現さないだろう。アルシラやリュクセルの言いつけの意味を、いやと言うほど理解しただろうから。


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