一章
11
アルシラの記憶では、確かに雨降る裏庭で倒れたはずなのだが、次に目覚めた時にはなぜか、自室の寝台に横たわり、温かな毛布に包まれていた。
毛布をめくり、己の体を見下ろす。雨や泥の汚れは綺麗に拭われており、新しい服に着替えている。まだ乾ききっていない髪の冷たさを頬や首筋に感じなければ、裏庭でのやりとりは夢だったのだと思い込んでいたかもしれない。
どれくらいの間眠っていたのだろう。確かめるためにアルシラは、体を起こして窓の外を見た。
雲が空を覆っているのとは違う暗さ。夜が訪れているのは明らかだった。眠る前はまだ日が落ちていなかったので、日付が変わっていなかったとしても、かなりの時が過ぎているのは間違いない。
アルシラは慌てて寝台から飛び出し、揃えて置かれた靴に手を伸ばす。とりあえず歩ければいいのだと、乱雑に靴紐を結ぶ中で、ふと自分以外の人物の気配を感じたアルシラは、手を止め、顔を上げた。
「起きたか」
「リュクセル様……」
部屋の隅にある机の前に、リュクセルは座っていた。
机上のランタンが放つ光が、左目を覆っている眼帯や落ち着いた微笑を照らし出し、以前と変わりないリュクセルをアルシラに見せ付ける。しかし、寝台から机と言う、アルシラの身を案じて待機していたにしては不自然な距離が、以前とは違うぎこちなさを伝えてきた。
あふれ出るものを抑えるために一度深呼吸を挟んでから、アルシラは落ち着いた声で問いかける。
「セインをどうなさいました」
リュクセルは答えようとしなかった。
「エルロー様はどうされてます」
質問を変えても、やはりリュクセルは答えない。しばしの沈黙の後、ゆっくりと立ち上がり、寝台に歩み寄り、高い位置からアルシラを見下ろした。
「ずいぶん体を冷やしただろう。熱を出してはいないか?」
穏やかな声が語る、労わりの言葉。
そんなものにごまかされてたまるかと、アルシラは抑えながらも強い声で返す。
「さあ、判りません」
「判らない?」
「ご自分で触れて、確かめてみてはどうです」
挑発的なアルシラの言葉に、リュクセルは平静を装いながらも反応した。大きな手が一瞬、ぴくりと動いてから硬直したのを、アルシラは見逃さなかった。
「今更何をためらうのですか。私は――アルシラ・イルン・フォスターは、産まれた瞬間からすべて、貴方のものだと言うのに」
「アルシラ……」
「それとも、恐れているのですか? 貴方が化け物だから? 化け物だと、私が知ってしまったから?」
リュクセルは再び強い緊張をあらわにしてから、小さな笑みを浮かべた。泣いているかのように優しい、寂しい笑みを。
泣きたいのは自分も同じだと思ったアルシラだが、それを口にはしなかった。リュクセルに対して、言いたい事は山ほどあるのだ。いちいち言葉にしていたら、いくら時間があっても足りない。
アルシラは手を伸ばし、リュクセルの指に自身の指を絡ませる。触れたリュクセルの手は思いのほか冷たくて、本当に熱を出しているのかもしれないと、アルシラはこの時はじめて自覚した。
「そんな事で怯むような可愛い女ではないのだと、貴方が一番ご存知だと思ってましたのに」
そうでなければ、今頃とっくに逃げ出している。囚われた心など、あっさりと解放して。
アルシラは何も言わずにリュクセルの手を手繰り寄せ、そっと頬を寄せた。リュクセルも、何も言わなかった。それは語る事までも恐れているかのようだった。
優しいのだ、この青年は。そう、アルシラは思う。
誰よりも、優しいのだ。手を汚す事も、共倒れになる事も、相手を守るために本音を飲み込む事も、自分を傷つける事も、ためらわないほどに。それは時として弱さでもあったのだろう。哀れな子供の心を抱えたまま成長した青年に優しくしようとして正誤の意味を失い、ひとりの少年を犠牲にすると言う矛盾を抱え、どうにもならなくなってしまった結果が、今なのだから。
それを知っていたなら、知っていて愛したなら、大切なものを守るためにも、あらかじめ予測しておくべきだったのに――アルシラは自分の考えのなさに、失望するしかなかった。
「落ち着いて、考えて……少しだけ、判った気がします。エルロー様が抱える深い孤独を癒してあげたいと望む、貴方の心が」
「そうか」
「そのためにセインを贄にした事は別の問題で、到底理解できる事ではありませんけれど。この件に関して、私は絶対に貴方を許せないと思います」
アルシラは立ち上がり、近い位置からリュクセルを見上げる。静かにアルシラを見下ろす右目の瞬きは、少しの怯えを押し隠すように、揺れていた。
アルシラは絡ませた指に、ぐっと力を込める。
「悔しい」
そして胸中で燃えたぎる一番強い感情を、短い言葉で吐き出した。
「許せないなら。罪もない他人を犠牲にできるほどに、エルロー様がかかえる孤独が絶望的だと言うのなら、同じ痛みをこれからの貴方に押し付けてやりたいと思うのに――できない自分に、腹が立ちます」
リュクセルはアルシラと繋がっていない、もう一方の手を伸ばし、アルシラに触れようとした。だが一瞬だけ、戸惑う。
戸惑いは紛れもなく、アルシラへの労わりや、アルシラに拒絶される事への怯えから、生まれているのだろう。その事実は、アルシラにとって救いになった。
「だから、貴方から離れる以外に、できる事はなんでもします。貴方のそばで、今日の事を、貴方を止められなかった自身の無力を、後悔し続けます。貴方を苦しめるために」
「アルシラ」
「それから、エルロー様の手からセインを奪い返します」
繋がる手に、力がこもった。言葉では言えない代わりに、アルシラを引き止めようとしているかのように。
この期に及んでまだエルローを守ろうとするのかと、少し呆れたアルシラだが、それは自分も同じなのだろうと思い直した。自分も、この期に及んでまだ、リュクセルのそばにあり、リュクセルを支えようとしている。
アルシラは柔らかな微笑みをリュクセルに向けた。
「貴方が望むなら、エルロー様をひとりにはしません。私がエルロー様の心に、強く、住みつく事で。私も貴方と同様で、エルロー様を愛する事やエルロー様に愛される事はできませんけれど――貴方にはできない、別の手段が、私にはありますから」
「お前は……」
リュクセルは勢いで吐き出しかけた言葉を飲み込んでから、寝台に腰かける。ゆっくりと息を吐いてから、今度は落ち着いた声で語りはじめた。
「どうして私のそばに、お前が居るのだろう」
「ご迷惑ですか」
リュクセルは無言で首を振った。強く、何度も、何度も。
「どれほどの代償を支払えばいいのか、判らない」
アルシラはそっとリュクセルの眼帯に手を置いた。それから、眼帯にくちづけをした。
呪いのようにリュクセルを縛り付ける義眼に、想いが届く事を祈りながら。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.