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一章

10

 湿度の高い空気に混じるかびの匂いが鼻につき、セインは不快感を抱くと共に、手放していた意識を徐々に取り戻しはじめる。
 首の後ろに鈍い痛みが走った。眠る姿勢が悪いせいだろうか、それとも、寝台や枕の質が悪いせいだろうか。まだ半分眠っているせいか、回転が鈍っている頭で、セインは少し考えこむ。いくらか時間を使う事で、頬に触れるざらりとした感触が寝具としては明らかに異常な硬度だと気付くと、状況を確かめるため、重いまぶたをこじ開けた。
 だがそうしたところで、セインの目には何も映らなかった。蝋燭一本、星ひとつの明かりすらない、完全な闇だけが、セインを包んでいたからだ。
 驚きのあまり目を見開くと、同時に意識も完全に覚醒する。慌ててセインは、眠りに落ちる前の記憶をたぐり寄せようとした。
 そもそも、眠った記憶がないのだ。夜を向かえた記憶も――焦りの中でようやくセインが最初に思い出したものは、色だった。
 吸い込まれるような、悲しみに似た深い青。綺麗な色なのに、異質な印象が先に立つあれは――そうだ、リュクセルの左目だ。普段は眼帯の下に隠されているそれは、常に見えている右目の色と大きく違っていて、強い違和感を抱いた。しかし問いかけるよりも早く、強烈な睡魔に襲われてしまい、セインは眠りに落ちたのだった。
 自分はなぜ突然眠ってしまったのか、と言う新たな疑問が湧きあがったが、慣れ親しんだ人物が記憶の最後に居た事で、セインの中の不安は少しだけ勢力を弱めた。不安が弱まると同時に、冷静さを取り戻すと、現在の状況を把握しようと考えるに至った。
 まず、ここがどこかを確かめよう。そう考えたセインは、自分が寝そべっているものを指で撫でてみる。
 硬く冷たい手触りは、明らかに石だった。どうやら、床の上で寝ていたようだ。体が痛くなるのも当然だなと思いながら、セインは体を起こして立ち上がろうとした。
 しかし、立つ事はかなわなかった。金属音が鳴り響くと共に、両の手首と右足首が重く引かれたためだ。
 セインは再び不安を強めながら、自身の手首に触れてみる。石畳よりも更に冷たく硬い感触がした。何らかの金属だろう。おそらくは、鉄の枷。
 枷から伸びる鎖と思わしきものを、恐る恐るたどってみる。それはセインの身長の半分程度の長さしかなく、床と壁の境目あたりに繋がっていた。
 引っ張ってみたが、こすれあう金属音が強まるだけだった。かなり頑丈そうで、人の力でははずす事もちぎる事もできそうにない。
 俺は、囚われているのか。
 理解すると、セインの心は急に静かになった。落ち着いたから、ではない。逃れようのない絶望感に支配される事で、抗う気力を失ったのだった。
 囚われる原因に心当たりはある。最後に見た人物は、むしろその原因からセインを守ってくれる存在だったので、多少の不自然に感じたが、セインの知人である前にガーフェルートに仕える男であるリュクセルが、セインの存在がガーフェルートに害を及ぼすと判断したのだと考えれば、辻褄は合った。
 囚われたからには、やっぱり殺されるんだろうか――そう考えた瞬間、セインの脳裏に蘇ったものは、幼き日に焼きついた記憶の一部だった。
 夜の闇の下、業火の中にひとり、毅然と立ちつくす女性の背中が、徐々に遠ざかっていく。母だ。単純に別れが寂しかったのか、幼いながらに母の覚悟に気付いていたのか、セインは必死になって手を伸ばし、母を呼ぼうとした。けれど、柔らかな手に口を塞がれる。「呼んでは駄目」「お願いだから静かにして」と、耳元で優しい声が囁く。その声も母と同じくらい毅然としていたけれど、少しだけ涙に震えていた。
 父に科せられた無実の――だと母は信じていた――罪で父は死に、母は死んだ。今度は自分の番なのだと、妙に冷静に受け入れたセインは、逃れられないならせめて少しでも楽な姿勢をとろうと、壁にもたれる形で座る。
「アーシェリナ様……」
 自然と口をついたのは、六年以上も仕えてきた主の名だ。
 一番の、唯一の心残りは、父の汚名をそそぐ事でも、自分を逃がすために壮絶な死を選んだ母のために生きようと思う事でもない。自分の前だけで笑う、誰にも愛されない少女をひとり残してしまう事だった。
 涙が出そうになる。ごまかすようにセインは、膝を抱え、顔を埋めようとした。
 その瞬間、強い違和感を覚えたセインは、小さく手を動かし、触れるものを確かめる。柔らかい。それに、滑らかな手触りだ。
 今度は膝だけでなく、肩や腕、腹にも手を伸ばしてみた。やはり同じような感触があり、セインはようやく、自分が上等な衣服に着替えている事を知った。
 着替えているだけならば、さほど疑問に思わなかっただろう。囚人に決まった服があっても不思議はないからだ。だが仮に囚人服があったとして、上質な布で作られているとは、少し考えにくい。
 セインは更に手を伸ばし、服の形状を確認する。絹か何か、とにかく肌触りのいい布が、たっぷりと使われている。レース地が重なっている部分があった。リボンがあしらわれている部分も。袖口はふんわりと柔らかいし、足首を撫でる空気の感触は、慣れていないものだ。勘違いでなければ、どうやらドレスのようだ。
 なんだ、これ。
 悪寒が走り、体が震えた。鳥肌が立った。どうやらローゼンタールの人間として捕らえられているのでは無さそうだと判ったが、ちっとも安心できない。むしろ、理由の得体が知れない分、吐き気がするほど気持ち悪かった。
 自分にこんなものを着せたのは誰なのだろう。リュクセルなのだろうか。一体、何のために? 年端のいかない少年を女装させて喜ぶような趣味を持っているのだろうか――あの男が? 強くて、常に落ち着いていて、兄や父親のように接してくれたリュクセルが? まさか、ありえない。だってリュクセルは、いつも変わらないように見えるけれど、アルシラの事を語る時だけ、少し眼差しが優しくなるのに――
 不安がセインの思考をめまぐるしく走らせ、混乱を余計に深める。無意識に固く手を組んでいた。解放と救いを求めて、祈るように。
 石畳を打つ小さな足音が聞こえてくると、セインは身を強張らせた。音が少しずつ大きくなるにつれ、緊張が増す。足音の主は誰なのか、自身にとって救済者となりえる人物なのか、そうでなければ一体どうなってしまうのか、判らない事が恐ろしかった。
 足音が一度止まる。かちりと、小さな音。鍵を開けたのだと判ったのは、重厚な音と共に扉が開き、淡い明かりが室内に飛び込んできた時だった。
「エルロー、様……?」
 温かみのある色の灯火を手に現れたのは、深い紫色の瞳を持つ貴公子だった。波打つ黒髪も、顔立ちも、全てがアーシェリナやエイナスによく似ていて、アルシラに確認を取った事も手伝って、彼がエルローである事は疑いなかった。
 長い睫に覆われた双眸が、優しくセインを見下ろす。一瞬だけ泣いているように見えたのは、エルローが手にする燭台にともる炎が揺れているせいだろうか。
「あ……あの、ここは、どこです? どうして俺は、こんな格好で、ここに繋がれているのか、判りますか……?」
 他にどうして良いか判らなくなったセインは、勇気を出して話しかけてみる。
 エルローは微笑んだ。僅かに目を細め、唇の両端を吊り上げて。静かだが、何かに酔いしれるような、恍惚とした笑みだった。
 セインは本能的に、その笑みが自分に向けらたものではないと察した。ならば誰にと考える前に、俯いて目を反らす。見てはいけないものを見ているような気がしたのだ。
「久しぶり」
 セインの正面に片膝を着き、穏やかな声でエルローは言ったが、「久しぶり」と言われる心当たりがなかったセインは、何も返せなかった。
「フィアナランツァ」
 懐かしい名を耳にすると、セインは急いで顔を上げた。
「どうして、その名前を」
 一度は解放された恐怖に再び囚われたセインは、震える声を上げる。
 姉の名を上げると言う事は、やはり、そうなのだろうか。ローゼンタールの血族である事を知った上で、こうして拘束しているのか。
「俺が何者かを、知って?」
 セインは問うたが、エルローは答えるそぶりを見せなかった。恐る恐ると言った様子でセインに手を伸ばし、頬に触れる。柔らかな感触を指先で確かめると、笑みを強めた。
「夢じゃないんだ」
 背筋に軟体動物が這うような悪寒が走り、肌があわ立った。セインは一瞬身を強張らせてから、少しでもエルローと距離を置こうと体を引きずって後退したが、すぐに硬い石壁が背中にあたった。
 セインが必死になって広げた、拳ひとつ分にも満たない距離を、エルローは即座に詰める。白銀に指を絡ませながらセインの頭を引き寄せると、そっとセインの髪に唇を埋めた。
 艶かしい声が、耳元で囁く。
「切ってしまったんだね。もったいないな。あんなに綺麗だったのに」
「エルロー様……?」
 セインはエルローの手から逃れようと、腕を張ってエルローの胸を押し返し、あるいは強く首を振り、エルローを突き放そうとする。
 だがエルローはけしてセインを解放しようとしなかっので、体格でも、単純な腕力でも、自由度でも劣るセインの抵抗は、何の意味も持たなかった。じゃらじゃらと鎖を鳴らして静かな空間を騒がしくする事が、セインにできる全てだった。
「九年だよ」
 エルローは僅かにセインから身を離し、怯える氷色の瞳を正面から見下ろす。寂しさを秘める妖艶な笑みは、まるで魔神のもののように凄みを秘めていた。
「長かったね。ずっと、会いたかったね。僕らはこんなにも求めあっていたのに――運命は残酷だ」
「やめろ。触るな」
「嬉しい。ようやく会えた。こうして、触れ合う事もできる」
「放せ!」
 エルローの瞳に映る自分が、かつての姉によく似ていたから、繰り返される甘い声が、何度も何度もフィアナランツァと呼ぶから、セインは理解せざるをえなかった。
 この青年は自分を、フィアナランツァの代わりにしようとしているのだと。
「放せぇ!!」
 喉が裂けるほど、叫ぶ。
 なぜエルローが姉を親しげに呼ぶのか、ふたりがどのような間柄だったのかなど、冷静に考える余裕はない。ただ考えるのは、どうすれば自らの体を拘束するものや体の上を這い回るものから逃れられるのか、それだけだった。


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