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一章



 雨は激しくなっていたが、雨具を身に付ける時間すら惜しんで、アルシラは館を飛び出し、裏庭を走り抜ける。別館に辿り着くと、濡れた手にまとわりつく水滴を飛び散らしながら、乱暴に扉を叩いた。
 自分の力ではエルローやリュクセルを止められないだろうと、アルシラは判っていた。ならば、とりあえずほとぼりが冷めるまでの間、セインをどこかに隠すしかない。リュクセルにも見つけられなかったとなれば、諦めてくれるかもしれない――長い時間がかかるかもしれないけれど。
「セイン! セイン!」
 弾む息を押さえ込み、力いっぱい名を呼ぶ。しかし、セインは出てこなかった。
 雨風の音に紛れて、声や扉を叩く音が届かないのだろうか。アルシラは数瞬迷ってから、今は緊急事態なのだからと自分に言い訳し、扉に手をかける。だがアルシラが開けるよりも先に、内側から扉が開いた。
「セイ……」
 名前を呼ぼうとして、声を飲み込む。顔を出した人物がセインではなかったからだ。
 波打つ黒い髪を持つ、眩いほどの美貌の少女。そんな状況ではないと判っているのに、うっかり笑ってしまいそうになるほど、エルローによく似ていた。纏う空気の柔らかさは、エルローから大きくかけ離れていたが。
「アーシェリナ様ですね? 失礼いたしました。私はエルロー様にお仕えする、アルシラ・イルン・フォスターと申します。セインの友人です」
 アルシラが名乗ると、アーシェリナは表面に出していた脅えを消し去り、にっこりと笑った。身元をはっきりさせ、セインの知り合いだと説明した事で、知らない人物を目の前にした緊張が解れたのだろう。
 しかしアーシェリナは、言葉では何も応えてくれなかった。表情のわりに内心では警戒しているのだろうかと考えかけたアルシラは、以前セインから聞いた話を思い出す。そうだ、確かアーシェリナは、ギアスをかけられたせいで自由に喋れないのだ。
 一方的に話しかけるのは申し訳ない気がして、アルシラはこれ以上問いかける事に戸惑いを覚えたが、セインの危機なのだと自身を奮い立て、声を出す。
「お手数おかけして申し訳ありませんが、セインを呼んでいただけませんか?」
 困惑した顔で、アーシェリナは首を振る。
 言葉が使えない分、彼女は表情や仕草で相手に意思を伝える事に慣れているのかもしれない。今首を振ったのは、「嫌だ」との意味ではなく、「無理だ」との意味が込められている事が、初対面のアルシラでもはっきり理解できた。
「外に出られない状態なのですか?」
 アーシェリナは再度首を振る。
「では、中に居ない、とか?」
 今度は首を縦に振ってくれたが、理由が判ったところで、嬉しくなかった。居場所が特定できないのは、アルシラにとって都合が悪い。
「どうして……この時間はいつも中に居るのに、今日に限って」
 次はどこに探しに行くべきかと考えるアルシラの右手に、やや小さな手が触れる。ふと見下ろすと、アーシェリナがアルシラの右手を取り、てのひらを広げ、上に向けていた。
 何をするつもりか判らなかったアルシラは、無言で見守った。アーシェリナが指でてのひらを撫でた時は驚いたが、それが字をしたためているのだと気付くと、意識を集中した。この話の流れで、わざわざこのような行動を取るのだ。彼女はセインの行き先を知って居て、教えてくれようとしているのだろう。
(セインは十日に一度、この時間に森へ)
「森……ですか?」
 何の事だか判らなかった。
 セインが行動を許されている範囲は、屋敷の敷地内だけだ。それも建前上で、事実上はアーシェリナの別館内と裏庭だけ。屋敷の外どころか街の外まで出なければない森に出向くとは、少し考えにくかった。一度や二度くらいならば、人目を忍んで出る事に成功するかもしれないが、十日に一度と言う頻度で外に出ていたら、てだれの盗賊でもない限り、誰かしらの目に止まってしまうだろう。
 ならば、彼の行動範囲の中で、森と呼べる場所は――

 高い木々の向こうに、捜し求めていた人影を見つけた。
 アルシラは乱暴な足取りで草を踏み分け、大きな音を立てる。声をかける事すら難しい空気の重苦しさに耐えられず、相手に気付いてもらうために、わざとそうした。
 セインを抱き上げているリュクセルが、音に反応したのが判った。アルシラに気付いているのだろう。しかし、けして振り返ろうとはしない。
「どうして」
 疑問は次々に湧いてきた。
 先程アルシラはリュクセルから走って逃げた。リュクセルよりも先に、セインを探しに飛び出したのだ。それなのになぜ、リュクセルの方が先にセインを見つけるのだ。セインが今日この時間にこの場に来る事を、知っていた?
 それはつまり、リュクセルがセインと知り合いである事を意味する。いつ、どこに居るかを判断できるほど、親しい間柄で? けれどアルシラはこれまで一度として、セインの口からリュクセルの話を聞いた事などなかったし、その逆ももちろんなかった。
 ふたりの関係だけではない。十年近く前に左目を失った時から一度としてはずさなかった眼帯をリュクセルが身に付けていない事や、特に外傷もなさそうなのに昼の雨降る庭でセインが意識を手放している事も、アルシラにとっては謎でしかなかった。
「もしお前が、私より先にセインを見つけて逃がしていたら……その時は、見逃そうと思っていた」
 アルシラは己の体が震え出すのを感じていた。
 雨に打たれて冷えたからではない。悔しさと怒りが、体の奥から溢れてくるのだ。
「どうして、セインがここに居ると判ったのです?」
 尽きぬ疑問の中から、一番強いものを口にすると、リュクセルは振り返る事なく答えた。
「お前がセインと知り合うよりも前から、私はセインと知り合っていた。セインを買うと決めたのはエイナス様だが、彼を屋敷へ連れてきて、アーシェリナ様の世話役をするように言いつけたのは、私だからな。その関係でしばらくは、彼の面倒を見ていた。手がかからなくなってからも、たびたび会った。彼が、アーシェリナ様を守れる力が欲しいと言うから――十日ごとにここで会い、訓練をする事になった」
「はじめてお聞きました」
「はじめて言った。私たちはお互いに、私が彼をガーフェルート邸に連れてきた事を、あまり公にしたくないと思っていたからな。余計な事を口走らずにすむように」
「余計な事、とは?」
 アルシラにも話せない、ふたりだけの秘め事なのは判っていた。それでもアルシラは、切り込んで聞いた。
「セインがいつから奴隷としてアーシェリナ様に仕えているか、知っているか?」
 思っていたよりも簡単に、リュクセルは口を開いた。秘密を明らかにする事を、事前に覚悟していたのかもしれない。
「確か、六歳の時……六年半ほど前からだと、聞いています」
「その時期に、エイナス様が彼を見つけ、私が彼を連れてきたとなれば、おのずと予想が付くだろう。私たちがどこで出会ったのか」
 アルシラは記憶を辿りはじめるとほぼ同時に答えに行きついた。
 六年半前、エイナスはリュクセルを連れて遠出をした。それらしい理由を何かしら付けて出かけたはずだが、よく覚えてない。本当の目的が、亡き親友の家族が命を落とした地を見に行く事であるのは、誰の目からみても明らかだったからだ。
「ロマール、ですか」
 リュクセルは無言で肯定する。
 アルシラは無意識に、冷えて感覚を失った指先で、服の裾を握り締めた。
「ローゼンタール候のご令嬢、フィアナランツァ様は、九年前当時十二歳。そしてご子息のダリュスセイン様は、四歳になったばかりだったと、記憶しております。生きておられれば、十二か十三」
「そうだな」
「セインと同い年です」
「そうだ」
「では、ローゼンタール家の方々が炎に巻かれて一家心中したとの話は誤りなのですか? セインがフィアナランツァ様によく似ているのは、偶然ではないと?」
「ああ、そうだ」 
 リュクセルの、アルシラの推測を認める声が、徐々に荒くなっていく。それに気付いたのか、リュクセルはひとつ深呼吸を挟んだ。
「私は以前、セインに言ったのだ。エルロー様にはけして会うなと。顔を見せる事すらするなと。フィアナランツァ様を失って傷付いたエルロー様のお心を更に痛めるような事をしたくなかったから――いや、こうなる事が判っていて、セインの身を守るためだったのかもしれない」
 語る静かな声はあまりに悲痛で、アルシラは口を挟めなかった。祈るように、両手を固く組む。
 ただ声を聞いていれば、リュクセルの痛みを少しでも受け止められるのだろうか。少しでも、和らげる事ができるのだろうか。ならば一生口を閉じて、ずっと耳を傾けているのに。
「セインが一体何をしたと言うのだろうな。どれほどの罪を犯せば、これほどの罰が下るのだろう。セインが……どうして、このような」
 気付くと、アルシラの瞳から涙が零れ出ていた。冷えた頬を伝う涙は、今まで気付けなかった温もりに気付かせてくれた。
 これは、アルシラの涙ではない。エルローのために感情を押し殺したせいで泣く事ができないでいる、リュクセルの涙だ。リュクセルはセインが負う痛みを知っている。他人の心など全てが判るわけではないけれど、理解しようとしている。セインに課せられた重すぎる運命を。
 今日まで生き延びるだけでも、辛かっただろうと。肉体的にも、精神的にも。貴族に生まれ育った少年が、突然見知らぬ街に放り出され、挙句人間以下のものへと貶められるなどと、酷い屈辱だっただろうと。
「私には、どれほどの罰が下るのだろう」
 アルシラは急に恐くなった。
 セインを――フィアナランツァを手に入れて、エルローがどうするつもりかなど知らない。だがきっと、セインから無邪気な笑顔を奪うだろう。仕える少女のために聞いていて恥ずかしくなるような恋歌を覚えようとした、仕える少女の笑顔を必死に守ろうとした、強さも。
 それが失われたら、リュクセルの穏やかな笑顔も、同時に消えてしまうのだろうか。
「まだ間に合います。セインをそこに置いて、離れてください。お願いです、リュクセル様。こんな事、誰のためにもなりません。皆が傷付くだけです。エルロー様だって、フィアナランツァ様の虚構を追ったところで、何も得られませんよ」
「それは違う。確かに得られるものがある」
 アルシラは怒鳴った。
「どうしてそんなにエルロー様の無茶に付き合うのです! 逆らう事が恐いのですか? でしたら、私が……!」
「お前には判らないだろう、エルロー様の事は」
「ええ、判りません。ですが貴方が今、エルロー様に負い目があるあまりに、大いなる間違いを犯そうとしている事は判ります」
 ひときわ雨が強くなった。その音に声が消されないよう、アルシラはきっぱりと言い切った。
「貴方はおっしゃいました。自分が正しいのか間違っているのか、判らないと。だから私は、正しい答えを叫んでいるのに……どうして貴方は、判ってくださらないのですか」
 リュクセルはゆっくりと首を振る事で、アルシラの言葉を払いのけると、セインを抱きかかえたまま、静かにアルシラの横を通り過ぎた。
 すれ違う瞬間、リュクセルは呟く。
「私にはお前の言葉が理解できない。お前が、エルロー様の事を理解できないように」
 アルシラは即座振り返り、リュクセルの背を睨む。
「理解できないわけではないのでしょう? 貴方はただ、エルロー様と同じところに堕ちるために、理解できないふりをしているだけ」
 アルシラがどれほど叫んでも、リュクセルは歩みを止めなかった。全ての感情と、アルシラの言葉や存在そのものを振り切るかのように、一目散に進んでいた。
 アルシラはリュクセルを追いかける。引きとめようと、リュクセルの腕に手を伸ばす。
「触るな」
 かつて聞いた事もないほどの冷たい声が、アルシラの胸を刺した。
 完全な拒絶。足が竦んだ。目を見開く。溢れる涙も、止まってしまう。こんなにもリュクセルとの間に壁を感じたのは、はじめてだった。
 怖かった。考える事も感じる事も、やめてしまいたくなるほど。
 けれどアルシラは、大切なものを失いたくない一心で、震える心と体を奮い立たせ、リュクセルに縋った。
「リュクセル様、私は、こんなのは嫌です」
「頼む。放してくれ」
「嫌です」
 混乱と動揺のあまり、まともな言葉が出てこない。それでも伝えたかった。気付かないふりをするための仮面を、剥いでほしかった。
 リュクセルが歩みを止める。ようやく想いが伝わったのかと、アルシラは喜びの笑みを唇に浮かべたが、リュクセルがまとう空気は、アルシラにとって優しいものではなかった。
 リュクセルはゆっくりと振り返る。
 引き締まった唇から、困惑が伝わってきた。いつも見上げる紅茶色の右目からは迷いが。事故の日以来初めて見る左目からは、悲哀と――強い魔力が。
「リュ、クセル、さ……」
 見つめられたのは一瞬。
 強烈な睡魔が内から湧き出し、視界が歪み、体が揺れる。こんなところで倒れるわけにはいかないと、アルシラは必死になって睡魔を振り払おうと試みたが、抵抗する事は叶わなかった。
「お前にだけは見せたくなかった」
 地面の上に倒れ込んだアルシラは、ゆっくりと重い瞼を伏せる。
「化け物じみた、人以外の生き物に成りはてた、今の私を」
 閉じていく意識の終わりに聞こえたのは、震えるリュクセルの声と、雨の音。


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.