INDEX BACK NEXT


一章



 リュクセルは窓の外を眺める。そこには傾きかけた太陽から惜しみなく注がれる光溢れる庭があり、眩しさのあまり目を細めた。
 世界はこんなにも、明るい。その明るさには、窓を開け、手を伸ばすだけで届くはずだ。それなのになぜ、この屋敷には、強い闇が滞うのだろう。
 愛する事に不器用だからだろうか。傷付ける事を恐れて本音を語らなかったからだろうか。
「アルシラ」
 リュクセルは視界から外れて久しい者に語りかけた。
「私には、判るのだ。誰より深いあの方の孤独も、なぜあの方が、これほどまでに侯爵令嬢に捉えられているのかも。私とて、同じようになったのかもしれない」
 リュクセルは目を伏せる。そして、左目を隠す眼帯を剥ぎ取る。
「お前が、居てくれなければ」
 アルシラは言った。エルローは狂っていると。それをリュクセルは否定しなかった。
 狂わせたのは自分だと、そうリュクセルは思っている。もちろん、どうにもならない多くの要素が重なり合っての結果なのだが、リュクセルだけは、リュクセルだけが、変えられた。エルローに与える影響を、これまでの、これからの、彼の運命を。リュクセルが、自身にとってのアルシラのように、エルローの救いになれていたなら、きっと今のようにはならなかっただろう。
 それが罪であるのなら、償わなければならない――どんな手段をもってしても。
「この時間は、森、だな」
 確信を持って呟いたリュクセルは、両目を開く。そして、ゆっくりと歩き出す。
 眼差しの奥に暗い決意を、胸の奥にはエルローとの誓いだけを秘めて。

 その一角は、太陽の恵みも水の恵みも豊富ながら、裏庭の中心であるために、人目につく事も人が立ち入る事もほとんどない。そのため、大した手入れもされずに放置されており、必要以上に草木が生い茂っている。
「まるで小さな森みたいだ」
 かつて幼き日のエルローは、そう言っていただろうか。
 ここが全てのはじまりだったのかもしれない。リュクセルは背の高い木々が立ち並ぶ様を見上げながら、思う。あの日ここに来なければ、別の言葉を投げかけてやれば――
 いや、やめよう。後悔は誓いを揺らがせるだけだ。
 リュクセルは、脳裏に渦巻くものを排除し、できる限り空白にすると、緑の中へ足を踏み入れた。
 穏やかになった雨が葉を打つ音と、リュクセルが草を踏みしめる音が、重なり合って美しい音楽を響かせる。平時ならば心地よく思えたかもしれないが、今はただ耳障りで、振り払うようにリュクセルは先を急いだ。
 やがて本当の音楽がリュクセルの耳に届いた。高い、少年の歌声だ。
 歌詞を覚えきっていないのか、ところどころ鼻歌になるその歌を、リュクセルはよく知っていた。ときおりアルシラが歌う、遠い昔にあった王国の王女と騎士の恋物語だ。
 歌声を追って顔を上げると、ひときわ大きな木のそばに、セインの姿があった。太い幹に背を預け、空を見上げている。今は育った枝と生い茂る葉が屋根になってくれているが、ここに来るまでに雨に打たれたのだろう、風が吹き込むと震え、濡れた体を縮こまらせた。
「アーシェリナ様がさ、窓からここを眺めながら、絵本に出てくる森みたいだって言ってたんだ」
 セインの口から語られるアーシェリナは、少しだけエルローに似ている。リュクセルはそう思う事がたびたびあった。感性が近いのだろうと。
 それは血の繋がりゆえ、だけではないだろう。アーシェリナもエルローと同様に、親によって深い孤独の淵に追いやられた子供であるから、なのだろう。
「俺はそうですねって返すしかできなかったよ。だって、言えないだろ。本当の森は、こんなに小さくないですよ、なんて。外に連れ出してあげる事もできないのに」
 ならば、エルローも救えるはずだ。
 アーシェリナのように、気付いて目を止めてくれる者が、寂しさから救ってくれる者が、そばに居れば。
「セイン」
 リュクセルもまた太い幹に寄りかかる。セインから顔を反らしてから、声をかけた。
「遅かったな、リュクセル」
 振り返ったセインは満面の笑みを浮かべている。声も少し弾んでいるので、待ちわびていたものが到着した事に、素直に喜んでいるのだろう。
「あれ? 今日は眼帯してないんだな。どうしたんだ? あれがあった方が、顔が締まってかっこいいと思うけど」
 リュクセルは目を伏せてから静かに微笑んだ。湧きあがる感情や迷いを、全て噛み潰すために。
 そして目を開く。紅茶色の右目と、対照的な深い青の左目を、同時にセインに向けた。
 目が合う。その瞬間、リュクセルの左目が放つ魔力に囚われ、セインの体が硬直する。
 硬直したのはたった一瞬。あとは、眠りと共に、力が抜けていくだけだ。
 これこそが、失った左目の代わりに、エルローに与えられた新しい目が秘める力だった。スリープ・アイと呼ばれる、魔法王国時代の遺物。並みの人間には抗えない、深い睡魔へと誘い込む、魔法の力。
 失った視力は、すさまじい力を得ると同時に取り戻していた。けれどこんな目を、エルローや、周囲の者に向けるわけにはいかない。なくしたままのふりをする以外に、どうすればよいのか、リュクセルには判らなかった。
「リュ……クセ……」
 助けを求めるかのように、リュクセルに腕を伸ばしながら、セインの体は崩れ落ちていく。
 やがてセインが完全に意識を失うと、リュクセルは手を差し伸べ、セインの体を支えた。口元にそっと耳を寄せ、小さく規則正しい寝息を確かめた。
「すまないな、セイン」
 聞こえていない事を知りながらも呟いて、リュクセルはセインを抱き上げる。思っていたよりも細く軽い体は、それだけでリュクセルの良心を苛んだ。
 だがもうこの痛みに意味はない。引き返す気など、ないのだから。


INDEX BACK NEXT 

Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.