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一章



 アルシラの背が、急速に遠ざかっていく。
 通路を駆け抜く足音が小さくなるたびに、左目が疼く気がした。その痛みは、リュクセルの記憶の中にある幼い少年の姿を呼び起こし、より鋭い痛みとなって、リュクセルの胸を突いた。

 脳裏に蘇るのは、黒い髪の子供だ。親譲りの美貌を持って生まれ、伯爵家の嫡男としてあらゆる贅沢とあらゆる教育を与えられた少年。
 誰もが彼を見て、恵まれた、幸せな子供だと思っていたのだろう。だがリュクセルは知っていた。周囲にどれほど人が居ても、いや人が居るからこそ、彼は深い孤独の中に居るのだと。結果としてそれは、父に疎まれ追いやられる事になる妹が抱くものよりも、はるかに深いものとなった。
「僕を見てくれるのは、お前だけなんだな」
 突然エルローがそう言い出したのは、彼がまだ十歳にもならない頃だった。
 エルローはいつもつまらなそうにしていて、どこか陰のある表情しか浮かべない少年だったが、限られた場所においては、屈託なく笑う事があった。リュクセルの前か、妹であるアーシェリナの前だ。
「アーシェリナ様もおられましょう」
「アーシェリナは、誰にでも着いていくだけだよ。一応僕が兄だって事は判ってはいるみたいだし、今は懐いてくれて、可愛いけど」
 エルローは大きなため息を挟んだ。
「もう少し大きくなって、自分で考えて動くようになったら、どうなるか判らない」
 思えばこの時からエルローは、両親に期待されながらも見捨てられていたせいで、血のつながりと言うものに信頼を置いていなかったのだろう。そして幼いがゆえに、はじめから最悪の未来を想像する事でしか自衛できなかったのだろう。
 だがこの時のリュクセルは、それを理解してやれるほど大人ではなく、まだ三つか四つにしかなっていない妹のあどけなさを疑うエルローの寂しさを、おぼろげに感じるだけだった。
「だからさ、リュクセル。僕はお前が大好きだ」
 生意気だが利口で、寂しいくせに強がる少年の姿は、とても微笑ましい。リュクセルは両目を細めて、向けられる笑顔に笑顔で返した。
 その日が最後だったかもしれない。エルローがリュクセルの前で素直に笑ったのも、リュクセルがエルローの前で素直に笑ったのも。

 当時のリュクセルはエイナスの使いとしてどこかに行ったり、あるいは護衛としてエイナスと共にどこかに出かけたりする事が多く、ガーフェルート邸を離れる日が少なくなかった。そんなある日、五日ぶりにガーフェルート邸に戻ると、屋敷中が大騒ぎになっていた。
 聞けば、エルローの姿が朝から見えないと言う。外に出た様子はないし、エルローは時おり周囲の迷惑を考えずに行動する子供だったので、使用人たちは皆、彼が自らどこかに隠れているのだろうと考えていたが、何者かに攫われた可能性を捨てきる事はできず、慌てて探し回っているがゆえの騒ぎだった。
 当然リュクセルもエルローを捜す手伝いをする事となったが、気分は落ち着いていた。悠然とした歩みで、ばたばたと走り回る使用人たちをすり抜け、庭に出た。表の庭園ではなく、背の高い木々が立ち並ぶ、裏庭の緑の一角に。
「エルロー様」
 リュクセルが名を呼ぶと、中でも一番背の高い木の葉が揺れた。ひらりと、一枚の葉が地面に落ちてくる。
 なかなか見つからないのだから、あまり人の出入りがない場所に居るのだろうと思っていたが、まさか木の上とまでは考えてなかった。リュクセルは身をかがめ、落ちた葉を拾ってから、真上を見上げた。
 茂る葉や枝の向こう、比較的太い枝の上に、エルローが座っている。
「皆が捜しておりますよ」
「誰を」
「もちろん、エルロー様を」
「エルロー・ガーフェルート様、をだろ」
 それはリュクセルにとっては同じ人物を指していたが、エルローにとっては大きく違う意味を持っていた。
 エルローにとっての区分けに従うなら、使用人たちが捜している人物は確かにエルロー・ガーフェルートで、エルローにとって、あまり好ましい事ではないのだろう。
 エルローが抱えているものを、他の者よりいくらか知っているリュクセルは、別の言葉を選んで口にした。
「私が、エルロー様をお迎えに参りました」
 返事はなかったが、撥ね退けるかのような冷たい声よりもずっとましだとリュクセルは思った。
「長い間おそばを離れており、申し訳ありませんでした」
「別に。父上の命令だろ。それが、お前の仕事だろ」
 まったくその通りなのだが、素直に肯定するほどリュクセルは幼くなく、微笑んでごまかすしかなかった。
 エルローはときおり、いたずらをしたり、ものに当たったり、いわゆる「周囲の迷惑を考えない行動」を取るが、それは大抵、突然でも、前触れがないわけでもないと、リュクセルだけは知っていた。
 寂しい時にそうするのだ。たとえば親に拒否された時。たとえばアーシェリナと話せなかった時。たとえば、リュクセルが長く離れていた時。誰かに振り向いてほしいのだ。エルローが望む形で振り向いてくれる者などおらず、余計に寂しい想いをすると判っていても、そうせずにはいられないのだ。
「エルロー様、戻りましょう」
「嫌だ」
「このままでは、向き合ってお話する事ができません」
「そうしたいなら、お前が登ってくればいいじゃないか」
 エルローはそれまで座っていた枝の上に立ち、更に高い位置からリュクセルを見下ろした。
 できる事なら言う通りにしたかったが、運の悪い事に、エルローが登った木は、背が高いだけであまり頼もしい木ではなかった。エルローのような小柄な少年ならば大丈夫だったのだろうが、リュクセルのような大柄な青年が手や足をかけても耐えられるかどうかは怪しかった。
 リュクセルが迷っていると、エルローは更に高いところに行こうと言うのか、別の枝や幹に手足をかける。その様子は慎重さに欠け、ただがむしゃらに上を目指しているようだった。
 木は大きく揺れ、沢山の葉が一度に舞い降りる。
 葉に視界を遮られ、リュクセルは主の姿を見失った。
「エルロー様!」
 最後に見た主の姿に不安をかきたてられ、リュクセルは叫ぶ。
 声に、激しい音が重なった。枝が折れた音だと理解したのは、直後に悲鳴が響いた時だった。
「エルロー様!」
 再度叫びながら、リュクセルはエルローの姿を捜す。沢山の葉を突き破り、エルローが現れると、全力で駆け寄り、手を伸ばし、抱き止め、その勢いで地面を転がった。
 エルローが受ける衝撃はできる限り殺したつもりだが、それでも多少の痛みはあったのか、エルローは肩をさすりながら、リュクセルの腕の中から這い出る。
「あ……ありがとう、リュクセル」
 高い位置からの落下で目が回ったのか、単純に恐ろしかったのか、感謝を述べるエルローの声は少し上ずっていた。
 声をかけてやらねばなるまい。怯えているならば、安心させてやらなければ。
 だがリュクセルは、エルローに何もしてやれなかった。全身、特に左目に強い痛みが走り、思う通りに動かない。声すら、出せない。エルローを抱き止めていた腕から、がくりと力が抜けた。
「リュクセル?」
 ゆっくりと、リュクセルの左頬を温かいものが伝う。
 感覚が麻痺しつつあったリュクセルには、その正体が判らない。涙したのだろうか。痛みのあまり? それは少し情けない気がした。
「リュクセル! リュクセル!」
 エルローが、リュクセルの体を揺すりながら泣き叫ぶ。それがリュクセルにとっての、意識を失う前の最後の記憶だった。

 記憶の続きは次の日の朝、違和感を覚えながら目覚めたところからはじまる。
 違和感の原因はすぐに判った。景色を映したのが、右目だけだったからだ。左目は激痛のため開くところではなく、仮に開けたとしても、巻きつけてある包帯のせいで何も映せなかった。
 朦朧とした意識の中で、リュクセルは右目に映る世界に縋る。手前には心配そうに見下ろしてくるアルシラの顔、奥には医者の姿があった。
 アルシラは何日も眠っていないのではと疑うほど疲れた顔をしていた。顔色もそうとう悪かった。彼女が眠れない夜を過ごしたのは一晩だけだったわけだが、たった一晩でこれほど焦燥したのかと思うと、余計に申し訳ない気になったものだ。
「よかった、リュクセル様……!」
 アルシラの両手が、リュクセルの手を握り締める。祈るように、額を寄せて。同時にアルシラの双眸からは、大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。触れる手と流れる涙から、体にも心にも温もりが伝わってきた。
 元気を分けてもらった気がした。眠ったままでいたくなく、体調が万全でないのは明らかだったが、リュクセルは上体を起こしてみた。あちこちに痛みが走ったが、耐えられないほどではない。場所によって軽度と重度の差はあれど、打撲やすり傷ですんだようだ――ある一箇所を除いて。
 意識がはっきりするにつれて、記憶が蘇ってきた。木の上から落ちてくるエルローを受け止めた事や、左目に受けた鋭い痛み、頬を伝った生温かいもの。
 ああ、そうか。
 リュクセルは左目を覆うような形で、自身の顔に触れた。
 あれは涙などではなく、血だ。
「折れた枝が、君の左目を刺していてね」
 医者が暗い声で、神妙な顔で語る。
 涙目のアルシラが責めるように医師を見たが、リュクセルは無言で制止した。意識を取り戻したばかりの状態で聞くには酷な話なのだろうと判っていたが、客観的な視点に立つ人物から語られる現状を聞きたかった。
「幸いと言うべきか判らんが、傷は浅い方だった。眼球以外は、どこも傷付いていない。しばらく安静にしていたほうがいいだろうが、すぐに今まで通り動けるようになる。左目以外はね」
「左目は、どうなります」
 医師は首を振った。
「私の手では……いや、どんな天才医師の手でも、治す事は不可能だろう」
 医師の言葉はすんなりと耳に入ってきて、大切なものを失くしてしまった事を、リュクセルは思い知った。
 不思議な事に、絶望感はあまりなかった。話を聞く前からある程度予想していたからか、右目がまだ生きているからか――いや、一番の理由は、誇りが胸の内にあるからだろう。
 エルローを守ったと言う、実感が。
「今、エルロー様はどちらに?」
「判りません。明け方まではこちらに居たのですが、思い出したようにどこかに行かれて……」
 答えを聞くと、リュクセルは寝台から這い出した。これはさすがにアルシラだけでなく医者までもがリュクセルを制止したが、「大丈夫です」と無理を言い通し、包帯だらけの体に服を着て部屋を出た。
 心配なのか、アルシラはリュクセルの後ろを着いて来ようとしていたが、「悪いがひとりにしてくれないか」と告げると、寂しそうに微笑みながら見送ってくれた。片目を失ったリュクセルが、どこかひとりで悲しむと思ったのかもしれない。
 そんな事をするつもりはなかった。リュクセルは、さほど辛くないのだから。
 だが予感があった。自分よりも遥かに、悲しみ、苦しんでいる者が、他に居るだろうと。
 重い体を引きずるように歩いたリュクセルは、エルローの部屋の前に辿りつくと、軽く扉を叩いた。応答はなかったが、かすかに中で人が動く物音がしたので、リュクセルは声をかけながら扉を開けた。
 やはり、エルローは部屋の中に居た。入り口に背を向ける格好で座り、リュクセルから顔を反らしている。
「勝手に入ってくるなよ」
「申し訳ありません。ですが、こうでもしないと、会ってくださらないかと思いまして」
 エルローは即座に振り返った。
「そんなわけ……!」
 そして、すぐに体勢を戻し、再びリュクセルに背を向けた。
「そんなわけ、ないだろう。お前が僕に会いたくないって言う事があっても」
「なぜ私がそのような事を?」
「だって」
 少年の声と背中が震える。顔を見ずとも、必死に涙をこらえている事が、はっきりと伝わってきた。
 リュクセルはエルローに歩み寄り、正面に回った。跪いて見上げると、エルローは傷付いた顔をした。いつもは両目が合うはずなのに、片目しか合わない現実が、少年を追い詰めてしまったのかもしれない。
 慰めようとして、リュクセルは小さな頭を軽く撫でる。するとエルローの目から、堪えきれなくなった涙が頬を伝った。
「思い出したんだ。前、宝物庫を見せてもらった時の事。どんな力があるのか、忘れたけど、でも確かこれなら、戻るはず……」
 途切れ途切れに語りながら、エルローは小さな拳を突き出した。
「お前に、新しい目をあげる」
 エルローの強がりも、そこまでが限界だった。とめどなく涙が溢れ、それを拭うだけで精一杯になる。当然語る余裕などなく、ひたすら泣きじゃくった。
 リュクセルがそっとエルローを抱き寄せると、少しだけ落ち着いたようだった。しゃくりあげながら、何度も「ごめん」と言っていた。ときおり「僕のせいで」と自己を責める言葉を口にするので、そのたびにリュクセルは、「エルロー様のせいではありませんよ」と返した。

「お前ももう、僕を見てくれないんだね」
 エルローが突然、そう言い出したのは、リュクセルが片眼だけの生活に慣れ、周囲の者もリュクセルの眼帯姿に慣れた頃の事だっただろうか。
 自覚していなかったリュクセルは、言われてどきりとした。戸惑うあまり何もできないでいるうちに、エルローは駆け足でリュクセルのそばを離れていった。
 冷たい汗が、額にはり付く。それを拳で拭いながら、リュクセルは考える。少年が向けてくる大きな瞳を、どれほどの時間、直視してなかっただろうと。今まで通り接しているつもりでいたのだが、無意識に目を反らしていた事に、今更気付いたのだ。
 それはリュクセルがエルローに対して怒りを向けているからではない。左目を失ったのはエルローのせいではないのだと、リュクセルは本気で思っている。
 だがエルローは、リュクセルの本心も、真実も、知らない。誤解してしまうのは、無理のない事なのだろう。
 それでもリュクセルは、本当の事を告げるつもりはなかった。何も言わずに、目を反らして生きていこう。エルローからも、エルロー以外の者からも――そう、決めていた。
 ひとり立ちつくすリュクセルは、眼帯に触れる。何かをごまかすように、微笑みながら。


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