一章
6
アルシラは雨具を被って、裏庭を突き進んだ。
静かに歩いているつもりなのだが、何度か泥が跳ね、服の裾が汚れてしまう。もっと丈の短い服を着てくれば良かっただろうかと後悔し、一瞬だけ着替えに戻ろうかと考えたが、やめた。あまり時間に余裕がない。それに、これから会いに行く人物には、綺麗な格好を見せる義理も義務もない。諸々の都合を理由に、開き直る事にした。
別館にたどりついたアルシラは、さっそく扉を叩く。しばらく待つと、警戒するかのように少しだけ扉が開き、隙間から冷たい青色の瞳が覗いた。
大きな瞳がアルシラを捉える。すると、扉は急に全開し、セインの姿が現れる。
「アルシラ!」
明るい声でセインがアルシラの名を呼んだ。
セインは感情を隠すのがあまり上手いほうではない。そんな彼が、アルシラを前にして嬉しそうにはしゃぐ姿は、素直に可愛かった。思わずほだされそうになったアルシラだが、何をしにここに来たのかを思い出すと、頑張って眉間に皺を寄せ、怒りを示す。
「セイン。貴方、今日、表の庭に来ていたでしょう」
「あ……」
乾いた笑い声を上げたセインは、ごまかそうとしているのか、胸の前で両手を振った。
ごまかされるものかと、アルシラは軽くセインの手を叩く。
「まったくもう。私が言った事、忘れてたの? できる限り本館の人に顔を見せないようにって、しつこく言ったのに」
「ごめんごめん」
「ごめんじゃすまないわよ。結構大変な事になってたんだから」
セインは急に真面目な顔をした。
「大変って? 官憲呼んだとか?」
「たかが花泥棒のためにそこまでしないわよ」
「あー……ああ、そうか。そうだよな」
セインはあからさまにほっとした顔をした。
庭師が精魂込めて整えた庭を乱したとは言え、たかが花一本持っていっただけだと言うのに、どこまで悪い想像をしたのだろう。意外に小心者なのだと判り、少しだけ楽しくなったアルシラは、声を抑えて笑った。
「笑うなよ」
「だって、あまりに悲観的だから」
「他に大変な事が思いつかなかっただけだって。で? 一体何があったって?」
「えーっと、まあ、言うほど大変だったわけでもないんだけど」
「なんだそりゃ」
今度はセインがアルシラを笑う番だった。
その笑顔があまりにのんきなので、少しだけ腹が立ったが、それでもアルシラは、詳しい説明をする気にはならなかった。
エルローがとある侯爵令嬢と間違えてセインを探している、と真実を告げてしまったら、セインは気分が悪いだろう。彼がしばしば、少女的な容姿を気にしている事を、アルシラは知っていたのだ。
アルシラはセインの顔をじっと見つめた。
やっぱり、似ている。改めて見て、アルシラは心から思った。記憶の中のフィアナランツァの髪を切れば、そのままセインになるだろうと。
初めてセインに会った時から似ていると思っていた。だからこそアルシラは、「仕事上関る相手以外の本館の人間に顔を見せるな」と、セインに言いつけた。エルローがセインを目にすれば、そのたびにフィアナランツァを思い出し、喪失の痛みを強めるだろうと思ったからだ。本当はエルローにだけ会わなければ良かったのかもしれないが、エルローに近しい人物の目に入り、「フィアナランツァに似た子供を見た」と言う噂話が広がれば、それだけでエルローが苦しむかもしれないと考え、条件を厳しくしたのである。
エルローがフィアナランツァの事を忘れただろうと思っていても言いつけを撤回しなかったのは、単純に忘れていただけなのだが、今日のエルローの反応を見る限り、撤回しなくて正解だったのだろう――もっとも、セインがその言い付けを破ってしまったのだから、意味はないのだが。
「ま、俺が悪かったのは認める。こんな雨風の日だから誰も庭に出ないだろ、ってとこまでは考えたんだけど、窓から外を見る奴の事は一切考えなかったから」
「詰めが甘いわね。とりあえず、今後は気を付けてね」
アルシラは軽くセインの鼻先をつついてから、背中を向けた。
「あれ? 用件はそれだけか?」
「そうだけど」
「なんだ。この間の歌の続きを教えてもらえるかと思ったのに」
アルシラは振り返り、再度セインと向き合った。
「この間のは、ただ聞かせてあげただけのつもりなんだけど」
「何で? 教えてくれないのか?」
「教えてあげてもいいけど……貴方以前、『恋歌ばっかり覚えてもなぁ』って不満げに言ってたから、もういらないのかと思ってた」
「正直言って俺はもういらないと思ってるんだけどさ、アーシェリナ様は、やっぱりそう言うのが好きだし」
少しだけ照れくさそうに笑うセインを見ると、アルシラの表情は自然と綻んだ。初めて会った時のセインを思い出して。
誰かに聴かれるのが恥ずかしい気がして、人目を避けるよう裏庭でひとり歌っていたアルシラのそばを、セインが通りかかったのが出会いだった。嬉しい事に彼はアルシラの歌に聞き惚れていて、アルシラが気付いた事に気付くと、照れながら顔を反らしたのだったか。
それから何となく会うようになって、歌を教えたり、一緒に歌ったり、お互いの近況を話したりするようになった。ずいぶん年齢が離れているが、アルシラにとってセインは、このガーフェルート邸で会える唯一の友人だ。
だからこそアルシラは、セインが自身の小さな主を、心から慕っていると知っていた。彼がアーシェリナを喜ばせたいと思うなら、手伝ってやりたいと素直に思う。
「判ったわ。ただし、次の機会にね。今は少し忙しいの。エルロー様に余計な仕事を言いつけられてしまって」
「急ぎか?」
「すっごく」
「どんな?」
「秘密」
「さっきから大げさに言いすぎなんじゃないか?」
そう言ってセインがまた笑うので、ほんの少しの意地悪心が働いたアルシラは、本当の事を話しかけたが、今回も何とか自制する。ぽん、とセインの頭の上に手を置いて、皮肉を込めた笑みを浮かべるにとどめた。
背が低い事を気にしているのか、セインは悔しそうにアルシラの手を払おうとする。その微笑ましい様子を眺め、溜飲を下げた。
「そうですか……フィアナランツァ様が、こちらに」
何も知らないふりをしながら、リュクセルはただ肯いた。アルシラから見える横顔は落ち着いていたが、嬉々としてフィアナランツァの事を語るエルローへの返事は歯切れが悪く、内心複雑なものを抱いているのだろうと容易に見て取れた。
「この目で確かに見た。それなのに、捜しても見つからなかったなんて、アルシラの探し方が悪いんだろう。役に立たない女だな」
エルローは鋭い目でアルシラを睨んだ。
それはフィアナランツァの事を語る時に見せる優しい目と正反対で、フィアナランツァに向ける感情と自分に対して向けられる感情にはこれほどの落差があるのかと、アルシラは思い知った。だが、腹が立つと言うよりも、もの珍しさへの興味の方が強く働く。まったくの他人事であったならば、楽しんでエルローを観察できたかもしれない。
「部下の不始末は上が対処して当然だ。代わりに探し出してくれるね? リュクセル」
フィアナランツァに向けるものとアルシラに向けるもののちょうど間くらいの眼差しで、エルローはリュクセルに振り返る。
音を出さずに鼻で笑って、アルシラは傍らに立つリュクセルを見上げた。
リュクセルはエイナスと共にロマールに赴き、フィアナランツァの死地を目にした経験がある。噂で聞いただけのエルローやアルシラよりもはるかに現実味を持って、かの令嬢の死を受け止めているはずだ。
それに何より、良識ある青年だ。エルローの馬鹿げた願いを聞き入れるはずがない――そうアルシラは信じていたが、リュクセルが一歩進み出た瞬間、嫌な予感がした。
リュクセルは胸に手を当て、言った。
「この左目にかけて、必ず」
アルシラは己の耳を疑った。聞き間違えたのかと思ったのだ。しかし、エルローの嬉しそうな顔を見れば、違う事は明白だった。
「そう誓った時のお前に失敗など無かったな」
「さっそく捜索を開始いたしますので、失礼いたします」
深々と頭を下げて、リュクセルは踵を返す。アルシラの事を見ようともせず。
今にも部屋を出ていこうとする大きな背中を、アルシラは焦って追いかけた。 エルローに対して形だけの挨拶をしてから、通路に飛び出す。
少し出遅れただけだと言うのに、颯爽と歩くリュクセルは、ずいぶん先へと進んでいた。アルシラは全力で駆け、リュクセルの前に回り込んだ。
「どうしてですか」
訊ねると、リュクセルは足を止めた。
「フィアナランツァ様は亡くなられました。私ですらそれを知っています。貴方は、もっと」
「そうだな」
リュクセルはアルシラの肩に手を乗せると、あまりにも簡単に、アルシラを脇に追いやった。
だがアルシラとて、その程度で引きはしない。リュクセルの腕にしがみつき、なお制止を続ける。
「判るだろう、アルシラ。今私が捜すべきは、フィアナランツァ様ではない」
「ならば、誰だと」
「エルロー様がフィアナランツァ様だと思い込んでいる人物だ」
平然と言い切るリュクセルの様子に腹が立ち、アルシラは再び正面に回り込んだ。リュクセルの両腕を抑え、見上げる。たとえ奥に潜む混沌とした感情に飲み込まれ、支配されたとしても、ただ一つ輝く右目を、けして逃すまいとした。
リュクセルが言おうとしている事全てが、判らないわけではなかった。頭では理解できている。だが、感情がそれを受け止めようとしないのだ。
なぜ、エルローのために、そこまでしなければならないのか。
「私は、エルロー様は狂っていると思います。もしかすると、フィアナランツァ様が亡くなられた事を知った日から、ずっと」
だから何もかも従う必要はないのだと、そう伝えたかった。
「そうかもしれないな」
リュクセルは一瞬右目を伏せ、大きな手を滑らせる。優しい手つきでアルシラの髪を撫で、頬に触れた。無骨な指は、アルシラの唇に。
「リュクセル様?」
アルシラはリュクセルの手に己の手を重ねる。リュクセルの、まるで触れる事を恐れているような慎重な動きに、疑問を持ったからだった。
「エルロー様も、私も、狂気の中に居るのかもしれない」
リュクセルの手はアルシラを離れ、彼の左目を覆い隠す眼帯に触れる。
何を望み、何を諦め、何を決意しているのか――その奥にこそ、本当のリュクセルが隠れているような気がした。
「私はときどき判らなくなる。自分が正しいのか、間違っているのか」
「リュクセルさ」
「アルシラ」
リュクセルは見えるもう片方の目をも手で覆い隠した。
「お前は逃げた方がいい。エルロー様からも、私から……」
一瞬にして頭に血を上らせたアルシラは、半ば強引に青年の言葉を止めた。精一杯背伸びをし、唇を重ね合わせる事で。
ほんの短い時間だったが、離れた時にはすでに、アルシラは涙を浮かべていた。それでも、強い眼差しでリュクセルを見つめた。目を反らす事なく、リュクセルを逃す事もなく、ただ真っ直ぐに。
「私は貴方とは違います」
今更涙を隠す事はできない。けれどできるかぎり気丈振舞おうと、アルシラは声を震わせる事なく言い切った。
「私は、仕える主の間違いを認める勇気も、それを正そうとする勇気も持っています。ですから、私が貴方の元を離れる事などありえません。たとえ、貴方が最も大切にしている方の命を奪う事になっても」
アルシラはリュクセルの前から走り去る。
言葉で想いが通じないのなら、行動で知らしめてやろうと思った。リュクセルがエルローの望みを果たそうとするのなら、全力で阻止してやろうと。
そうでなければ、悲しすぎる。アルシラ自身も、リュクセルも――何も知らない少年も。
Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.