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一章



 足を踏み入れる者が限られている狭い裏庭は、正面の庭のように館の主や客の目を楽しませる役割がないため、さほど整えられていない。そのため、今日のように雨が降ると、むき出しの土のあちこちにあるくぼみに、水がたまってしまう。
 水たまりの全てを避けて通るのは至難の業で、セインは水と、時には泥を跳ねさせながら、走った。走りながら、何度か振り返ってみる。以前、「仕事上関わる者以外、本館の人間には絶対に顔を見せるな」ときつく言われていた事を、思い出したからだった。
 だが、特に誰かが追いかけてくる様子はない。人を捜すような声も聞こえてこない。もしかすると後で怒られるかもしれないが、大きな問題にはならないだろう。安心したセインは、今度は前だけを見て走り続けた。
 陽当たりの悪い別館の軒先に到着すると、壁に寄りかかってひと息つく。春先のまだ冷たい雨、しかも痛いくらい強い雨からようやく逃れられ、再度安心したのだ。
 呼吸を整えてから顔を上げると、いつも見慣れた建物が、とても暗く、みすぼらしいものとして、セインの目に映った。
 原因は、直前に本館や庭園の明るい部分を見てしまったからだろう。安堵したのも束の間、悲しい想いが、セインの胸を占めた。
 しっかりした造りをしているし、それなりに広いし、言うほど悪い建物ではない。これほどの家に住めるのは、ある程度裕福な家庭だけで、多くの民は、もっと狭く古く小さな家に住んでいる。そんな家にひとりで――正しくはセインも一緒だが――暮らしているだけで、充分贅沢な事なのかもしれないが、やはりセインは悔しかった。この家で生きるセインの主は、ただの娘ではない。ガーフェルート伯爵令嬢のアーシェリナなのだから。
 セインはふと、割れたガラス窓越しに見た人物を思い出す。豪奢な服を着込んだ、貴公子然とした青年。綺麗な顔立ちも、艶めかしい黒髪も、アーシェリナに酷似していて、彼が何度か話に聞いた、アーシェリナの兄エルローなのだろうと、ひと目見るだけで判った。
 似ているのは、容姿だけだな。
 セインは泥を蹴って、入り口の前に立った。
 与えられた境遇は似ても似つかなかった。エルローは、窓の外には輝く庭が広がる大きな屋敷で暮らしている。しかもその屋敷は、いずれエルロー自身のものになるだろう。対してアーシェリナは――
 自分の事でもないのにふてくされながら、セインは扉を開ける。俯きがちにぶつぶつと愚痴をもらしながら、中に足を踏み入れる。それと同時に、ふわりと大きな布が頭にかかり、セインは反射的に顔を上げた。
「アーシェリナ様」
 セインに布を被せた少女は、可愛らしく唇を尖らせ、目を吊り上げていた。どうやら少し機嫌が悪いらしい。
 セインはごまかすように笑って、布でとりあえず顔を拭く。乾いているだけの布が温かく感じる現実に、自分がどれほど雨に濡れ、冷えていたのかを自覚した。
「すみません。この雨の中外に出ると言ったら、心配されるかと思って、読書中にこっそり出たのですが……余計にご心配をおかけしましたね」
 セインが素直に謝ると、アーシェリナはわざとらしいほど強く頷いた。それから、セインがの左手に握っている小さな桃色の花を指差した。頷いたひょうしに目についたのだろうか。
「これですか? アーシェリナ様のお部屋に飾ってあった花が、枯れたままになっていたので、俺が新しい花を摘んでこようと思ったんです。でも、人に見つかってしまって、慌てて逃げてきたので……一本だけしか」
 愛らしくはあるけれど、花弁が小さくつつましやかなその花の名を、セインは知らない。もしかしたら雑草の一種かもしれず、見せるのも恥ずかしいくらいだが、何もないよりはましだろうと勇気を奮い立て、セインは花を差し出した。
「すみません。こんな地味な花だけで。貴女にはもっと似合う花があったのに」
 つぼみが開くように、アーシェリナの表情が綻ぶ。白い頬には、ほんのりと薄紅色がのった。
 アーシェリナはそっと花を受け取り、次にセインの右手をとる。
「何でしょう」
 セインは黙ってされるがままになった。それが、アーシェリナからセインに言葉を伝える、数少ない方法のひとつだからだ。
 アーシェリナは声を失っていた。
 正確に言えば、完全に失っているわけではない。本気で話そうと思えば、話す事はできる。しかしそれは、発狂するかもしれないほどの、強い激痛と引き換えだった。
 セインがここに来てまだ間もない頃、突然やってきた魔術師が、アーシェリナに魔法をかけた。ギアスと呼ばれる、制約の魔法をだ。その日からアーシェリナは、語る自由を失った――後で聞いた話によると、その魔術師を呼んだのは、アーシェリナの父エイナスだったそうだ。
 エイナスがどうしてそれほどまでにアーシェリナを苦しめるのか、セインには判らなかった。
 セインは元々、エイナスに対してさほど悪い印象を持っていなかった。奴隷と言う身分に落ちたのは彼のせいと言えるが、思っていたほど悪い扱いは受けていないし、そもそも、あの時彼がセインを買ってくれなければ、セインは絶対に守らなければならないものを見捨てなければならなかった。だから、エイナスは優しい人なのかもしれないと思っていた時期が、セインにはある。
 だが今は、とてもではないが、優しいなどと思えなかった。アーシェリナだって、本館で暮らすエルローと同じ、可愛い子供のはずなのに、薄暗い別館に閉じ込める事で外に出る自由を奪いながら、更に言葉までも奪うなどと、いくらなんでも酷すぎるではないか。
 喋れなくなった日を境に、魔術に関する本を読みふけるようになったアーシェリナを想うと、セインはときどき、悔しさに涙しそうになる。本来頼るべき父親に頼れないアーシェリナは、ひとりで、自ら、見つけようとしているのだ。制約を破る方法を。
(ありがとう)
 セインのあまり大きくない手の平に、アーシェリナは一文字一文字ゆっくりと、指で書き示す。できるかぎり短い文章で、想いを伝える。
(私はこの花が一番好き)
 そしてアーシェリナは、一点の曇りもない、極上の微笑みを浮かべるのだ。
「アーシェリナ様……」
 どうしてだろう。この人は、こんなに綺麗な人なのに。
 奴隷などという卑しい身分の自分に触れる事をためらわず、微笑みかけて、優しくしてくれる人なのに。小さな花に、喜んでくれる人なのに。
 どうしてエイナス様は、彼女を愛してあげないのだろう――


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Copyright(C) 2009 Nao Katsuragi.